うらぎり
かわいいばかりの人じゃないのよ、と言われた。
結婚するかもしれないの、と電話して行きつけのカフェに呼び出したのは心からの信頼を置いている親友だった。不機嫌な声で返事をした彼女は、それなら明日のお昼にとだけ言って電話を切った。
約束の時間よりもずいぶん早く着いたはずなのに、彼女はすでに店の奥まったテーブルに席をとっていて、汗をかきはじめているアイスコーヒーのグラスを手にしていた。謝りながら彼女の向かいの椅子を引いたと同時にアイスティーのグラスがやってきて、彼女のこういうところがスマートだよねと思いながら勧められたミルクとシロップを断った。
「時間作ってもらってありがとう」
「結婚するかも何て言われて、あらおめでとう、では済まないわ。まして、あんたの相手があいつかもしれないなんて思ったらいてもたってもいられなくなったわよ」
「うん」
ストローを差してメニュー表を広げるけど、特に食べたいものが見つからない。メニュー表をもとに戻してから、おしぼりを開いて手を拭いた。
「なにも食べなくていいの」
「お腹、減らなくて。そっちこそ」
「朝が遅かったの」
「そう」
穏やかなクラシックが店内に流れている。残念なことに音楽には明るくないので、どこかで聞いたことがあると思っても曲名がわからないことがほとんどだ。
目の前の彼女にしても同じようで、音楽の価値なんて題名や作者を知らなくても変わらないのだから大した問題ではないと言いながら、クラシックからロックまで聞く音楽のジャンルは無差別だ。
私はティーを一口含み、鼻から抜けていく香りを楽しんでから、あのね、と話を切り出した。
話を終えたのは四曲目のサビの終わり頃だった。氷が溶けて薄くなったティーをストローで一周混ぜて飲む。渇いてしまった喉を存分に潤すまで、彼女の顔は見れなかった。
ほとんど飲み干したグラスを置いて濡れた手をおしぼりで拭ってから、私は顔を上げた。
最後まで決して相槌すら打たなかった彼女は、難し気に引き結んだ口を解いた。
「かわいいばかりの人じゃないのよ」
心配顔をした中学からの親友は、アイスコーヒーが入ったグラスに差したストローをぐるぐる回す。彼女は昔から何かを考えたり心配する時、手元にあるものを弄ぶ癖があった。
「あなたの彼と同じ会社で働いているから、評判はよく聞くの。いいものばかりじゃないわ、正直、悪い評判の方が圧倒的に多い」
それは知ってた、とひとつ頷く。
「あいつ、と呼ばせてもらうけど、あいつの猫撫で声とかわいい顔に騙されて泣いた子がうちの会社にもごろごろいるの」
「うん」
「世話焼きなあんたのことだから、ちょっとぼけてて頼りな気なあいつに惹かれたんでしょうけどね、やめておきなさい。あいつの女癖の悪さを、あんたはちゃんと気がついてたでしょ」
「知ってるけど、もう彼しか考えられないの」
「ダメよ、考え直して。もう年下は懲りたっていってたじゃない。あなたといくつ差があると思ってるの」
「十年くらいなんでもないわ」
「あなたにはそうかもしれない。でもあいつはそうじゃないかもしれない。まだ二十の半ばにも届いていないのよ」
「三十路の女は二十の男と恋愛したらダメなの」
「恋愛は自由よ、けれど結婚は違うわ。大切にしてきたあなたの一生を、あんないい加減な男に背負わせるわけにはいかないの」
「ねえ、わかって。彼、私のことを大切にするって約束してくれた。私以外の人とはもう抱きあうことも手を繋ぐこともしないって、私が彼の唯一だって言ってくれたの」
「ベッドで交わした言葉は信じちゃいけないわ」
「ひどい」
私は呆然とした。
昔からキツイ物言いをして何かと誤解されたり敬遠されたりしてきた彼女だけれど、それは彼女が自分に素直で相手のことを考えての言葉だった。私はそれをちゃんとわかっていたし、傷つくこともあったけどそれよりもハッと気付かされることのほうが多かった。
