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バサリ、と音がした。
落ちてゆくときに耳元で響いていた風を切る音とは違う。びゅうびゅうと耳障りに響くその向こう側に聞こえたのは、風を受けてはためく音だ。
その瞬間、少女の体はふわりと浮いて抱き直され、横抱きにされて腕の主の胸の中に収まる。
腕の中の心地よさを残したまま、包み込むような自由な風が止んだ。男の大きな体が、風の圧迫感からも守るように少女を包み込んだからだ。それは更なる安心感をもたらす。少女はその胸元に顔を寄せ、ゆっくりと腕の主を見上げた。
それは黒翼の天使だった。
まず目に入ったのは、空を模したような、青い瞳。それから、腕と同じ浅黒い肌。そして、空を切り裂くように広がった、黒く大きな翼。
視線を顔に戻して最も美しいと思った青い瞳を仰ぎ見る。それはやはり突き抜ける青空を思わせるほど、どこまでも鮮やかに澄み、どこまでも深く美しかった。けれど、
「……魔物……?」
一目でそうとわかる容貌だった。青空に広がる大きな羽は、その男の背から広がっている。
なぜと、わき上がった疑問は、少女を見下ろしてきたその視線によってかき消える。
魔物の鋭い瞳が、少女をとらえていた。
見上げていた少女と視線が重なる。少女は冷え冷えと澄んだその瞳をのぞきこむように、まっすぐに見つめ返した。
「……きれい」
その瞳の青さは澄み渡る青空を思わせた。見つめるほどに、深く吸い込まれそうな錯覚を起こすほど美しかった。
少女はその美しい存在に触れたくて、魔物の頬に手を伸ばす。
「あなたが海の魔物? 私を食べるの?」
恐怖とは違う感情がこみ上げて、とくん、とくんと胸を打つ。
海の青より、空の青と似ているのに。そんなことを考えながら、魔物の口元に目をやる。この口でかぶりつくのだろうか。
こんな魔物ならそれも良いと思った。
咽に食らいつかれるのを想像してもなお、なぜだか恐怖はわかなかった。
ここを食い破るというのなら、むしろ自ら喉元を晒してしまおうか。
町の人たちのために惜しんだ命だったが、こうして自分を包み込んでくれたこの存在になら、惜しくないと思えた。そこに何か理由があったわけではない。それでもひとつあげるとするならば、自由を感じさせてくれた空と同じ色をした瞳が、とてもきれいだったせいかもしれない。彼の中に、その自由があるように見えたのか。一つになれればと、本能的に感じたのか。
彼女は、魅了されるように黒翼の魔物をうっとりと見つめた。
「……おまえは魔物の贄か」
魔物のつぶやきに、少女はうなずく。
「惜しいな。今はまだ未熟だが……この命、あと五年もすればより輝きを増すだろうに」
つくづくと眺めてくる魔物の瞳に、少女は頬を染める。
惜しいと、輝きを増すと言われた。その事は、自分の価値を疑り絶望していた少女にとって、この上のない賞賛であった。その魔物の意図がどうあれ、この美しい魔物に認められたことは胸を弾ませた。
魔物が楽しげに見下ろしてくるのが、どこか気恥ずかしく、更に頬は上気する。
魔物は興味深げに笑って尊大に命じた。
「巫女よ、おまえはこれから俺の贄だ。喜ぶがいい。その命、五年延ばしてやろう」
従うのが当然だと言わんばかりの魔物の言葉に、少女もまた当然のように頷きかけて、ふと不安がよぎった。
この魔物の言葉なら何でも受け入れよう。この異常な状況で、少女の心は完全に魔物に傾いていた。けれど、それでは問題が残る。
「でも、海の魔物が……」
町を気にする義理などない、とは思わなかった。町を守るのは少女にとって使命なのだ。どうでも良い、使命など投げてしまおうという考え自体が少女の中に存在しなかった。そのような考えは教えられなかった。少女の持つ常識では、その身は民のために存在していた。
けれど魔物は少女の心配を嘲るように嗤う。
「生け贄を望むような下等な魔物など気にする必要はない」
