一日目
誰の声だ?うるさいな...。俺は今眠いんだ。寝かせてくれ。しつこいぞ。俺は疲れてるんだ。いつまでわめいているつもりだ?一体今何時だと思ってるんだ。見ろ、こんなに暗いんだぞ。目を開けても何にも見えないじゃないか。それに、身体だって金縛りにあったみたいに動かないし。
金縛り?違う。金縛りなんかじゃない。指も首もちゃんと動いてる。身体が動かせないだけだ。なんで身体が動かないんだよ。狭いし暑苦しい。何だか呼吸が苦しくなってきてる。やばいぞ。どこなんだここは。出してくれ。早く!早く出してくれ!
必死に暴れた結果、目の前にあった板のような物が外れた。彼は勢いよく上半身を上げると、新鮮な空気を目一杯吸い込んだ。
「た、助かった...」
彼は再び深呼吸をしてから、座ったまま辺りを見回した。彼が寝ていたのは、どうやら棺の中のようだった。さっき外れたのは、棺のふただったらしい。どうりで息ができないわけだ。部屋はレンガで作られていて、西洋の作りに似ていた。
見ると、自分の首に銀色のドッグタグがかけられていた。裏にはアルファベットの妙な配置の文字があり、表にはアルファベットで〈KEI〉と書かれていた。
「なんだこりゃ。っていうか、さっきの声はなんだったんだ」彼は不思議そうにドッグタグを見つめながらつぶやいた。声は止んでいたし、なぜか記憶が無かった。名前すら思い出せない。
彼は状況がよく飲み込めないまま部屋を後にしようとドアを開けると、そこには信じられないような光景が広がっていた。月明かりに照らされた街並みは、全てレンガで作られているようで、明らかに日本の町では無かった。そして少し遠くに見える大きな塔。あれはどう見てもビッグベンだ。ということはここはイギリスのロンドンか⁉
彼はあまりの光景に目を疑い、壁に手をついて必死に記憶を呼び戻そうとしていた。
なんだ。どうなってんだよ。ここはどう見たってロンドンじゃねえか。だめだ。全く記憶が無い。何も思い出せない。
ケイはふらふらと歩きだした。夜のロンドンは、こんなにも恐ろしいのだろうか。人通りが全くない。街灯のようなものがちらほらと見えるだけだ。
一体全体俺はどうなっちまったんだ。確か最後俺は...。
「あなた...」
急に声をかけられ、彼は飛び上がるほど驚いた。振り向くと、そこには女性が立っていて、彼女も驚いたような表情をしていた。
「君は...」
「来て」
言い終わらないうちに、手を引っ張られ、無理やり歩かされた。彼女は早足で石の道路を歩きながら、彼の手を引っ張り続けていた。見ると、彼女もドッグタグをしていた。上下左右に揺れるドッグタグからかろうじて見えたのが、〈AKANE〉というアルファベットだった。
アカネ...。ってことは、この文字は名前か?じゃあ俺の名前は、ケイ...なのか?全く思い出せないが。
アカネに導かれるまま、夜のロンドンを歩き続けると、彼女が酒場の前で立ち止まった。
「ついたわ」アカネが木製のドアを開けながら言う。「入って。みんなもいるわ」
ケイはわけがわからないまま、アカネに続いて酒場の中に入った。
「お、新入りか」
酒場に入った途端、部屋の奥から声が聞こえた。
「ええ。そこの通りで会ったのよ」
奥の椅子に座っていた男が立ち上がり、こっちに近づいてくる。
「君の名前は」男はケイのドッグタグを見つめながら言った。「ケイか。俺の名前はアキラだ。よろしく」
「は、はい...」
ケイはアキラと握手した。
「おいおい。こいつが何者か知らねえのに、慣れ慣れしくすんなよ」
そう言ったのは、カウンターに座っている若い青年だった。明らかに未成年なのに、堂々とワインをがぶ飲みしている。
「それはあなたも同じでしょ、シュウヤ」
「まあ、それもそうだがな」シュウヤはそう言ってまたワインを飲んだ。
「とりあえず、これで7人目だな」入り口の近くに立っている、筋肉質な男が言った。
「だいぶにぎやかになりましたね」その男のすぐ隣りで立っていた若い女性が言う。
「にぎやかなのはいいけど、この状況が私たち何にも分かってないじゃない」イスに座っている茶髪の女性が不満そうに言った。
「え、えと...」
「とりあえず、みんなの名前言っとくよ」アキラが立ち上がって言った。「カウンターでワインを飲んでる、見るからにチャラい奴はシュウヤ」
「てめぇはいちいちうるせえんだよ」
シュウヤがカウンターを叩いて立ち上がった。それを慌てて若い女性がなだめる。
「で、今シュウヤをなだめたのが、シノ。多分高校生じゃないか?まあ記憶が無いんで分からないが」
