1.私を繋ぐもの
初めまして、淡夏と申します。
拙い作品ですが、どうか読者様のお口に合えば幸いです。
1.
「はい、よろしいですよ」
その一言で、私はゆっくりと瞼を開けた。蛍光灯の光が目に入り、視界をぼやけさせる。
「疑似神経に異常は見られませんな。恐らく、もっと精神的な問題でしょう」
声の主は、私の頭に繋がったプラグを抜いた。一瞬、激痛が全身を貫く。命に別状はないと分かっていても、この感覚だけは、慣れることができない。
痛みが引き、上体を起こす。対面には、白衣を着た初老の男が椅子に腰かけていた。口元に皺を寄せながらも、彼はにっこりと笑った。
「なかなか、機械の身体には慣れないようですな」
その言葉には、苦笑で返す他なかった。
「もう、二十年近く付き合っているんですがね。違和感は、なくなりませんね」
ふと、医者の背後にある窓ガラスが目に入った。そこに映る、二十代前半と思しき若者と目があった。私が首を回すと、そいつも全く同じ動作をした。
医者は、そういうものですと頷く。
「貴方は二十年近く自分の身体を持っていたんだ。それと同じだけの時間を機械の身体で過ごしたとしても、そう簡単に、脳は身体のことを忘れてはくれませんよ」
安心させるような柔らかい声にも、私は気の抜けたような返事しか返せなかった。
私は、自分の掌を見つめる。どこから見ても、それは人の手をしている。だがその手は作り物で、私自身のものでは、決してあり得ない。それは、手だけではなく、頭のてっぺんからつま先まで。脳以外の部分は、全て作り物の身体なのだ。
私の様子を見かねてか、医者は唐突に話し始めた。
「加藤さん、『コンパク』というものをご存じですか?」
私が首を振ると、優しげな口調のまま、彼は続けた。
「人には二つの気があります。一つは精神を支える気で『魂』と言い、もう一つは肉体を支える気で『魄』と言います。二つ合わせて『魂魄』とも呼び、私たちが生きる上で大切な存在らしいです」
突然の話に、これまた気の抜けた返事しかできなかった。話が、見えてこない。
「どちらかが欠けると、私たちは違うものになってしまう。魂が離れれば、精神はなくなり、身体だけの存在になる。ゾンビみたいなもんですな。いや、この場合はキョンシーの方が適切ですかな」
キョンシーとは懐かしい、と医者は笑った。私には、いまいち笑い所が分からなかったが。
「キョンシーの話は長くなるのでおいておくとしまして、では、魄が離れた時はどうなるのか。今度は逆に身体がなくなり、精神だけの存在になる。鬼――つまり、亡霊になってしまうわけですな」
「亡霊……」
「そう、亡霊です。死者の魂、というよりも、魂だけが生きている。そういう状態でしょうか。私たちが想像する幽霊は、あくまで未練の塊みたいなもんですが、この場合の亡霊には、ちゃんとした自己があるのです。本来、精神と身体は自分の依るべとなるのですが、身体が個人のものとしての意味を失いつつある今の時代、精神が、私たちの存在証明みたいなもんです。でも、精神だけでは、私たちは自己の証明なんてできません」
――だからね、加藤さん。医者は、それまでとは違い、神妙な口調で言った。
「作り物の身体とは言っても、身体がある以上、貴方は、貴方は貴方としてそこにいることを証明できるのです。周りにも、自分の存在を知らしめることが、できるのですよ」
そうして、医者は微笑んでみせた。
もう一度、私は窓ガラスを見た。そこに映る若者は相変わらず私を見つめ、私も彼を見つめていた。
病院を出ると、背の高いビルが並んでいた。天上には青空が広がっているが、ビルの向こうにあるためか、私にはますます遠い場所に思えた。
「遅かったね」
不意に、横から声を掛けられた。振り向くと、そこには一人の女性がいた。二十代前半といったところか。背中まで流れる黒髪に似合った端正な顔立ちは、しかし、どこか幼さを残している。それでいて、醸し出す空気は大人びたものがあった。彼女の存在は、アンバランスなようでいて、それで完成していた。
「……エレンか」
私がそう言うと、彼女――白貫エレンはもたれ掛かっていた壁から背を離し、私の真横まで来た。
「遅かったけど、大丈夫なの?」
心配そうに眉根を寄せる彼女。口調は落ち着いているものの、その目を見ているだけで、心から心配されていると実感できた。
私は、自分の弱さを恥じた。自分が自分である実感がない、なんてことで、彼女を不安がらせているのかと思うと、情けなくなったからだ。
それでも私は、力ない口調で大丈夫と口にすることしかできなかった。言い切る自信は、なかった。
「なら、良いんだけどね」
声に陰りはあるものの、エレンはすぐさま笑顔を見せた。
「大丈夫なら、行こうよ。今日は二人でお花見をする約束でしょ?」
そうして彼女は私の手を引いた。私より少しだけ小さなその手の存在を、私はしっかりと感じとっていた。
夜。エレンと別れ、私は一人で部屋に帰った。
誰もいない部屋の明かりを点ける。目に入るのは、生活感に欠けた、ただの部屋だった。
