01 星のない空の下で #1
長久保セリは、突然の目覚まし時計のアラーム音で目を覚ました。
七時二十分。
いつもの起きる時間。
セリはいつもこの夢を見ると、夢と現実の区別がなかなか付かず、しばらくの間ぼうっとしてしまう。
やがて現実世界に意識が戻ってきた。
ふと周りを見回すセリ。
十二畳ほどの広さのあるセリの部屋には、クリーム色のカーテンのかかった大きな窓と、広いベランダがある。
明るい色の壁紙が、出窓のカーテン越しに入り込む朝の光に反射して、部屋の中を眩しく照らしている。
若草色の肌触りの良いカーペットや、落ち着いた木目調の家具などは、この家を新築した時にセリが選んだ物だ。
セリは一つため息を付いて、クィーンサイズの広いベッドから下りた。
(またいつもの暗い夢かぁ…。)
セリは、一人で寝るには広すぎる自分の部屋を横断し、部屋の中に設置されている洗面台に向かい、学校へ行く支度をし始めた。
洗面台にある大きな鏡は、セリのほぼ上半身を映している。
快活そうな濃い茶色の瞳のセリ。
幼い頃は真っ黒に日焼けしていた肌も、最近じゃ幾分か色が抜けてきた。
柔らかそうな茶色がかった長い髪。
その寝癖の付いた髪の毛をとかしながら、セリはいつものようにブツブツ言い始めた。
「…色が浅黒いなぁ。ガキっぽいし、夢の中の『私』とは大違いじゃん。」
そこで、母親に朝食に呼ばれる。
非常に時間に厳しい母は(厳しいのは時間だけじゃないが)、ルーズなセリを、教師が生徒に注意するかのように叱る。
セリは幼い頃から、母親には頭が上がらないのだ。
セリは制服を着て、鏡の前で襟を正し、急いで朝食に向かう。
セリの通う高校の制服は、身体にかなりフィットしたデザインで、シルエットが綺麗な事で人気がある。
通学カバンは麻で出来た丈夫なショルダーバッグで、これもなかなか好評だった。
朝食を終え、全て身支度が終わり、靴を履くため玄関で屈んでいると、長いストレートの髪の毛がパラリと肩から落ちた。
髪の毛を伸ばしてから三年半が経つ。
背中の中間ほどまで届く長い髪は、本来活発なセリには邪魔なだけだった。
生まれてこのかた、七五三の時でさえ、一度も肩に髪の毛が触れるほど伸ばした事などなかったのだ。
すっかり伸びた髪の毛を見て物思いにふけり、つい出発時間を忘れてしまったセリは、大慌てで玄関を出る。
いつもの朝だった。
セリは大急ぎで駅の改札を通り、階段を駆け上ってホームに滑り込む。
電光掲示板に表示されている次発の電車案内を見上げて、セリは荒い息を整える。
乗車口付近の行列に並んだと同時に、タイミング良く電車がホームに入ってきた。
セリは必ず、いつも同じ電車に乗る。
必ずいつも決まって、同じ車両に乗る。
セリはいつもの場所に立っている、『彼』を見つける。
そしていつも決まって、『彼』はセリの方を振り向く。
「おはよう、秋草。」
そう言いながらも、セリは『彼』をなかなか直視出来ない。
「おはよう、セリ。」
『彼』は、笑顔で答える。
セリは雷に撃たれたように息を飲んで、一瞬動けなくなる。
(…これだ。私はこの笑顔に弱いんだ…。)
私は元々、この笑顔に騙されたのだ。
********************
『彼』と初めて会ったのは、中学二年生の時。
セリは、両親の会社の都合で、新潟からこの地に引っ越してきた。
この時の自分は、襟足を刈り上げ寸前まで短く切り揃えた、まるで男の子のような髪型をしていた。
唯一性別が判断出来るとしたら、中学のセーラー服を着ていた事だけだったかも知れない。
