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「愛しているから、この手で抱きしめたかった。だけど、愛しているのなら生むべきじゃなかった」
ごめんなさいと、今はの際に呟いた母の言葉を思い出すのがもう何度目になるのか解らない。つい一か月ほど前のその光景は、決して色褪せることなく凜子の脳内に焼き付いていた。
静かに涙を流し眼を閉じた母の姿を思い出す度に、全身を掻き毟りたくなるほどの衝動に駆られた。そうして凜子は、この優しい母親に悲しみの死を与え、同じように自分にも呪われた運命を課せた何処かの誰かを憎んだ。
憎むべき対象が誰であるのかは解らない。ひょっとするとそれは、神と呼ばれる触れることの出来ない存在であるのかもしれないし、それとも初めからそのような相手は居ないのかもしれない。
どちらにせよ、課せられた運命を背負い、誰に恨みを晴らすでもなくただ悲嘆に暮れて生きてく他ないのだということを凜子は知っていた。選ぶべき道は初めから二つしかないのだ。母やその先代先先代と同じように呪われた血を引き継ぐが、ただひっそりと気の遠くなる年月を一人で過ごして息絶えるのか。
悲しみの連鎖を断ち切ることなど出来ないのだろうか。遠い昔の罪を背負って、自分はどのような人生を辿るのだろう。
そうして凜子は、自分と同じ目をした母の姿に想いを馳せた。この水に濡れたような奇妙な瞳には、流すことの出来ない遠い記憶があるに違いなかった。
唐突な眩しさを感じて、凜子は微睡から覚醒した。
この光の正体は何なのだとたい瞼をこじ開けると、どうやら僅かに開いていたらしいカーテンの隙間から漏れた光が、丁度自身の頬に射しているようだった。
昨夜はろくに眠れなかった。振り払おうとしても浮かび上がる思考を手放せず、ようやく意識がぼやけたところで再び目を覚ます、と言うのを一晩中繰り返していたように思う。
鈍い頭痛がした。頭の奥の方をじんわりと締め付けられたような、不愉快な感覚である。しかしそれが単なる寝不足のせいだけでないことは解っていた。昨日から絶えず胸の内に渦巻いていた不安が、晴れやかな朝を迎えることの妨げになっていることは明らかである。
(……あの男の子は、私のついた嘘に勘付いていたに違いない)
眠れなかった一番の原因である、昨日出会ったばかりの青年の姿を思い浮かべて、凜子はより一層気が重くなるのを感じた。
明人の兄のような存在だというその青年は、名を時文と言った。背格好や佇まいなどはごくごく一般的な、年相応の青年である。しかしどこか淡々とした口調で言葉を紡ぐその姿や、切れ長の一重の目、そして筋の通った鼻を持つその青年からは一際聡明な印象を受けた。
事実都会の公立大学であるY大学に通っているのだという彼は、印象通りの賢い人間であるに違いなかった。大学のことなど何一つ解らない凜子ではあったが、そうであっても彼の通う大学がこの国でもごくごく古い歴史を持つ有名校なのだということは知っていた。
しかしだからと言って、青年のその経歴や佇まいが凜子の不安を掻き立てた全ての原因と言うわけではなかった。普段凜子にとって、聡明な人間と言うのは特段敬遠すべき対象ではない。物静かな人間は嫌いではないし、賢い人間であってもそれをひけらかそうとしないのであれば人柄としては申し分ないとは思う。賢いことはこの世に生きる上では美点であると、そう感じていた。
では何故青年に対して必要以上に懸念を抱いたのかと言えば、それは彼の賢さや人柄のせいなどではなく、他でもない凜子自身の胸に宿る後ろめたさが原因であった。抱えた秘密がこの賢そうな青年にばれない様にと願う気持ちが、凜子に警戒心を抱かせたのだ。
(……あんな態度は取るべきではないって解ってる。明人にだって、もっと上手に嘘を吐けと言われたわ)
明人に出会ったその日のことは、今でも鮮明な記憶の一つとして凜子の脳内に存在していた。