彼女は私たちのことを思ってくれているのに、どうして誰も気が付かずに彼女を遠ざけてしまうのだろうと疑問だった。
「そんな言い方、あんまりだと思う」
はじめて彼女の言葉が人の気持ちを抉るのだと知った。いつものように私のことを思って口にした言葉だったのだろうけど、彼女の正直さはあまりにも真っ直ぐに人の心に届くから頑なで一途になっている心には深く突き刺さる。
「あなたに一言、よかったねと言って欲しかったの。あなたの真っ直ぐな言葉で祝福してもらえたら、私は彼のすべてを信じられると思ったのよ」
彼が私を抱きしめて一生と口にしたのはベッドの上だった。彼が買ってくれたネックレスも指輪も外して、裸の肌を合わせたベッドの上でもらった言葉に私はしばらくうっとりした。けれど体を清めて服を着てアクセサリーを身につけ終わるころには夢見心地も覚めて彼の甘言が本当かわからなくなってしまった。
「私だけの心じゃ、彼を本当に信じてあげられないの」
「私も、あなた一人きりで信じることができない男のことを、信頼することはできないわ」
涙が頬を伝って滴る。鼻を啜って隣の椅子に置いたバックの中からハンカチを探して涙を拭いた。
「愛してるの」
「愛だけじゃ一生を誓えないわ、誓うには信頼がいるの。それに自分の前以外であなたを泣かせる男なんて尚更よ」
彼女はそう言ってストローを咥えた。シロップもシュガーも入れないコーヒーをゴクゴク飲んでゆく。結露して膨らんだ水滴が、グラスを持った彼女の指先を濡らしてテーブルに滴る。
彼よりも付き合いが長くて正直に私のことを思ってくれている親友が、私が愛している彼のことを諦めなさいと言っている。心から信じられない彼が肌を合わせながら囁いてくれた結婚しようという声が、それでも私の彼への愛を燃やしつける。
点々と増えていく水玉を見つめ、私は心を決めた。
「やっぱりダメ。私は彼を愛してる。心から彼のことを信じられなくても、愛しているから私が彼にとって唯一であることを信じたいの」
「苦しいだけよ」
「それでも信じたいの」
彼女はじっと私の目を見つめてくる。深い黒が光を反射させてキラキラ輝くのを、私はじっと見つめ返した。逸らしたくてたまらない真っ直ぐな輝きが、本当にそれでいいのと問いかけてくる彼女の視線にこれでいいの、と必死で応え続けるために彼女の瞳から目を逸らさなかった。
「彼を信じられなくても、愛してあげられるのは私だけって誓いたいのよ」
彼女はしばらくじっと私を見つめ、ふと視線を俯けた。凛として正しい彼女の横顔が陰ったが、一瞬靡いた髪に隠れた後にはまた素直な眼差しを備えて私と視線を合わせた。
「あなたがあいつを信じられる時なんて絶対に訪れないわよ」
「私の彼への愛は信じられるわ」
「絶対に祝福の言葉は言わないから」
目を伏せた彼女は首を振って立ち上がった。
胸を締めつける痛みを堪え、バッグを肩にかけて立ち去る彼女を引きとめようとする腕を抱きしめる。ごめんなさい、と胸の中で何度も呟いて唇を噛み締めた。彼女のグラスはいつの間にか空になっていた。
あれから、時間がない時でも五日と空けずに連絡していた彼女と疎遠になってしまった。メールも電話もしないままそろそろ二ヶ月経とうとしている。きっと、メールをしても電話をしても、何事もなかったように話をしてくれる、彼女はそういう人だから。そうわかっていても私は彼女に連絡をすることができなかった。
その間、彼とは週末には必ず会う約束をした。けれど、同じ時間を過ごして想いを重ねているはずなのに二人の将来の話が出てくることはなく、一度私から口にしたらうやむやに濁されてしまった。
結婚しようって言ってくれたのに。
ふとした瞬間にその思いが胸に沸き起こり、黒く凝って不安を掻き立てた。ご飯もあまり喉を通らず、夜にも目が冴えてしまう。彼と過ごす愛しいはずの時間さえ、なんだか彼の気がそぞろになっているように見えて唐突に切れる会話の沈黙が恐ろしくなってくる。