「では、長久保セリさんは、秋草くんの隣に座ってもらいましょう。」
セリに与えられた席は、『彼』の席の隣だった。
席に着きながら、セリはそっと隣の男子の顔を覗いた。
だってこれからしばらく隣で、学校生活のほとんどを過ごす事になるんだもん、どんな人か知っておかなくちゃ、と思っていた。
セリの怪しい視線に気付いたのか、『彼』はセリに顔を向けた。
そして『彼』は、さっきセリに向けたように微笑んだのだ。
雷が、身体を走り抜けたような気がした。
セリはこれでも、お嬢様風に育ってきた。
母が怖くて、家の中や特に母の前では、大人しく振る舞っていた。
しかし生まれながらの性格からか、この地に転校してくるまでは、地元では真っ黒になりながら男の子のように遊んでいた、恋も知らない純情な子だった。
十四年間そうやって育ってきたセリの人生の中で、『彼』――秋草 亮の様な人種(?)には、お目にかかった事がなかったのだ。
サラサラの真っ直ぐな黒髪。
校則違反をギリギリ免れるかくらいの、セリよりも長いその髪は、ほんのり桃色の頬をした、日焼けとは縁遠い色白の顔を際だたせている。
首元も肩もほっそりしていて、セーラー服を着させたら、自分よりも良く似合いそうだ。
目鼻口のパーツが小さい顔に綺麗に収まって、バランス良く整っている。
「…座ったら?」
ぼうっと『彼』を見つめていたセリは、その声で我に返った。
「あっ、は、はいっ!」
慌てて座ろうとしたセリは、足を椅子にぶつけ派手な音を立ててしまい、クラスのみんなの注目を浴びた。
その男子は、そんなセリを見てクスッと笑う。
セリは初日から恥をかいてしまった。
セリは『彼』の端正な横顔を、チラリと横目で見た。
自分の住んでいた所には、決していなかったタイプ。
同い年とは思えないほど落ち着いていた。
清潔そうで、鮮麗されていて、特にその綺麗な瞳が印象深くて。
今考えてみれば、セリは『彼』に初めて会った途端、生まれて初めて恋をしていた。
しかし、セリの初恋は最悪だった。
転校してきて一週間ほど経った風の強い日。
確かあの日は、台風が近付いているとかニュースの天気予報で言っていた気もする。
転校手続きの書類を提出しに職員室に行く途中、校舎の裏で『彼』とばったり会った。
セリがドギマギしながら、『彼』に話しかけようとしたその瞬間、突風が吹いた。
『彼』の目の前で、いたずらな風がセリのセーラー服のギャザーのスカートをめくっていったのだ。
『彼』は一瞬瞠目した。
セリは『彼』の反応を見るどころではなかった。
その日のセリは、動物プリントの下着を履いていたのだ!
時間にしてみれば、一秒にも満たない速さだったと思う。
きっと顔どころか、目の中まで真っ赤になって(本当に目の前が真っ赤になった気がした)、大急ぎでめくれたままになっているスカートを押さえ下着を隠した。
セリはすでに涙ぐんでいた。
だって初恋相手の『彼』に下着を、しかもやたら子供っぽい恥ずかしい下着を見られたのだ。
セリは何故か、弁解のようなよくわからない言葉を発していた。
「大丈夫。」
『彼』は、にっこり笑ってそう答えた。
最初、セリは混乱していたので、『彼』の言った言葉がどういう意味かよくわからなかった。
「平気だよ。オレ、そう言うの見慣れてるから。」
セリの顔は、赤から青へ、そして真っ白になっていった。
『彼』にとって、自分は『女の子』ではなかったのだ。
あんな天使のような顔して、普通は女子の下着を見たら、顔赤らめるくらいするもんじゃないの?
