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途中、血なまぐさい表現があります。流血描写が苦手な方は、ご注意下さい。
窓の向こうに広がる空を見つめる。
彼女は膝をついて祈りを捧げていた。
あれから五年が経つ。
あの時、私を助けた魔物が、今度は私を喰らいにやってくる。
彼女はその事実を心の中でつぶやく。
今日は、その約束の日。
あれからいろいろなことが変わってしまった。
巫女の中で至高の力を持ち姫巫女の名を戴いたその少女は、天を仰ぎ見ると堪えきれずに涙をこぼした。
五年前、彼女は港町に住む一介のささやかな力を持つ巫女に過ぎなかった。
そして海に住まう魔物の贄として差し出された哀れな子供だった。
その少女は断崖絶壁に立たされ、海の魔物の生け贄にされようとしていた。
それはまだ十を二つ過ぎたばかりの子供である。けれど彼女は己の立場をよく理解していた。
彼女の住まう港町では年に一人、少女を海の魔物に生け贄として捧げていた。それは数年前から始まった儀式だ。十余年前に棲みついた海の魔物による被害を減らすための、やむを得ない決定であった。
力のない小さな港町では仕方のない判断ともいえよう。町はそれを受け入れざるを得なかった。自分が、親近の娘が選ばれないようにと怯えながら。隣の娘が選ばれることに、哀れみながらも影でほっとしながら。
ところがその年はいつもと違った。魔物は巫女を生け贄に捧げよと要求してきたのだ。さすれば五年は生け贄はいらぬ、と。
巫女は貴重な存在である。町を守ってゆく大切な存在だ。
しかし最終的にその要求を町は受け入れた。
巫女といえども、さほど力のない者もいる。つまり巫女としての価値が低い一人を捧げることで、神殿の損害も少なく、五人の命が救われる。それは、町の者にとって魅力的な要求であった。娘を持つ町の住人達が中心となり、その要求を受け入れる結論に至ったのは必然だったとも言えよう。
そうして一人の少女が選ばれた。巫女としての力がそれほど認められない、憐れな少女に白羽の矢が立ったのだった。
「分かりました」
その時、その決定を受けた彼女は、衝撃に身を震わせながらも静かにうなずいた。
自分の命でこの町と五人の少女の命が救われるのだ。民のために自分たち巫女が存在すると育てられた彼女が拒絶することなど、出来るはずがない。
巫女とは、民を護り導く者。そう教えられていた娘は、町の娘を護るのは自分の使命として、望まれるままに生け贄になることを受け入れた。
彼女は幼くして巫女としての霊力をわずかながらに発露し、早くから神殿に預けられたために、巫女としての自覚は幼児期からすり込まれている。けれどその力は微細にして、いくらでも替わりがきく存在でもあった。巫女としての意識が強い彼女が選ばれたのはもっとも反発が少ないことを見越してであろう。
けれど彼女は思ったのだ。これは巫女としての使命だ、と。
少女は誇りを持って、決して騒ぐことも嘆くこともせずに、りんとして受け止めた。
そうして生け贄としてその崖に立つこととなったのである。
少女は確かに誇りを持ってそこに立っていた。故に自らの足でそこへ足を進ませたのだ。
しかし誇りを胸に断崖絶壁に立ったものの、その高さに心がすくんだのはしかたがあるまい。いくら誇り高き巫女といえども、わずか十二才の少女なのだから。
その高さに怯え、本当に飛び降りるのかと、少女は思わず振り返った。
生け贄を捧げるために集まった町の人たちに、縋るような思いがあったのかもしれない。町の人たちはいつでも巫女である少女に優しかった。生け贄が決まったときもその事に心を痛めてくれた。だから振り返った先に救いがあると、信じていたのかもしれない。
