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すっかり寒くなってきた。
もう、冬だ。
赤や黄色、茶色、緑、様々な色で覆われていた山は、今や一面すっかり朽ちた茶色になっている。
今日で狩りも最後だ。明日から冬篭りをしよう。
巣穴を見ると、猫はまだ眠っている。
そういえば、
俺はふと気が付いた。
こいつにミルクとかやらなくていいのかな。
俺は人間だった頃猫を飼ったことはなかったし、猫に対する知識も全くない。だからこそ、急に不安になった。ミルク、やらなきゃいけないのだろうか。
明日から冬篭りだし、そうだ、最後にこいつにミルクを取ってきてやろう。
とは言っても、この辺りは酪農はやっておらず、乳牛はいない。
どうってことはない、民家に侵入すればいいのだ。
この近辺の住人はほとんどが年寄りだし、田舎ゆえに鍵をかけている家は少ない。
幸い俺は人間だったから、知っているのだ。家の中の牛乳の在りかを。
住人が出かけている間、冷蔵庫から牛乳を拝借すればいいのだ。
空き巣をするという感覚はなかった。俺はもう、人間ではないのだから。
俺は内心、わくわくしながら民家へと向かった。
ミルクを持って帰ったら、あいつ、あの妙な鳴き声で出迎えて、喜んでくれるだろうか。
また俺のでかい爪にすり寄ってくるのだろうか。
あいつの反応をあれこれ想像しながら山を下ると、屋根瓦が見えてきた。
息を殺して家の様子をうかがうと、ちょうど玄関から人が出てきた。農作業着の老人。どこかで見たような気がしたが、そんなことはどうでもよかった。
男はそのまま軽トラックに乗り込んで、出かけて行った。
俺は山を降りて、民家の裏に回った。
案の定、勝手口には鍵がかかっていない。俺はそっとドアを開け、自分の大きな身体をねじこんだ。
家の中は、人間の匂いがした。―――人間の匂いってのがどんなものなのかうまく説明できないし、そもそも俺も人間だったわけだが、そのときはそう思った。
勝手口のすぐ目の前に台所はあった。その隅にたたずんでいる冷蔵庫もすぐに見つかった。
ぱかりと中を開けると、ひんやりとした空気が吹き出してきた。冷蔵庫か、なんだか懐かしい気持ちにさせた。飲み物はたいてい、開けてすぐ右側にあるのだ・・・俺は人間だった頃の記憶をたどった。予想通り、牛乳はそこにあった。
俺は鋭い爪でパックを破ってしまわないよう、そっと牛乳を持ち上げた。冷蔵庫をきちんと閉めて、よし、帰ろうとしたとき、
「く、熊だ」
どこかで聞いたことのある声がした。
見ると、さっきの農作業着の老人が、目を見開いて台所の対角線上に立っている。
俺はとっさに台所を飛び出した。
両手で牛乳を握り締めたまま。
がしゃん、がらがら、ぱりん。
俺のでかい図体は家の中のあちこちにぶつかり、後ろから様々な物が割れたり落ちたり壊れたりする音が聞こえてきた。
俺は狭い勝手口から這うように出た。牛乳がこぼれ出している。くそ、牛乳持ったままじゃ、2本足じゃ走りにくい。
勝手口のすぐ目の前は山だ。駆け登ろうとしたとき、鼓膜を裂くような銃声が身体を突き抜けた。
目が覚めて、くまさんがいないことに気が付いた彼女は、慌てて巣穴を駆け出しました。
くまさん、くまさん。どこ行っちゃったの。
彼女は不安でした。
誰かと一緒にご飯を食べること。誰かと一緒に出かけること。誰かと一緒に眠ること。
誰かにおかえりなさいと言うこと。
全て彼女がいちばんほしかったものでした。
くまさんはそれを与えてくれました。
ひとりにしないで、くまさん。
そのとき、ぱぁん、と一発の銃声が聞こえてきました。
その音は周りを取り囲む山々にこだまして、何度も何度も、たたみかけるように彼女の身体中に響いてきました。
「くまさん、」
彼女は耳をぴんと立てて、銃声のした方へ向かいました。
俺は最初何が起きたのかわからなかった。
目の前に、牛乳の真っ白な水たまりができている。
それがだんだん、真っ赤な水たまりと混ざり合っていく・・・
血だ。俺の血。
俺、撃たれたのか。
首に力を入れて上を見ると、農作業着の老人が、猟銃を片手に、恐る恐る近付いてくる。
くそ、ちょっと待てよ、じいさん、わかったよ、悪かったよ、牛乳くらいスーパーで買って返すからさあ、だから、
俺はもごもごと人間のことばを喋ったつもりだったが、もちろん聞こえてはいまい。
俺は、ここで死ぬわけにはいかないんだよ。
ぐぐっと身体に力を入れて、起き上がる。
左の脇腹の辺りに痛みが走る。そこから血がぼたりぼたりと落ちてくる。