セリは転校一週間足らずで、失恋した気分になってしまった…。
********************
セリが髪の毛を伸ばした理由はここにある。
せめて外見だけは、女子に見えるように。
せめて、せめて『彼』にだけは女子に見られるように、と思いを込めて。
あれから三年半、セリは髪を伸ばし続け、もう肩胛骨くらいの長さまで伸びている。
外見だけなら、一応女性に見られるようになった。
中身は相変わらず、だが。
秋草は、あの時の少年(少女?)のようなあどけなさが抜け、背もかなり伸び、より鮮麗さに磨きがかかり、より良い男になってしまっていた。
秋草は、学ランの詰め襟にかかる少し長めのサラサラの黒髪をしていて、目鼻の整った秀麗な顔立ちに、長身痩躯。
肌もそこいらの男子に比べ色白で玉のよう、少しひ弱そうに見えるが、肩は意外としっかりしていて、案外骨太なのかも知れない。
そして、初めて会った時もセリはそう思ったが、とにかく赤ちゃんの様な透き通った瞳をしているのだ。
光の具合で、青色と灰色が混ざったように見える不思議な色の瞳。
セリにとっては、秋草はどこを取ってもけなす事の出来ない、完成された人間なのだ。
そして、秋草に対するセリの気持ちは、全くあの時と変わらない。
今でも心の奥で、秋草に恋し続けている。
だから余計、始末が悪いのだ。
(秋草に惚れた私が悪いんだ…。)
セリはため息を付いた。
顔一つ分セリより背の高い秋草は、セリのため息を聞いて、セリをじっと見つめる。
高校のある最寄駅までほんの五駅。
下車駅の改札を出ながら、秋草が聞いてきた。
「何だよ、セリ。ため息付いて。悩み事?」
「別にー…。」
何となくムッとして、セリは秋草に答えた。
「また変な夢、見ちゃったとか?」
セリはギョッとした。
夢の話、秋草に話した覚えないのに!!
「ちょっと、秋草、やだ、誰に聞いたの!?」
「隣の席の野口敬子ちゃん。」
秋草はサラッと答えた。
「おしゃべりなんだから、敬ちゃん、もう!」
「どんなのなんだよ?その夢って。」
セリはちょっと話すのを躊躇っていたが、
「…夢自体は大した事ないの。ただもう、何度も見てるんだよね。」
と、少し迷いながらも、駅から学校までの道を歩く間、秋草に夢の話をした。
「周りは人気のない…、たぶんウチの学校の屋上で、一人の女の子が…ウチの学校の制服を着た女子が立っているの。髪も服も雨でぐっしょり濡れて、時間は…夜?夕方かな?厚い雲に空が覆われて、月も星も見えない。だけど何故か彼女の肩や髪に流れる雨粒が、光に反射して不思議と光ってるの。」
セリは、遠い目をして話を続けた。
「すごくすごく…その人、綺麗なの。」
「知ってる顔?学校にいる?」
質問責めの秋草。
秋草が興味を持ってる?
ちょっと機嫌が直ってきたセリ。
「うん、知ってる。目の前にいるじゃん。」
そう言い終わらない内に、秋草はスタスタと歩き去ってしまった。
セリは、またムカムカしてきた。
「ホントに…っ」
颯爽と歩いて行く秋草の後ろ姿に、セリは必死に声をかけた。
「ホントに夢の中の私って綺麗なの!すごく大人っぽくて…。」
〔待っていました、この時を…。〕
「もうちょっと昔から、女の子らしくしてりゃ良かったぁ。でもきっとあれが、私の未来の姿なのね。」
夢見る少女のように手を組み、うっとりするセリ。
それを見て、秋草は吹き出した。
おかしくてたまらないのか、思い出してまたクスクス笑ってる。
いつまでも笑っている秋草にムカムカしつつ、セリはいつも思っていた。
(夢の中の『私』なら、きっと秋草と釣り合うのに…。)
********************
「絶対、予知夢だよ!それ!!」
ビシッとセリに指差してきたのは、高一の時からの友達の野口敬子。
今時珍しく真っ黒な髪の毛に、かわいらしくカールをかけている。
セリより大人っぽくて、スタイルもグッと良く、お洒落な女の子だ。
かなり自信があるのか、敬子は、セリがいつも見る夢の話をすると、必ず『予知夢』だと言い張る。
それをいつも教室の中で大声で言うものだから、ちょっと周りから白い目で見られかけている。
だが今回はそんな敬子に、セリの目までもが冷たく突き刺さっている。
「何よ、その目は。信じてないの?」
「それよりもね、敬ちゃん…」
