7.存在
7.
エレンのいなくなった休日を、私は無為に過ごした。ただ部屋に在るだけで、それ以外は死んでいるも同然だった。
だから、電話が掛かってくるまで、有休が終わっていたことにも気付かなかった。
半ば無意識で会社に向かうと、待っていたのは、怒っているやら、心配しているやらで、困った表情を浮かべる上司だった。
「お前の仕事は、俺もよく分かってるんだ。少し無茶をさせ過ぎたとも思う。だけどな、全く連絡を寄こさないってのは、一体どういう了見だ!」
説教は十分程続いたが、最終的には、頑張れよ、期待しているという激励の言葉と共に解放された。
「何だかんだ、気にられてるよな、お前」
たまたま私の席の近くを通った中沢が、声をかけてきた。依然として隈は消えないものの、心なしか、だいぶ元気を取り戻したように見える。やはり、一仕事終えたから、だろうか。
「そういえば」
と、中沢は話を変えた。
「どうだ、対策ソフトの具合は?」
中沢が何の話をしているのか、瞬時には分からなかった。
「ほら、前に発見したバグの対策ソフトだよ。休みの間に強化バージョンのソフト送っただろ? 調べてみたら、何かお前の頭へ続くラインに痕跡があってな。急遽、改良に改良を加えて、お前に送ったんだ」
「そんなの、知らんぞ」
身に覚えはないが、ひどく、嫌な予感がした。中沢の言葉は、頭の中で一つの事実へと再構築されていく。絶対に、認めたくない事実へと。
中沢は、不思議そうな顔で言った。
「おかしいな、確かにインストールされた痕はあるんだけど。朝からお前の頭をスキャンしてみたんだが、確かにソフトがバグを消去……」
「すまん、中沢。少し、席を外す。まだ、本調子じゃないんだ」
そう言って立ち上がり、私はトイレへ向かった。
個室に籠り、吐いた。この身体で、そんな生理現象が起きるはずはないのだが、それでも私は、ひたすらに吐き続けた。
中沢の言葉と、私の体験を照らし合わせるなら、見えてくる事実は一つしかない。
エレンは、エレンは、もう……。
「何で、だよ……」
私は確かに、中沢のソフトをインストールしてはいない。だが、彼女なら、私の脳の中にいた彼女なら、それも可能だったのかもしれない。
何も、分からなかった。
どうして、エレンはそんな選択をしたのか。しなければ、ならなかったのか。
生身の身体にように吐き出せたら、少しは気が楽になっていたかもしれない。だが機械でできた身体では、内に溜まったものを出し切ることすら、できやしない。
十分ほどそうしていただろうか。何の気力も沸き起こらないまま、私は席へと戻った。
顔色には出ないはずだが、それでも、周りからは案じるような視線を感じた。
その後も仕事は捗らず、居るだけ時間の無駄だと定時には追い出されてしまった。
だが、真っ直ぐ家に帰る気にはなれず、何となく回り道をしてしまった。
どこに行くでもなく、ぶらぶらと。
そのつもりだったのだが、気付けば、私はいつもの川沿いの道に来ていた。
エレンと、初めて出会った場所。
それから、二人で会うのはいつもこの場所だった。
だから、ここに来れば、いつでも彼女に会えるのではないかと。
どうしようもなく、思ってしまったのだ。
思いつく限り、彼女といた場所で、彼女の姿を追い求める。
情けないとか、女々しいとか。そんな外聞は、どうでも良い。
会いたい、だけなのだ。
想い出を辿る内に、知らず、家の前に辿り着いていた。
ほんの数日前まで、扉を開ければ、エレンがいた。
だから今は、扉を開けるのが怖い。
期待する気持ちとは裏腹に、頭では嫌というほど理解している。
それを確かめるのが、怖い。
立ち竦む私の肩に、ぽんと手が置かれた。
「よぉ、呑もうぜ」
いつものようににやけながら、それでも、どこか私のことを案じるように。田所は、私の目の前にいた。
「まあ、何だ。とりあえず入ろうぜ。春先でも、ちょっと寒いわ」