深いため息をついた。
「先輩、大丈夫ですか?」
声をかけられて振り向くと、ココアの缶を持って後輩が立っていた。
重い体を少しでもスッキリさせようと、飲み物を買いに仕事中席を立ったのだ。けれど何か買おうとも思えないまま、手ぶらで自販機横のベンチに座っていた。
「あの、最近あまり体調が良くないように見えて。心配で」
「そんな風に見える?」
「気付いてらっしゃるかわかりませんけど、目の下のクマ、はっきりわかっちゃいます。やつれてるようにも思います。ダイエットとかじゃないですよね」
「違うわね。ちょっと悩み事があるだけなの、心配してくれてありがとう」
「いえ、そんな」
それっきり会話は終わった、と思ったのだけど、ココアの缶を右に左に持ち替えながらソワソワとこちらを伺ってくる。
どうしたのだろう、と首を傾げると意を決した、と肩を強張らせてその子が口を開いた。
「あの、間違っていたら、申し訳ないんですけど。先輩って付き合ってる方いらっしゃいますよね。それって年下で、眼鏡かけてて、明るい髪の人ですか」
そうだけど、と頷いて驚いた。社内恋愛ならまだしも、彼は会社も違うし住むところも距離がある。二人で会うのもあまり騒がしくないところが多いのに、まさか知られているなんて思いもしなかった。
「前、偶然先輩が男の人と歩いてるの見ちゃってもしかしてと思ったんです。カッコよかったから顔憶えてて」
「そうなの。なんか恥ずかしいわ」
笑ってみたけれど、まだ晴れない顔でその子は落ち着かない。
「あの。間違いならいいんです。あの、先輩、先輩が悩んでるのって、その男の人についてなんですか」
笑顔が曖昧になる。
「言わない方がいいかなと思ってたんです。友達にもそう言われたし、だから黙っているつもりだったんですけど、でもやっぱりわたしだったらなんで言ってくれなかったのってなるんで、言わなきゃいけないって。先輩、わたし見ちゃったんです、その男の人が先輩じゃない人とキスしてるの。先週の火曜日です、夜の十一時くらい、駅裏のバーの前で。わたし、先輩にはとてもお世話になりました、だから少しでも先輩の力になりたくて」
ああ、体がおもい。
何をしてるんだろう。
まだ片付けなくてはいけない仕事も残っていたのに、体調が悪いのでと言い訳して定時で会社を出た。
事実、体も重くて頭も冴えないから今日は早めにベッドに入ろうと考えていたのに、私は彼のアパートの前にいた。
私の借りているマンションの最寄り駅から乗り換えを含めて駅六つの距離。まだ築も新しく、手入れの行き届いた外観のアパートの二階右端、205号室が彼の部屋。
そういえば、彼の部屋に来たのはいつぶりだろう。彼と会うのはだいたい外か私のマンション。彼は私の部屋の鍵を持っているのに、私は彼の部屋の鍵を持ってなかった。
胸が暗く陰る。私がいるマンションの正面からは各部屋の窓が見え、彼の部屋の窓に引いたカーテンからは僅かな照明の灯りが透けている。
ジャケットのポケットからケータイを取り出して、私は彼の番号を呼び出した。コールの音が耳の奥まで響く。
何やってるんだろ。
私はもう一度呟いた。彼のことが信じられない、親友にそう告白した。私のことを思って反対してくれた親友をそれでも押し切って私は私の愛を信じると決めたのに。
私は揺らいでいた。親友と最後に別れてから今日まで、揺れはグラグラと日増しに大きく振れていく。気持ちの針は頂点を刹那に触れ過ぎて、極端と極端に長く留まる。頂点は私の信じる愛、両極は彼への疑心だ。
例え、彼が私を裏切ろうと私は彼のことを愛し続けられる、それが私の信じる私の愛。けれど、本当にそのときが訪れてしまったいま、私は自分の気持ちが真っ直ぐに彼に向かっていると言えない。