二十年前、事故に遭い、脳以外の身体が機械に変わってから、この部屋の時間は止まってしまったようだった。
そんな化石めいた部屋を眺めていると、また、自分が自分である実感が薄れていく。
変化がない。それは、死んでいるのと同じなのではないだろうか。
かき消えそうな私を、不意に聞こえたチャイムが繋いだ。誰だろうと扉を開けると、そこには一人の中年男性がいた。
「よぉ、飲もうぜ」
へへ、と生え際の後退した頭を掻きながら、田所が部屋に入ってきた。
田所とは、私が事故に遭う前――大学時代からの友人である。だから、今の身体よりも、ほんの少しだけ付き合いが長い。
「相変わらず、しけた面してんなぁ。見てくれは若いんだから、ちったぁ、精力的なとこ見せやがれってんだ」
まあ、中身はおっさんだけどなと言って彼は笑った。昔から無遠慮と評されることの多い田所だが、実際は人懐っこいだけで、相手の気持ちを考えていないわけではない。
田所は私より先に腰を下ろすと、持ってきた一升瓶を取り出した。私は食器棚からグラスを二つ取り出し、テーブルの上に並べた。
「ご無沙汰だったな」
「ちょっとな。東京の方へ出張だったんだ。全く、人使いの荒い会社だぜ。俺は生身だってのに、機械化した奴らとおんなじ様に扱われる。若い頃はそれでも良かったが、こう年をとると、どうも身体がなぁ……」
田所は酒を注ぎ、一気に呑み乾した。
「あんまりアルコール摂ると身体に良くないぞ」
「分かってるよ、そんなこたぁ。でもな、身体壊すくらいが丁度良いんだよ、俺にはな」
そう言って二杯目を飲む彼を見て、私は少し羨ましく思った。酒を飲むことはできても、生身のような楽しみ方は、すっかり忘れてしまった。
「で、どうなんだよ。その、新しい彼女さんとやらは」
酔い始めたせいか、田所は唐突に切りだした。少し考えて、彼がエレンのことを言っていることに気付いた。田所が出張する前に、ちらっと彼女の話をしたのだ。
「別に、付き合ってるわけじゃないんだが……」
「かぁ、何言ってやがんだ。右も左も分からねぇ若造でもあるまいに。女と会って一緒にいるってのはそういうことだろうが。本当なら彼女とか、付き合いとか言うんだって気が引ける年だってぇのに、良く言うぜ」
確かに、それはそうだろう。本来なら子供がいて、学費など家庭の心配をしていてもおかしくはないのだ。田所にも今年で中学に上がる娘がいる。見た目は二十代でも、私という人間は、もう四十を越える人生を積み重ねてきたはずなのだ。
「まあ、お前と俺じゃあ違うもんがあるのはぁ、仕方ねぇわさ。で、馴れ初めってぇのは、どんなだったんだ」
完全に酔いが回ってきたのだろう。私の返事を待たずに、彼は次々に質問を投げかけてくる。こうなると手がつけられないので、私は手短に彼女との出会いを話した。
話し終えると、田所はふっと吹きだした。
「一緒に川眺めてたってぇ、一体いつのドラマだってんだ」
げらげらと笑う田所を、うるさいなと一睨みした。自分でも青臭いのは承知している。
ただ、呆然と川の流れを見ていた。何を考えるでもなく、無になるように。
そんな時、隣で同じように川を眺めている女性がいたのだ。その時に何を思ったのか、私は覚えていない。だが気がつくと、私はエレンに声をかけていたのだ。
それから毎日、私たちは同じ川で会うようになり、今のように二人でどこかに出かけるようになったのだ。
「ははは、青くせぇにも程があるってんだ」
「仕方ないだろ。事実なんだから……」
田所は笑い過ぎて、目尻から零れるものを拭った。
「はは、まあなぁ。人生色々、出会いも色々。そんなよく出来た話の一つや二つ、あってもおかしくはねぇってことよなぁ」
そう言った後、不意に彼は真剣な顔をした。
「で、どうすんだ?」
どうするとは、と聞き返すと、彼は馬鹿野郎と言い返した。
「籍入れるかどうかってぇことだ。いくら見かけが若ぇからって、もう年だからなぁ。先のこと考えろ」
「だが、もう子供は……」
作ることが、できない。
今でこそ技術が進み、サイボーグも生身の人間と同じ機能を備えるようになってはいるが、私の身体は時代遅れも良いところ。延命することが優先で、生殖機能などはつけられていなかった。
そのため、私は自分が結婚する意味を見いだせないでいる。子が残せないなら、何も誰かと夫婦になる意味などないのではないだろうか、と。
そんな私の状況を知っているはずの田所は、しかし私の感想を冷静に否定した。
「関係ねぇよ。お前がこの先、一人で生きていくんならそれでも良い。だがな、見てるとそれは無理だ。俺だっていつまでもお前とこうやって呑めるわけじゃねぇんだ。生涯の連れ添いぐらい、つくりやがれってんだ」
そう言って、田所はコップを空にした。結局、持ってきた一升瓶は彼一人で空けたことになる。
何とはなしに私は、空っぽのままだったコップを見た。
田所の言う通りかもしれない。私一人では、生きている実感さえ湧かないのだ。だがエレンといる時は違う。それなら――。




