第一話-4
拳を指で包まれる感触。掴まれたのだと気付いた時には既に手遅れ。みしみしと指が音を立てて軋んだかと思えば凄まじい力で体が持ち上げられる。
視界が回り、手足に柔らかな空気を裂いて行く感触を覚えて。
そして次の瞬間、衝撃が全身を駆け巡った。地面に叩きつけられたのだ。
背中から胸の方へと激痛が走る。肺から押し出された空気が無理矢理口を抉じ開けて逃げて行く。
げぽりという湿った、声と思えない声が自分の喉から出たのを男は聞いた。涙で視界が滲む。その目に、青年が映る。
悪魔に見えた。武器を構えている訳でもなければ、殺意を発している訳でもない。ただ無表情で立っているだけなのに、悪魔にしか見えなかった。
認識した瞬間に、男は思わず後ずさっていた。どうしようもなかった。心はすでに折れていた。背丈も体つきも自分より弱々しく見える青年に、腕一本で持ち上げられたのだ。逃げる以外に、出来る事など無かった。
手を背後に伸ばして、尻で地面を摩りながら、必死に距離を取る。鋭い小石が掌に突き刺さるが、気にすることなどできない。そんな余裕はない。痛みをこらえて、必死に距離を空ける。
少しでも、少しでも遠くへ――だが、しかし。男のそんな僅かな希望すら、潰える事となる。
「……」
青年が、一歩を踏み出したからだ。上げられた足が下ろされたその瞬間に、男の時は一瞬止まった。靴の裏が地面を踏みにじる音すら聞こえたような気がした。
一歩、また一歩。距離はどんどん詰められる。それでも男は諦めずに逃げ続けるが、しかし限度がある。
間もなく青年の足は男のすぐ目の前まで来て、そこで止まった。
こうなってはもはや手も足も動かない。何もかもが無意味なのだから。だから、再び手が伸びて来て胸倉を掴まれても、そのまま強い力で持ち上げられても、男は一切抵抗をしなかった。只々されるがまま。
ゆっくりと体が持ち上がっていく。膝が伸び、爪先が地面から離れる。星々が近づいてくるような錯覚すら覚えた。
視界が定まる頃には、青年の腕はほぼ真っ直ぐ空に向かって伸ばされていた。が、相変わらず男の目に生気は無い。思考も何もかも諦めているのだ。
と、その時。
青年の右ひじが、ゆっくりと外に向かって折り曲げられ始めた。それに従い、青年の無表情の顔が徐々に接近してくる。だが、男には何の感情も生まれない。
やがて、十分に近づけると、青年は低い声で男に囁いた。
「――――――?」
短くも無ければ長くもない、時間にして五秒足らずの問いかけ。しかし、それで十分だったようだ。ただそれだけの言葉で、男に生気が戻ったのだから。