村へと続く森の中を歩いている際、向こう側からやってくる、自転車に乗ったその少年の姿を視界に捉えた瞬間、凜子の心臓は大きく撥ねた。しかしそれは、心構えのないうちに村人に出会ってしまったことに対する緊張によるものではなかった。何かそれ以外の、言いようのない感情が全身を駆け巡ったのだ。
それは恐怖であり安堵であり、不信感であり何故だかよく解らない信頼感のようなものでもあった。真っ直ぐに 自分を見つめるその明るい茶色の瞳を見て、何故だか酷く縋ってしまいたい気持ちになったのだ。しかしそのような考えを抱いた自分自身に、凜子は一番に驚いていた。
自分より幾らか年下の少年に、一体何を感じているのだろう。また何故そのような感情を抱いてしまったのだろうと、ただただ呆然と、対峙した少年を見つめていた。
そうしてしばらくの後に意識は覚醒し、どうにかして目の前の少年をやり過ごさなければと思い立ったが、砂でも飲み込んだようにざらつく喉奥からは一向に言葉は出てこなかった。少年の方でもどうやら言葉が見つからないらしく、戸惑うようにしてお互い見つめ合っていた。
数秒数十秒、ともすればそれより長い時間か短い間、ただ視線を合わせて立ち尽くしているだけだった二人であったが、訪れた沈黙を破ったのは少年の方だった。幼さの残るその声音が、何故だかやたらに脳内に響いた。
しかしそうして始まった会話にも、凜子は上手く答えることが出来なかった。この村に知り合いでもいるのかと問われ首を振り、では何の用があって来たのかと問われて自分でも呆れるほどに下手な言い訳をしたところで、ようやく凜子は自身の愚かさに気が付いた。
本来このような辺鄙な場所を訪れる者など居ないのだ。人の入れ替わりが激しい町中では、入って来る人も出て行く人も特別目に留める必要などないが、この地ではそうではないに違いない。山奥でひっそりと暮らす村人達にとって、見知らぬ訪問者は部外者でしかないのだ。より都会的になっていく町中とは違う暮らしぶりが、ここでは当たり前のものとして捉えられている。半ば衝動的にこの村に来ることを決めた凜子は、そのような村の事情など一切考えたことがなかった。
母親が死んでからと言うもの、混乱と焦燥に駆られた脳内は必然的に自分の呪われた一生の真相を探ることを選んだが、どうしたってそれは他人に知られて良いものではない。隠さなければならない凜子の秘密であった。しかしその秘密を守り通すためには、見知らぬ女に好奇の目を向ける村人たちを納得させられるだけの理由が必要だった。しかしそのことに凜子は気付かなかったのだ。気付かぬままにここまで足を運んでいた。
途端に凜子は、考えもなしに行動した自分が情けなくなった。
今すぐにでも逃げ出してしまいたいと、そう思う。しかしそれと同時に、ここから逃げてどうするのだと、自身に言い聞かせる声が聞こえた。
逃げるとは何から? 目の前のこの少年からか、それとも知ってしまった自身の運命からか。逃げられると言うのだろうか。いいや、
逃げられるわけなどない。逃げられないからこそ、母もその祖母も涙を流しながら若くして死んでいったのだ。踵を返してこの地を離れたところで、何も変わりはしないのだ。むしろそれは、唯一の逃げ道さえも経つことに繋がりかねない。
そうは思いつつも、後ろめたさを抱えて訪れた手前、これ以上自身をじっと見つめる少年の瞳に向き合うことはできなかった。そうして凜子は、逃げるように視線を伏せた。俯いた先には乾いた地面しかない。見知らぬ土地を踏みしめながら、果たしてこの場をどうやって切り抜けたら良いのだろうと、焦りと不安ばかりが募っていた。
しかしそうして怯えてばかりの凜子に対し、少年は笑うでも蔑むでもなく、静かな声音で言ったのだ。俺はその嘘に騙されてやると、至極真面目な声音で。
瞬間、凜子は瞠目した。何を言っているのだと、信じられない思いで目の前の少年に向き直った。しかし相も変わらず見つめてくる双眼は純真で、悪意などほんの一欠けらも感じることは出来なかった。必死に意図を探ろうにも、その裏に隠れている策謀も、愚かな女を嘲笑う意地の悪さも見つけることは出来なかった。