下等な魔物と評された海の魔物は、近隣の退魔師では払えないほどに強大な魔物であった。それなのに、どの程度かも聞かずに簡単にそう断じることのできる黒翼の魔物は、どれほど強いのだろう。
人の形をしていて、こんなにも小さいのに。
小さいと言っても、あくまで海の魔物と比べて、なのだが。黒翼の魔物の体躯は逞しい。けれど、大柄であっても引き締まった均整の取れた体格をしている。少女を包み込む、骨張った筋肉質な体は、少女の体を包み込めるほどに大きい。
確かに人型の魔物は強いとは言うけれど……。
黒翼の魔物の海を探っているらしいその横顔を、少女は魅入られるように見つめていた。
魔物はそれに気付き、残虐な笑みを浮かべる。
「五年の猶予は与えるが、だが、逃げられると思うな。逃げたり純潔を失う様なことがあれば、町もろとも消し去られる物と思え」
いたぶるように傲慢に言い放った魔物に、少女は微笑んだ。
その命を違える気などなかった。けれどそれは、決して町のためではない。
少女はほんの少し前まで町の人間から切り捨てられた命だった。けれど、黒翼の魔物は、何千という町の人間の命より自分の命に価値を見いだしてくれている。だから、自分の命は、価値を見いだしてくれた彼の物だと思ったのだ。
「あなたの望みのままに、私の自由。私の運命はあなたの物です」
少女は幸せそうに微笑みながら頷いた。
黒翼の魔物は彼女にとって自由の象徴となったのだ。翼でもって空を飛ぶ鳥のように、この魔物の存在が自分を羽ばたかせてくれるのだと。この黒い羽が自由を与えてくれた。この青い瞳が遠く飛んでゆける空があるのだと思わせてくれた。この魔物がいれば風が自分を柔らかく包み込みこむような自由を感じられるのだと知った。
抱きしめる腕は心地よく、自分を見つめる魔物の青い瞳は、どこまでも美しかった。
どこまでも澄んだ、私の青空。
少女は、魔物の瞳に自由へのあこがれを見る。
五年待てというのなら、望みのままに五年待とう。そうすればこの魔物は迎えに来てくれるのだ。この命を、彼の中に取り込んでくれるのだ。
そして私は全てから解放され、自由になる。
「あなたの、望みのままに」
少女はもう一度囁くと、魔物を抱きしめるように両腕を背中に回した。
その後、黒翼の魔物は少女を陸に返したのち、海の魔物を倒してその死骸を町の人間達の前に晒した。
そして、五年後の一方的な約定を宣言し、少女は神殿に帰されることとなった。
町の混乱はひどい物であった。魔物が討伐されたことに喝采する物もいれば、不安に怯える者もいる。かえってきた少女に罵倒混じりに詰め寄る者もいれば、少女を褒め称える者もいる。
人間の力ではなかなか倒すことが出来ないほどの魔物を簡単に殺せるような上級の魔物が今度は相手になるのだ。本当に、五年後の贄は、彼女一人ですむのか。本当に、もう何も起こらないのか。
応えることの出来るその魔物は、もうそこにはいない。
止めどない疑問と不安が町にもたらされたのだ。
その騒ぎの中、残された少女はどの言葉にも関心を示すことさえなく、魔物が去った空を見つめる。罵倒にすら反応しないその様子は、異常であったと、後に彼女は聞いた。
ぼんやりと空を見つめる少女の元に、彼女の親族や友人が泣きながら駆けよってきた。
ひとまず生きて返ってきた喜びと、五年後の不安を口々に言いながら、彼女を抱きしめた。
さっきまでは死ねと瞳で訴えていた中にいた人たち。助けてくれなかった。一番苦しいときに抱きしめてくれなかった。
助かった今になって、彼らは、泣きながら自分を抱きしめている。少女はその事を幾分か冷ややかに感じていた。
少女を想って流す涙に嘘はないだろう。
けれど、五年後、彼らは今日と同じように当たり前のように彼女を差し出すのだ。
少女が助かったことを喜んでいる彼らの様子を、どこか遠い物のように感じながら、彼女は魔物の腕の暖かさを思いだしていた。