帰ろう、彼が私を部屋に迎えてくれると言ってくれたら、このまま踵を返して駅に向かおう。明日も仕事で、後輩のあの子に心配をかけないように体を休めないといけない。明日のために、帰ろう。
そう決めた瞬間、電話が繋がった。
「もしもし、どうしたの、こんなに早い時間に電話なんて珍しいね」
「ごめんなさい、声が聞きたくなっただけなの、迷惑だった?」
「そんなことはないよ、嬉しい」
耳触りのいい柔らかな彼の声。思わずほっと息をついた。
「もう仕事は終わったの?」
「ええ、早く片付いたから定時に終われたの」
「そっかー、いいな。俺はまだ仕事中なんだよね」
「え?」
彼の部屋を見上げた。205号室の窓は確かに明るい。時々、薄いカーテンを横切る人影も見える。
「まだ、仕事終わってないの?」
「企画の準備が始まったんだ。今は休憩中だから電話取れたんだけど、そろそろまた戻らないと」
「・・・そう、大変そうね」
「まあ、認められてきたってことだろうし、それは嬉しいけどね」
心臓が嫌に高鳴る。皮の一枚下で脈を打ってるみたいに、動悸が聞こえてその脈と同時に頭の芯が響くように痛む。
私はマンションの階段に向かった。夜の薄暗闇を階段天井の照明が白く照らし、その照明に体当たりをする蛾の羽音がしている。
「ねえ、部屋って205号室だったよね。仕事終わってからでもいいから、ちょっとでも会えないかしら」
「あー、無理かも。今日は仕事終わったら飲みに誘われてて」
「そう」
私は足を踏み出した。一段ずつゆっくりと上がっていく。踊り場の照明下に着いたとき、一際大きい音がして足元に蛾が落ちてきた。体をを小刻みに震わせる蛾の茶色い羽根を、ヒールの先で踏みつけて進む。
「俺も会えなくて寂しいよ。また埋め合わせはするから」
「うん、わかった。仕事、がんばってね」
205号室の扉の前。
「期待して待ってる」
電話を切ってチャイムに手を伸ばした。
チャイムの音がして、私はバッグを持った手にぎゅっと力を込めた。
扉の一枚向こうからスリッパの音がして、鍵が開いて、取っ手が下がる。
玄関を大きく開いてくれるように一歩下がってみて、顔を上げた。
開いて扉の先には。
「いらっしゃい、待ってたのよ」
穏やかに微笑んだ親友がいた。
かわいいばかりの人じゃないって、私は忠告したわよ。あいつの高いダメなところも、あいつをやめた方がいい理由も、私はちゃんと話してあげたし反対したわ。あのこは私の古い友達だったし、大切におもっていたもの。
でも、友情と恋愛はやっぱり違うのよ。どちらも大切で、長く続いて欲しいものだけど、私にとって友情が恋愛に勝ることは絶対にありえない。あいつとの恋愛を隠したまま、あのこが私の忠告を聞いて諦めてくれればよかった。そうしたら、私は恋愛も友情も続けることができたのに。
まあ、そう上手くはいかないものね、友情も恋愛も。
ああ、チャイムが鳴った。
あのこのことを、いつものように微笑んで迎えてあげないとね。
はじめまして。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
書き出しから内容も決めずにさらっと書いたものなので、わかりづらいところも内容が繋がらないところもあると思います。
それは追い追い修正をしていくとしまして、今回はスマホ入力のためとご容赦下さいませ。
この作品ですが、これは男が二股をかけた女性が親友同士だったという落ちのものです。
一応の主人公格の女性の方は、男のほうと親友の方とで悩むところがありますが、もう一方はさらりと友達のほうを捨ててしまいます。それぞれ人にはいろんな価値観があるんだよーっていうのを書きたかったのかな、私は。
本当は百合にしようかとも思ってたんですけど、あー、最初の投稿からはマズイかなと自重。
コメントや評価や誤字脱字など、さまざま受け付けます。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。