6.エレン
6.
目が覚めた。覚めている、はずだった。
見慣れた部屋が歪む。頭が、割れるように痛い。
時間感覚はとうにイカれていて、どれくらいの間動けないでいたのかは分からない。
間延びした気だるい時間、無理矢理にでも目を開けていれば、それなりに慣れは生じる。頭痛は止まないが、何とか、視界は正常に戻り初めていた。
「エレ……ン……」
名前を呼ぶ。返事は、ない。
「……エレン、エレン」
繰り返し、繰り返し、呼ぶ。
「……無理は、しないで欲しいんだけどね」
声が聞こえた。姿は、見えないが。
「ごめんね、ちょっと今は姿を見せられないの」
「ちゃんと、いる……んだな?」
うん、という返事が聞こえ、ひとまずは安心した。だが、姿を見せられないとはどういうことだろうか。
「姿を見せられない、ってどうして」
「あなたの脳に、限界がきているから」
エレンの声には、申し訳なさが滲み出ていた。
「やっぱり、無理なんだよ。私が、あなたの中に居続けるのは。だから、もう……」
「でも、ここから出ていったら、もう会えるかは分からないんだろ!」
エレンが私と会えたのは、会社にサーバーに偶然迷い込んだからだ。彼女は行き先を、完全に自分の意思で選ぶことはできない。一度広大なネットの海にのり出せば、後は流れに流されどこかのサーバーへ。基本的に、元の場所に戻ることは叶わない。
会社のサーバーに戻ることくらいなら可能らしいが、戻ったところで中沢に消されるだけ。
だから――私の脳を出て行くのなら、私達はきっと、二度と会えなくなる。
「え、エレンは……」
どうしようもなく、震える声で。
「俺と、一緒にいたくは、ないのか……?」
――俺が、好きじゃないのか?
みっともなく、そんないまさらなことを聞いた。
怖くなったのだ、エレンに見捨てられるのが。自分が、エレンに愛されてはいないかもしれないことが。
息を呑むような気配がした。
そして、沈黙。
そんなに時間は経っていなかったのだろうが、それでも、私の心を凍えさせるには、充分な時間だった。
「私は……」
エレンの声にびくりと、身体が、心が反応した。不安が、押し寄せた。
しかし。
「私も、大好きだよ」
私の不安を溶かすように、ひどく優しい声で。
「だって、言ってるでしょ。あなたが愛してくれているから、私はここにいるんだ、って。だから、私も」
――あなたを愛している。
と、満ち足りたように答えてくれた。
その言葉は純粋に、嬉しかった。それだけで、私は私という存在を、認められるようになる程に。
だからこそ、何故という疑問が浮かぶ。
「それなら、それなら、何で……」
――俺と、居てくれない。
好きなら、愛していると言うのなら、ずっと一緒に居てくれても、良いではないか。
私の気持ちは、嫌という程伝わっているだろうに、エレンは、真っ直ぐに私に語りかける。
「好きだから、愛しているから、こそだよ。私といることで、あなたは壊れてしまう。ただ、それが嫌なんだ」
「壊れるって、俺は、壊れてなんか。脳の話をしてるなら、きっといくらでも方法はあるはずだ」
見えてはいないが、エレンが首を振るのが分かった。
「壊れてるんだよ、今のあなたは。脳に負担がかかっているから、だけじゃなく。別にね、あなたの身を案じているから、言っているんじゃないの。私はね、壊れてないあなたに、愛されたかった。ちゃんとあなたに、見て欲しかった」
その言葉に、どう返せば良かったのだろうか。
私は本当に、彼女を愛していた。
彼女無しでは、生きていけない程に。
けれど、それは、自分勝手で、独りよがりなもの、だったのではないだろうか。
「俺は、俺は……」
声は、言葉には成らずにぱらぱらと落ちていく。溢れた気持ちは行き場を失くし、膿となって溜まっていくようだった。
ただただ絶望に暮れる私を、不意に暖かさが包み込んだ。
「あなたのせい、ってわけじゃない。あなたの言うことに身を委ねた私にも、責はある。私だってあなたとの時間は心地良かったの。ただ、私達はもっと話し合うべきだった。お互いに自立した存在として、向き合うべきだったんじゃないかな」
二人共、相手に依りかかり過ぎた。
相手に、自分の存在を委ね過ぎた。
だから、どちらかが駄目になれば、共倒れになってしまう。
つがいになるのなら、依存ではなく、共存でなくてはならなかった。そうでないと、相手を守ることだってできないのだから。
私は、そのことに気付かず、自分が助かることばかりを考えてしまっていた。彼女はずっと、気付いていたというのに。
「勝手なことばっかり言って、ごめんね。でも、たぶんこれ以上は限界なんだ」
そうして、エレンは、言った。
――バイバイ。元気でね。
身体を包んでいた温もりが、少しずつ消えていく。
「……エレン?」
呼び掛けに、返ってくる声は、無かった。




