第一話-2
少女は尚も、青年に呼びかける。『その人』とは、青年の左手側にいる人のことだ。
つまり、青年の左手に襟首を掴まれ吊り上げられて、爪先が少し浮いているにもかかわらず、ぐったりとして動きを見せない男のことだ。
顔面は血だらけ、鼻の穴も口もかぴかぴにひび割れていて、機能を果たしているのかは読み取れない。
少女の呼びかけを、青年はしかし無視する。離す訳にはいかない理由がある。だが、このままではまずいのもまた事実だ。
男が手の中にある限り少女の刃は届かないだろう。ただし少しでも動けばそこに隙が生まれる事になる。そうなった瞬間に刃がその隙をつくだろう。
だから、青年の方も動けない、何もできない。
つまりは、こう着状態と言う訳だ。
「……」
何故、こうなったのだったか。刃を注視したまま、青年は考える。
――時を遡る事、二時間前。
空の九割ほどは紺色に染められつつあったが、しかし地平線の上には夕焼けがまだ未練がましく残っている。
町はずれの廃材置き場に、一人の男がいた。
ごつごつとした廃材のその上を歩いている蟻を見ながら、男は懐から出した安い煙草を一本咥え、続いてポケットからライターを取り出し、口元に近づけ、擦った。が、なかなか火がつかない。
何度も何度も擦る。火花は散るが、しかし火は付かない。
舌打ちをひとつ。風の強いせいもあるのだろうが、それにしても苛つく。結局火がついたのは十回近く擦ってからだった。
だが、それほど手間をかけた甲斐あって、煙草は旨かった。吹かす度に自覚できる程、気持ちが落ち着いてゆく。
吐きだした煙が空に溶けて消えてゆくのを見て居ると、思わず時間を忘れた。
――だから、気づけなかったのだろう。いつの間にか、青年がすぐ近くに立っていたことに。
その姿を捉えた瞬間、情けないことに、男は悲鳴を上げていた。慌てて飛びのき、距離を取る。一歩踏み出せば手で触れられる程の距離に、青年の姿があった。気づかなかった。何故か、気づけなかった。