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気が付くと、深い山の中をのそのそと歩いていた。
足を踏み出す度にがさり、がさり、と足元の枯葉が音を立てる。
何で俺はこんなとこにいるんだ。
歩きながら、記憶をなぞる。
そうだ、俺は、死んだんだ。わざわざここに死にに来たんだ。
死んだのになぜこうしてまた歩いてるんだ。
地獄にしてはのどかすぎる。天国にしては薄汚すぎる。10月の山の中。
あんなにたくさん薬を飲んだのに。意識が遠くなっていく自分を心の中で嘲笑いながら、目を閉じたのに。
まさか死んでないんだろうか。俺は、まだ生きてるのか。
いちばん考えたくなかった結論に達しようとした頃、突然視界が開け、小さな池の前に出た。
光が差し込み、花が咲き、水際には小鳥たちが集まっている。オアシスのように美しい場所だ。
ああ、やっぱり俺、死んだのかな。でもまさか天国に行けるとは思わなかった。いや、もしかしたらこの池に飛び込んだら、その先は地獄なのかも知れないな。
そんなことを思いながら池に近付き、水面をのぞいてみた。鳥たちがばたばたと慌てたように飛び去った。
その先に見えたのは、地獄の風景でもなく、かといって天国の宴でもなく、そして自分の姿ですらなかった。
のっそりと大きい、真っ黒い、熊。
俺は後ろを振り向いた。
何もいない。
もう一度池をのぞいた。
熊だ。
そっと水面に手をさしのべると、池の中の熊も手をさしのべてきた。
そのとき俺は初めて自分の手を見た。
長い、鋭い爪が生えている、毛むくじゃらの手。
俺、俺、熊になっちゃった。
竹やぶの中で、彼女は立ち尽くしていました。
斜め下を見つめて、ゆっくりと何度もまばたきをしながら、立っていました。
もう、くたびれちゃったんだ。
だけど休める場所がない。
寄りかかるものも、手を差し延べてくれるものもない。
もうこれ以上歩けないよ。
体がふらふらして自分で自分を支えきれなくなって、ひざからがっくりと枯葉の上に落ちました。
がざり。
同時に彼女は何かをつぶやきましたが、枯葉の音にかき消されました。
胸元で両手を握り締めて、ひざを折り曲げて、丸くなりました。
寒い。ただ、寒い。
彼女は何やら口を動かしましたが、もはや自分のことばも聞こえません。
代わりに一声、なきました。
かくして彼女は猫になりました。
なんなんだ、何でこんなことになったんだ。
きっと夢だ、夢に違いない、
それとも薬の飲みすぎで頭がおかしくなったのか、
訳がわからないまま、俺はひたすら走っていた。
4本足で。
そのうち、木々の向こうになにやら光るものが見えた。
屋根瓦。民家だ。
山を抜け出れば現実に戻れるかと甘い期待を寄せてみたが、無駄だった。民家の奥から出てきた農作業着のじいさんが、俺を見るなり固まって、後ずさりして「く、熊だ」と吐いたからだ。
違う、俺は、熊じゃない、俺は2本足で立って近寄ろうとしたが、彼は腰を抜かしそうになりながら逃げて行ってしまった。
くそ、熊になってまで人に疎ましがられるなんて。
俺はのそのそと民家から離れた。
山沿いの小さなあぜ道を歩きながら、俺はだんだん冷静さを取り戻してきた。
そうだ、これが夢だろうが現実だろうが熊になろうが関係ない。
もう一度死ねばいいんだ。それだけのことだ。
そう思い付いたとき、何か聞こえた。
声だ。
人の声とも別のものの声ともつかない、か細い小さな声。
立ち止まって耳を澄ますと、また聞こえた。
人のつぶやきにも、動物がのどを鳴らす声にも聞こえる。
辺りを見渡すと、そこには小さな竹林があった。
ゆっくりと足を踏み入れる。がさり、ぱきり、足元の朽ちた竹の葉が、竹林独特の冷たい静寂を破った。
どうやら誰もいないようだ。でも確かにここから聞こえてきた。
もう一歩踏み出そうとしたとき、俺はやっと足元のそれに気付いた。
猫だ。
小さな、俺の手で握り殺せそうなくらい小さな猫が、枯葉に混ざって横になっている。
それは仔猫にしてもあまりにも小さかった。というか、かなり痩せ細っていた。おそらく母親と離れて餓死したんだろう。
さっき聞こえた声らしきものは、この猫だったんだろうか。だけど死んでいるように見える。
爪の先でとん、と軽く小突いてみる。
動かない。
やっぱり死んでいるようだ。
俺はその場を立ち去ろうとした。
「くまさん、」
突然、声が聞こえた。
何かが触れたのを感じて、彼女はゆっくりと目を開きました。
すると、目の前に、大きな黒い熊がのっそりと立っています。
「くまさん、」
彼女は声をあげました。
小さな、か細い声でした。
「くまさん、」
彼女はよろよろと立ち上がり、“くまさん”に歩み寄りました。
その小さい猫は、まるで今初めて立ち上がったかのようによたよたと俺に近付いてきた。
にう、にう、と何度も妙な鳴き声をあげながら。
猫は俺のところまでなんとかたどり着くと、右手(今となっては前足だが)にすり寄って、小さく一声ないた。
「くまさん、」
彼女はくまさんにすがりつきながら、言いました。
「傍にいてください、お願い」
それはまるで泣いているかような鳴き声だった。
何かにすがられる、それは俺にとって初めての経験だった。
俺は困惑しながらも、少し考えて、言った。
「来るか、一緒に。な」
猫は俺の言ったことがわかったようで、嬉しそうにのどを鳴らして甘えた。
考えてみれば、本当に熊になったのなら、死ぬ必要はもうないのだ。
人間だった俺が直面してきた困難に、悩む必要がなくなったのだから。
ただ俺は、逃げたかっただけなんだ。
人の生きる世界から。