老人がまた銃を構えた。
待てよ、まだ撃つのかよ。
死にたくないんだよ、やめてくれよ。
俺は倒れこむように、ばしっとその銃を殴った。
「うあ゛っ」
地面に落ちた銃の上に、ぽたぽたと血も落ちてきた。
どうやら俺の鋭いやたらでかい爪が、老人の手もかすめてしまったらしい。
あ、ごめん。こっちだって相当痛いんだからな、許してくれよ。
どうせ通じないから心の中で謝りながら、俺はのそりと山へ向かった。
俺は、俺は、死ぬわけにはいかない。
死にたくない。
せっかく明日からゆっくり冬眠できるってのに。
あいつと一緒に。
俺が死んだらあいつはどうなる。
だいぶ元気になったとは言え、まだほんの子どもじゃないか。
俺が死んだら、あいつに寂しい思いさせちゃうじゃないか。
死んでたまるか。
今、帰るからな。待ってろよ。
また、銃声が響いた。
俺は咆哮を揚げた。
銃声を頼りに山沿いの小さなあぜ道を走っていると、どこからか血の匂いが漂ってきました。
彼女は鼻をひくひくさせて、その方向へ向かいます。
着いた先は、民家でした。
同時に、また一発、銃声と共に野太い咆哮が聞こえてきました。
彼女は慌てて民家の裏へ向かいます。
その先には、銃を持った人間と、大きな、黒い、のっそりとした毛むくじゃらの動物が、血だらけになって横たわっています。
「くまさん!」
にう、にう、という、聞き覚えのある妙な鳴き声に目を開けると、あいつが横にいた。
あいつは血溜まりにびしゃびしゃと入ってきて、俺の顔をのぞきこんでくる。
ああ、お前、目ぇ覚めたのか。
ごめんな、俺、お前にミルク持って帰ろうとしたんだけど、
全部こぼしちゃって、
俺も、ちょっと、ケガしちゃってさ、
ごめんな、ごめん・・・俺・・・
あいつは相変わらず、にうにうと喉が張り裂けそうな悲痛な鳴き声をあげている。
・・・わかるよ、寂しいんだよな。
ずっと一緒にいたかったんだよな。
俺もだよ。
彼女は泣いていました。
泣く、だなんて、猫にできる芸当なのかはわかりませんが、確かに彼女は泣いていました。
「くまさん・・・、くまさん、死なないで」
彼女はくまさんの顔をのぞきこみました。
ぼんやりと薄く目を開けて、彼女を見ています。
「いやだよ・・・いやだよぅ、ひとりにしないで」
彼女はくまさんにすり寄ります。
「ずっと傍にいたいよ・・・くまさん」
泣きじゃくる彼女の頭を、ぽん、と叩く手がありました。
それは、5本の柔らかな指を持った、人の手でした。
「ごめん、ごめんな・・・俺、もう・・・」
そのとき俺は自分の声を聞いた。
「もう、傍にいてやれそうに、ない・・・」
あいつの頭をぽん、と叩いて、撫でてやったその手は、鋭くてでかい爪を持った前足じゃなく、紛れも無い、人間の手だった。
「くまさん・・・?」
その声は、初めて聞くあいつの、声だった。
ぼんやりとした視界には、子猫ではなく、人間の女の子の姿が映っていた。
俺はふっと笑った。
「皮肉なもんだな・・・・・・人間だった頃は、人の顔なんて見たくなくて、人の存在なんて・・・わずらわしくてならなかったのに・・・」
あいつは俺の手を握ってきた。
あいつの手も、細い、小さな指をきちんと5本揃えた、人の手だった。
「お前の手、あったかいな・・・。お前の顔も・・・可愛いじゃねえか、こら」
俺はあいつの頬にそっと手を当てた。あいつはぽろぽろと涙をこぼしている。
「わたしも・・・人間だった頃は、人の存在なんて感じれなくて、いつもひとりで・・・」
俺もそうだ。
俺もひとりだった。
ひとりを望んでいるふりをしていた。
人に疎ましがられて、誰からも必要とされず、傷付けられるのはもうたくさんだったから。
人間なんて、どうせ傷付け合うだけなのだから。
だけど、人の手が、頬が、存在が、こんなにもあたたかいなんて。
熊になってから、ようやく気が付いた。
「だけど、猫になってから、ひとりじゃなくなった。くまさんがいてくれた」
俺は泣いていた。
泣きながら、笑顔でいた。
泣くことも笑うことも忘れていたはずだったのに。
涙も、血も、あたたかかった。
「お前に会えてよかった。一緒にいることができて、よかった」
「わたしも」
あいつは、俺の手を胸元でぎゅっと抱きしめた。
あぁ、あったかい。
感覚が続くうちだけでいい。
最後に、人のぬくもりを感じていたい。
「ありがとうな」
警察が到着すると、そこには、こぼれた牛乳と、大きな血溜まりと、熊が一瞬のうちに消えたと騒ぐ老人の姿だけがありました。