少女が振り返ったとき、まず見えたのは恐ろしいほどに強ばった人々の表情。それから、焦り。
振り返ってみれば、少女のおびえを許さない人々のたくさんの視線が向けられていたのだ。
早く飛び降りろと、その多くの視線が彼女を責めていた。
「……っ」
心がすくんだ。心臓が掴まれたような痛みが少女を突き刺した。
少女は自身が何を期待したのかは分かっていなかった。けれど、少なくともそこにあったのが自分の望んだ物でないことだけは確かだった。崖の底を見たとき以上の恐怖がこみ上げていた。
町の住民達は命惜しさに、浅ましいほどの目つきで自分の死を望んでいる、その事を、少女は今、初めて理解したのだ。
愕然とした。こみ上げてきたのは絶望か。
胸の奥底がじわじわと冷えていくのを感じていた。
少女は今、初めて死ぬのが嫌だと自覚する。
人の為になるのなら命を賭してもかまわない。先ほどまでは確かに心の底からそう思っていた。けれど、この町の人間達の目はどうなのだ。
早くしろ、何をしているのだ、今更逃げる気ではあるまいな、そんな民衆の感情が彼女に突き刺さってくる。
「……ぅ、ぁ……」
少女は、人の心に恐怖した。そして死という物が、とてつもない恐怖となって襲いかかってきていた。
こわい。
けれど逃げることは叶わない。
「……なん、で」
自分の死を望む者達に背を向けて、彼女は小さくつぶやいた。
恐い、恐い……。
恐怖にすくみ、涙があふれた。
がちがちと噛み合わない歯の音を聞きながら、少女はゆっくりと崖に向かって歩いた。
他にしようがなかった。
死にたくない。けれど、死ぬしかないのだ。足掻いてみっともなく突き落とされるより巫女としての誇りを持って……。
そこまで考えて、ふと少女は我に返る。
誇りって、何なんだろう。死ぬことが、なんで、誇りになるんだろう。
町の人に望まれて死ぬ。死ぬと喜ばれる。私は、殺されるために頑張ってきたんだろうか。巫女として役立たずだから、選ばれた。じゃあ、私の価値って、何?
絶望の中、ぼんやりと考えながら、空虚なあきらめが胸を占める。納得がいかないと今更あがいたところで逃げられはしない。
私は、死ぬことを求められている。
そうするしかなくて、嫌でも動くしかなくて、彼女は足を動かす。断崖絶壁に向けて、死に向かって。
そこから飛び降りる以外の道は残されていなかった。絶望に目を閉じる。あの視線を向けられるぐらいなら、飛び降りた方がましに思えた。
怖い、怖い、怖い……。
溢れる涙をぬぐうことすらせず、ゆがんだ視界の先に足を進める。
そして彼女は、背中に突き刺さる視線から逃げるように宙に身を投げ出したのだ。
落ちてゆく感覚に、ひゅっと身がすくむ。風が身を切りつけながら、同時に落ちてゆくのを拒むような圧迫感を与えてくる。体が風を切っていく音が、ごうごうと耳もとで鳴る。
真っ逆さまに落ちる感覚が少女を恐怖に染め上げ、意識を薄れさせてゆく。落ちてゆく感覚と圧迫感の中、そのまま意識を失いかけた。
その時ふわりと風が、彼女を包むように吹いた。
飛んでる……?
不思議な感覚に、少女は閉じていた目を開けた。
青く突き抜けるような空が、目の前に広がっていた。
そしてまるで風を受けて飛ぶ鳥のように、体が浮いていた。
なんて、自由な感覚。
このまま、飛んでどこへでも行けるかもしれない、そう思った。自由の風を感じながら、我に返った少女は、ようやく自分を後ろから包み込んだ腕に気付いた。
浅黒くたくましい、男の腕だ。
誰……?
少女は腕の主を見ようとするが、風の力が強くてうまく頭が動かせない。代わりにその腕にしがみつく。
なんて気持ちが良いのだろう。
心地よさにうっとりと微笑み、少女は自分を抱いて飛ぶ腕の主に体を預けた。