step 16. ……君の気持ちは?
「……本当に。あなたが帰ってきてくれて嬉しいわ、アルバート」
そう言って微笑んだソフィアの優しい表情は、アルバートとよく似ていた。しかしすぐにソフィアは笑みを深め、アルバートと同色の瞳をいたずらっぽく輝かせる。
「それに、こんなに可愛らしいお嫁さんまで連れて帰ってくるなんて! あなたは優しい子だから、押しの強いどこぞのお嬢さんに押し切られるんじゃないかと心配だったのよ」
アルバートの持つカップとソーサーが、がちゃんと音を立てた。幸い中身はかなり減っていたようで、こぼれはしなかった。
「は、母上……」
「ねえ、リゼット? 恥ずかしがって手紙では全然教えてくれなかったのだけど、アルバートは何と言ってあなたに求婚したの?」
今度はリゼットも動揺した。カップを持つ手が震え、みっともなくならない程度に急いでテーブルに置く。
隣に座るアルバートも同様だった。
「母上、お願いですからその話は……」
「あら、あなたってばほんとに照れ屋さんね」
「私もぜひ聞きたいですね。で、どうだったんだ、リズ」
愉快そうな笑みを浮かべ、ルイスも話に乗ってきた。
何か答えなければならない、とリゼットは焦った。アルバートと王都で顔合わせをした頃の記憶を必死で思い返す。
(……あら?)
動揺と焦りから、リゼットはそのとき思い至った言葉をそのまま口にしてしまった。
「……そういえば、私たち……いつの間にか婚約者になっていたような気がしますわ」
求婚らしい求婚は、アルバートもしていなければリゼットもされていないのである。
しかし家同士の縁とはそういうものだろうと思っていたので、リゼットは今まで気に留めていなかった。
リゼットが何気なく放った言葉は、その場の空気を一変させる力を持っていた。
アルバートの顔が、すっと青ざめる。
ずっと黙っているテオドールの表情は変わらず厳しいままなので何を考えているのかは読み取れないが、心なしか眉が先ほどよりも寄せられているように見えるし、ルイスは呆れと微かな怒りを混ぜたような視線をアルバートに送っている。
ソフィアは、柳眉を吊り上げて怒りを隠そうともしていなかった。
「アルバート、あなた……」
状況を理解して、リゼットは慌てた。アルバートが悪いとは思えなかったのである。
「あの、これは家と家とのご縁ですし、アルバート様はきちんと父に申し込んでくださいました」
「そんなのは当然のことなのよ、リゼット」
母親にじっとりとにらまれるまでもなく、アルバートは自身の失態に頭を抱えたい心地だった。リゼットの方へ体ごと向いて口を開くが、肝心の言葉は何も出てこない。
一方でリゼットは、アルバートばかり責められているのもおかしなことだと感じ始めていた。求婚の言葉を口にしなかったのはリゼットもだ。このときリゼットの頭からは、女性の方から婚約を申し込むようなことは貴族社会ではほとんどありえないということがすっぽりと抜けていた。
このような状況で、冷静さを欠いた友人と妹がとんでもないことを言いだしかねないと思い至ったルイスは、助け舟を出してやることにした。単純に、大切な友人であるアルバートが、両親の前で恥ずかしい思いをするのを気の毒に思ったためでもある。
「二人とも、大事な話を忘れていたみたいだな。……どうです? ここは一度、お開きにしませんか? 晩餐の支度もありますし」
「……そうね。アルバート、ちゃんとリゼットとゆっくり話をするのよ」
晩餐まではまだ時間もあったが、各々部屋へ戻ることになった。意を決したように立ち上がったアルバートが、リゼットへ手を差し出す。
「部屋まで送るよ、リゼット」
歩きながら少しでも話そうということだろう。ずっと視線を合わせてくれなかったアルバートの目をまっすぐに見つめて、リゼットは礼を言って手を取った。
広々とした廊下は、ひんやりとしている。少し距離をあけて歩き出した二人の間の気づまりな沈黙は、すぐにアルバートによって破られた。
「……待ってほしいんだ」
何を、と言わなくても、リゼットは理解した。求婚の言葉だけでなく、アルバートがいつか話すと言ってくれていたことも含んでいるのだろう。
はやく話してほしいと思わないでもなかったが、理由を聞いてからでも遅くはない。リゼットはもともと気が長い方だった。
しかし、続くアルバートの言葉には戸惑いを隠せなかった。
「そもそも、僕は今迷ってる。このままこの話を進めていいの、リゼット」
「もちろんです。……後で話そうと言ってくださったのに、あれから……」
あのガーデンパーティでの話の続きはできないまま、ノーコットまで来てしまった。非難めいた口調になってしまったことに気づき、リゼットは途中で口をつぐむ。
「あのとき、衝動で口にしてしまったことは、僕も悪いと思ってる。でも、今は違う」
少し前を歩いていたアルバートの表情は、リゼットからは見ることができない。リゼットが不安な思いで後ろ頭を見つめていると、アルバートはふと立ち止まった。
気づけば、二人はリゼットの使っている部屋の前まで来ていた。