ケイがぼうっとしている間にも、ことはどんどん進展しているようだ。どうやらここにいるみんなが記憶を失っていて、ドッグタグに書かれている名前だけ分かっているらしい。
「君を案内してくれたのは、アカネって女性。恐らく大学生だな。そして、そこに座っている女性が、キョウコ。社会人だな。んで、今君の近くに立ってる男の人はダニエル。よくわからんがアメリカ人のようだ」
ケイがダニエルを見ると、彼はニッコリ笑った。
「大丈夫。日本語はしゃべれるよ」ダニエルが言った。
「まあ、そんなわけだ」アキラがそう言ってイスに腰掛けた。
「あなたたちは、いつからここにいるんですか?」ケイがみんなに向かって言った。
「君より少し早く目覚めたのよ。みんな別々の場所に棺に入れられてて、街をさまよってたところ合流したの」キョウコさんがタバコをふかしながら言った。
「ひどいもんさ。俺ら全員記憶が吹っ飛んじまってる。職業も、苗字も、住所も、なーんにも覚えてない」シュウヤがへらへらしながら言った。
「見たところ、俺ら以外には人がいない。それにこの街、まるで昔のロンドンみたいだ」アキラが酒を飲みながら言った。
「昔?どういうことですか?」
「見たところ電気も大したもんじゃないし、見るからに古めかしい。俺らタイムスリップしたのかもな」
「タイムスリップ?」アカネが口をだした。「バカバカしい。私たち棺に入ってたのよ。それに、この街には私たち以外の人間が一人もいないわ。どう考えてもタイムスリップの一言でまとめられる問題じゃない」
「そんなこと知ってるさ。だが、まるで俺たちこの街に閉じこめられたみたいじゃないか。よくあるだろ。心理実験とか、国家の陰謀とか。もしそうなら、俺らこれからどうなるんだろうな」
「知ったことじゃないわ」
「さあどうかな」
「まあ2人とも」シノが仲裁をしてくれた。「会って初日何だし、みんなわかんないことばっかなんだから、仲良くいこうよ」
「そうだぜ。ここには酒も食糧もワインもある。みんなでぱーっといこうぜ!」シュウヤがアキラに酒を渡しながら言った。
「...そうだな」
一時間後、酒屋はどんちゃん騒ぎになっていた。完全に酔っ払ったアキラとシュウヤが、酒をがぶ飲みして大騒ぎしているのだ。他のみんなも酒や缶詰めで、まるでパーティをしているようにしゃべり散らしていた。一方、ケイとダニエルの2人は、酒屋の隅で淡々としゃべっていた。
「ダニエルさんは、この街についてどう思います?」
「奇妙な街だとは思うよ。それにどこか懐かしくも感じる」
「俺もです。なんかなつかしいんですよね」
「ああ。だがやはり奇妙だ」
「ええ。俺たちはなんでこんなところに連れてこられたんでしょう」
「わからないな。全く覚えていない」
「でも全てを忘れているんじゃなくて、思い出が消えていますよね。例えば家族とか、家とか友達とか」
「君もそうなのか?私もだ。昔見た映画の内容は覚えてるが、誰と見たかは覚えていない。旅行で何をしたのか覚えてるが、誰と旅行に行ったのかは覚えていない。まるで、そこだけ黒く塗りつぶされたみたいだ」
「この世界は一体何なんでしょう」
ケイは薄汚れた窓から、支配者のようにそそりたつビッグベンを見つめた。大時計は11時59分を示していた。もうすぐ今日が終わる。
「分からないが、今あれこれ検討していてもきりがない。明日の朝、街の散策でもしてみよう。何かわかるかも知れない」
「そうしましょう」
ケイはグラスに入ったワインを飲み干した。不思議と酔いは感じなかった。酒場を見ると、シノさん以外の6人が、酒を飲んでいるみたいだ。こんなに酔ってしまって大丈夫だろうか。ケイがそう思った直後、唐突にノックの音が響いた。
7人は一斉にドアに見入った。まだ連れてこられた人がいるのだろうか。
「いいわ、わたしが出る」唯一酒を飲んでいなかったシノさんが、そう言ってドアに近づいた。
ケイは再びビッグベンを見つめた。11時59分50秒。あと少しで終わるのか...。
「あなたは...」シノさんがそうつぶやく声が聞こえる。
シノさんの絶叫が響き渡り、ケイ含め全員がドアの方を振り向いた。
見ると、ドアの前に立っている男が、シノさんの頭を両手で掴み上げていた。全員イスから立ち上がり、驚愕していた。
「お、おい!何してるん...」
ケイが声を上げた瞬間、男はシノさんの頭を一瞬で真横に捻じ曲げた。骨が砕ける音が部屋を反響し、シノさんはその場にばたりと倒れ、息絶えた。
「No.7排除」男はそう言うと夜の闇へと消えた。
そして、12時を知らせる鐘が鳴り響いた。