わざとおどけた調子の田所に誘われ、私は部屋へと入った。
現実との直面は、やはりこたえた。
聞こえるはずの声は、聞こえない。
見えて欲しい姿は、見えない。
座ってからも、私は、何も話せなかった。何も、話したくなかった。
話さないでいると、どんどん自分がなくなっていく。はっきりとした輪郭を失い、薄れていく。数日前まで確かに存在した、彼女のように。
自己の喪失に対して抱いていた怖れは、もう、ない。たぶん、このまま存在したところで、意味はないのだ。
私は、生きている意味を失ったのだ。
沈黙が、部屋の空気を支配していた。だが、その沈黙に痺れを切らした男がいた。
「あーあ、たくっ、しっかりしろ」
そう、やけっぱち気味に言うと、田所は一升瓶を瓶のまま半分まで呑んだ。ああ、こりゃ効くぜぇと目を閉じ、苦しんでいるのか、喜んでいるのか分からない声を上げた。
「俺の生き方なんて、こんなもんよ。きっと酒に溺れて死んでいくんだろうよ。最後の方は、自分のことなんて分からなくなってな」
そう言って、残りの半分を空にする田所。ぎゅっと瞑る目は、何かにしがみついているように必死で、生というものを、噛み締めているようだった。
「でも、俺ぁ、幸せだろうよ。自分の身体で死んでいけるんだから。周りには迷惑かけるだろうがよ、それでも、みんな俺が死んだっって分かってくれる。他の誰でもねぇ、この俺がよぉ」
お前はどうなんだ。そう田所は問うた。
「お前の身体は、確かに自分のもんじゃぁねぇ。でも、お前は、その身体で生きてるだろうがよぉ。なら、お前らしく生きて、死ねるじゃねぇか」
酔ってはいるが、彼の目は本気だった。本気で、私にどう生きるかと聞いているのだ。
「俺は……」
分からないと答えた。それは本心だ。私は、この身体で、自分が何をしたいのかなんて、考えることもできなかった。
はっきりしない回答に、田所は、それでも良いんだよと言った。
「分からないならなぁ、考えろ。それで、見つからなくたって、意味の一つやぁ二つ、簡単にできるんだよ。人生なんて、きっとそんなもんだ。それに、見つからなくたってもなぁ、俺が生きてる間ぁ、俺も考えてやらぁ」
そう言って、田所は空の一升瓶に口をつけ、何だよ、もうないじゃねぇかと悪態をついた。
田所の言葉は、素直に響いた。
エレンがいなくなった悲しみを、私にはどうすることもできない。納得なんてできないから、全てを放棄して、楽になりたかったのだ。
だがこの友人は、私の気持ちを感じ取り、それでも苦しめと、優しい言葉をかけてくれたのだ。
生きる理由なんてない。
生きなければいけない理由もない。
――けれど、私という意味を与えてくれる人は、まだいるようだ。
私は、田所にエレンとの顛末を話そうとした。
話している途中、何度も、こみ上げてくるものがあった。抑えることができずに、嗚咽をもらし、話を続けることは、できなかった。
そんな私に、田所は言った。
「今夜は、呑もうぜ」
他人は鏡のようなものだと思います。
他人から自分への言動を見て、やっと私達は「自分」というものを認識できるからです。
そのため、往々にして「自分」の存在というのは歪んでしまったりもします。
そんな時に、自分をよく見せてくれる他者の存在があれば、幾分か幸せになるのかなと。
そんなことをぼんやりと考えながら、この小説を書きました。
皆さまのお口に合ったかは分かりませんが、それなりに味わっていただけたのなら幸いです。
ところで、他者からの言動によって「自分」が分かると書きましたが、そこでの他者は、作者にとっての読者と同義です。
なので、この作者がどういう人間なのか知るためにも、感想など残して頂ければと思います(笑)。
最後になりましたが、お付き合いありがとうございました。
また、お会いできる日を楽しみにしております。
それでは。