アルバートがリゼットを振り返る。おろされている前髪が、かすかに目の上にかぶさっていた。隙間から見える藍の瞳は暗く揺れていた。
「……聞いてしまったんだ。あの日、フィリップが、君に言った言葉」
驚いて、リゼットは大きく目を見開いた。
「あんな風にフィリップが言っていたっていうのに、君は平然と婚約発表の場で笑っているし」
どこか責めるようなアルバートの口調に、幼さが混じる。
「君はフィリップが好きだったんだろう? どうして彼の手を取らなかった」
初めて見るアルバートの苛立ちを真正面からぶつけられて、リゼットは息をのんだ。呼吸が浅くなり、体は自然と後ずさる。背中が部屋の扉にぶつかったことにも驚いて、リゼットの肩がびくりと揺れた。
それを見て、アルバートは我に返ったらしい。リゼットの態度を怯えと取ったのか、罪悪感のにじむ瞳を隠すように目を伏せた。
徐々に落ち着いてきたリゼットは、深く息を吸う。
「……アルバート様」
目を合わせたくて呼びかけたが、アルバートはさまよわせた視線を結局下に戻してしまった。
その態度に、今度はリゼットがほんの少し心を波立たせた。
「あの日、確かに、フィル兄さまは私に言いました。心配だったから、名乗りを挙げようかとほんの少しだけ思っていた、と」
できるだけ冷静に、あの日の会話を思い出す。リゼットの声は落ち着いていた。
「アルバート様は、きっとそこだけ聞いていらっしゃったのね。そうでなくては、こんなこと言い出さないはずよ」
アルバートの視線が、ゆっくりとリゼットに向けられる。
「あの後、フィル兄さまは言ったんです。私とアルバート様は、きっと上手くやっていけるだろうって」
リゼットは微笑んで見せた。
「きっと、心配していたことを伝えたかっただけだったんでしょう。本気で私と結婚しようだなんて考えていたなら、アルバート様との仲を認めるようなこと、あんなに嬉しそうに言うはずないと思います」
言いたいことを全部言ってしまって、リゼットはすっきりとした気持ちでアルバートを見つめた。アルバートも、これで憂いを晴らしてくれるだろうと思ったのだ。
しかし、リゼットの予想に反して、アルバートの瞳は陰ったままだった。
「……君の気持ちは?」
廊下に並んだ小さな窓の外を見るように、アルバートは再び視線を外した。
「君は彼といたほうが、幸せになれるんじゃないか」
暗くよどんだ声音だった。
(どうしてこんなに頑ななの?)
リゼットは知らず眉根を寄せる。ノーコットに来るまでの道中で感じていた不安が、急によみがえってくる。アルバートはリゼットを案じるようなことを言ってはいるが、こうまで頑ななのは、本音が別のところにあるのではないかという考えが浮かんできた。
(私がフィル兄さまを好きだったから、ではなく、アルバート様が婚約を解消したいと考えていらっしゃるとしたら……)
突き放されたような気持ちと、こちらを避けるようなアルバートの態度に、とうとうリゼットは小さな怒りを覚えた。両手をきつく握りしめ、目の前の婚約者を見据える。
「アルバート様の方こそ、私ではご不満なのではないですか。すぐに利益にならない事業に援助してまで縁を結ぶ相手が、世間知らずの田舎の伯爵令嬢では」
リゼット自身が驚くほど、冷えた声が響いた。
はじかれたように、アルバートが視線を戻す。彼の目は大きく見開かれていた。
「そんなこと、言っていないだろう」
「アルバート様が王都の社交界で花嫁探しをしていれば、きっともっと高貴なご令嬢とも……」
みなまで言わずに言葉を切ったリゼットの表情を、アルバートは瞬きもせず見つめていた。
その視線にひるまず見返して、リゼットは続ける。
「この婚約に納得していらっしゃらないのは、アルバート様の方なのではなくて? 私がお嫌なら、フィル兄さまのことを持ち出したりせずに、はっきりおっしゃってくださいな」
気丈に言い切ったリゼットだったが、終わりの方ははっきりと涙声になっていた。淡いブルーの目に浮かぶ涙の粒に、アルバートがたじろぐ。
「リゼット……」
名を呼ぶその声が、アルバートらしい優しいものだったので、リゼットの両目からはとうとう涙が零れ落ちた。頬を伝う涙が冷えていく感覚に、リゼットの頭も徐々に冷静になってくる。
(私、怒りに任せてなんてことを……)
もともと、かつての恋を不誠実にも婚約者に伝えてしまったのはリゼットだ。優しく実直なアルバートが、リゼット側に理由があるかのように婚約を解消したがるとは思えない。頭に血が上っていたときには思い至らなかったことが、次々とリゼットの頭に浮かんだ。
「ごめんなさい……」
やっとの思いでそれだけ言うと、リゼットはぱっと身を翻し、与えられた部屋に滑り込んだ。
閉めたばかりの扉に身を預け、リゼットは素早く涙をぬぐう。自分に泣く資格はないと思った。卑屈な思い込みからアルバートを責めてしまったことを、ひどく後悔していた。
扉の外から、こちらをうかがうような気配がする。やがて、静かな声が届いた。
「僕の方こそ、ごめん」
その言葉を残して、アルバートは去っていったようだった。今はお互いに、冷静に話をする準備ができていない。遠くなっていく足音を聞きながら、リゼットの心は沈んでいった。