ちょっと凄みのある声のセリに、思わずたじろぐ敬子。
「その事、秋草 亮に話したでしょ?」
「げっっ!!」
さらに、後ずさる敬子。
「やだ…、亮くんに言わないでって言ったのにー…。」
敬子は、いつからか秋草を下の名前で呼んでいる。
セリは、『あきくさ』という響きが好きで、名字の方で呼んでいる。
「人のせいにしない!」
すごい気迫のセリ。
何とかセリの怒りを他の方向に向けさせようと、敬子は必死に頭をフル回転させる。
「よりによって一番知られたくなかった秋草に、もぅ~!」
敬子はセリの怒りを抑える方法を見つけて、急にわざとらしく明るく言い出した。
「でも、逆に良かったんじゃない?亮くんの興味を引けたんだから。」
怒りの勢いが止まり、途端に真っ赤になるセリ。
敬子はなんだかんだ言って、セリの性格をよく知っている。
セリって、ホント自分の気持ちが素直に顔に出るんだから…。
「真面目な話、結構真剣にセリの夢の話、聞いてたよ。」
そんな事、セリには信じられない。
「…からかわないでよ、敬ちゃん。」
すでに、セリの声が上ずってしまっている。
「あら、大真面目だよ、私。夢よりあんたに興味があるんじゃないの?」
ますます顔が熱くなってきた。
「だって中学から一緒なんでしょ?それに嫌いなら、毎朝一緒に登校してくる?」
「あれは…、私の方が押しかけてるんだもん。」
ドキドキドキ。
動悸がしてきた。
「だからー、普通迷惑だと思うなら同じ電車に乗って来ないって。いつも同じ時間の同じ場所にいるんでしょ?」
丁度そこでホームルームのため、担任の先生が教室に入ってきた。
出張していた敬子が、自分の本来の席に戻る前に、セリの方を向く。
すでにセリは、トリップしていた。
呆れ顔の敬子は、そんなセリを放って席に向かう。
(そんな…、秋草が私の事、嫌いじゃないとしたら、好きかもって事?)
セリは、勝手にどんどん想像を膨らませていく。
(確かにいつも朝会うのは、偶然じゃないよね。)
チラリと、自分の席より斜め三つ後ろの秋草の席の方を見た。
秋草は居眠り中だった。
いつも授業中は寝てるのに、何故か秋草の成績は、中の上を維持している。
(初めて会った中二の頃は別として、やっとやっと同じクラスになれたしね!)
まさに神様に感謝するかのように、セリはお祈りのポーズを取っていた。
「長久保さん、机の上に何もありませんよ。今はお祈りの時間じゃないのよ。」
気付くとすでに、一時限目の歴史の授業が始まっていた。
授業の担任がいつの間にか机の横にいて、セリの机をコツコツと叩いている。
周りから失笑が聞こえる。
教科書とノートを慌てて出しながら、そっと後ろを向くと、秋草が教科書の向こう側でクスクス笑っていた。
(ずるい、何でいつの間に起きてるの?)
********************
秋草の笑いは、授業が終わっても下校時刻になっても続いていた。
「もうっ、いつまでも笑うんじゃない!!」
それでも声を押し殺して笑い続けている。
(これと言うのも、秋草のせいじゃないの。)
セリは、下校時も笑いっ放しで話にならない秋草を恨めしく思った。
「もう知らない!」
プリプリ怒りながら、セリはさっさと前を歩いて行ってしまった。
「セリ、あんたって」
秋草はまだ少し顔が笑っていたが、しかし真面目な声で言った。
「オレが昔、知ってた人に似てる。瞳が綺麗な人で…。それでそうやって赤くなって、プリプリするトコ。」
直前まで怒っていた事も忘れ、セリは立ち止まって秋草を振り返った。
「昔、知ってた人?」
(私は…?)
「いつ頃…知ってた人?」
そんな事聞きたいのか?と秋草は言った。
セリは頷く。
だって、秋草はほとんど自分の事も昔の事も話さないから。
(私は、その人を知っている…?)
「だいぶ前の事だけど。でもその人の事はよく覚えてる。」
「へえ…、会ってみたいな、私に似てる…その人に。」
努めて平静にセリは聞いた。
秋草は、少し迷っているようだ。
一瞬の間があった。
「残念。オレもその時以来会ってないんだ。たぶん、もう一生会えない。」
そう言った秋草の顔は、どこか寂しげだった。
セリがそう感じただけかも知れない。
セリは後悔した。
今の聞き方もちょっと嫌味っぽかったかも。
秋草の後ろ姿を見つめながら、セリは今度は落ち込んでしまった。