そうして遅ればせながら、言われた言葉の意味と彼が冗談ではなく本気でそう言ったのだということを理解し、そんなまさかと思いつつも凜子は救われた気持ちになった。
容認されたのだと、そう感じた。
実感するとともに、村に来るまでの間抱いていた、自分の呪われた運命に対する罪悪感が一瞬のうちに爆ぜた気がした。背負った忌まわしい人生の全てを許された気がしたのだ。
実際に彼の一言で自分の問題が解決したわけではない。しかし安らぎなど感じる間もなく過ごす時間に慣れ始めていた心には、純真な少年の悪意のない言葉はただひたすらに優しく染みた。
(……だけどせっかく村への滞在が許されたのに、未だ何も解ってはいない。村内は一通り案内してもらったけれど、手がかりになるようなものは何一つ見つからなかった。……この村に来れば何か解るかもと思ったけれど、やっぱり安直だったのかしら)
すでに村に来て一週間が経過していた。大学の夏季休暇を利用して研究にやって来た、という嘘を信じた明人の両親や村人たちは、今のところは凜子の滞在を怪しむことなく受け入れてくれている。中には珍しい客人を歓迎して、休暇の間中村に居れば良いじゃないかと言う者も居た。そんな心優しい人々に感謝しながらも、流石にその言葉に甘える気にはならなかった。
そもそも一週間たっても何の情報も得られていないこと自体、凜子にとっては幾らか予想外なことであったのだ。流石にすぐに目的が達成出来るとは思っていなかったが、情報を探るという行為がここまで難しいものだとは思わなかった。
そもそもこうして村人たちの世話になること自体予期せぬことであったのだ。しかしそうした予想外の出来事を引き込んだのもまた凜子自身であった。衝動のままに行動することなどせず、ここに来ると決めた時点で村についての下調べをきちんとしていたとしたら、明人をはじめ村の人々の世話になることもなかったに違いない。
(……私は何一つ、自分の力で解決することが出来ていないんだわ)
明人に出会ったことは心から感謝している。村で最初に出会った人物が彼でよかったと、心から思う。明人が自分の面倒を甲斐甲斐しく見てくれることも、無邪気な笑顔を向けてくれることにも凜子は安らぎを感じていた。
しかしだからこそ、そんな彼に真実を一つもうちあげられていない現実に心が痛んだ。自分の力になりたいと感じてくれているあの少年が、それと同じくらい自分の素性を気にかけていることも凜子は気付いていた。気にかけたうえで聞くべきではないと判断し、何も言わずに協力してくれているのだ。そんな自分よりずっと年下の少年の気遣いに、凜子は度々自身の不甲斐なさを痛感して落ち込んだ。
村人達の心遣いによって無償で村に滞在することが出来ていると言うのに、未だ有力な情報の一つも得られていないのだという事実は凜子に焦りばかりを与えていた。どうにかしなければならないのにどうにもならない、そんな焦燥は凜子に新たな不安を植え付けた。
この村には手がかりなど一つもないのではないだろうか。万が一にも何か情報を得たところで、結局何も変わらないのではないだろうか。
抱いた疑念を必死に振り払おうと躍起になるも、それを否定することは出来なかった。諦めにも似た感情が心の内に存在し始めていた。
そんな折、明人の馴染みだと言うあの賢そうな青年に出会い、お前の嘘など全てお見通しだと言わんばかりの眼差しを向けられたものだから、凜子はすっかり心の余裕をなくしてしまっていた。しかしそうして昨夜の自分を責め立てたところで、過ぎた時間が戻りもしないことは解っていた。
一つ二つ吐いた溜息が、静かに空気に溶けていった。
「あら、凜子ちゃんおはよう。昨日は本当にごめんなさいね、すっかり迷惑をかけちゃったわ」
あれやこれやと頭を悩ませた挙句、だからと言って何もしなければ何も変わらないのだと布団を抜け出し階下へと降りて行くと、丁度寝室から出てくるところであった直子に遭遇した。
いつも穏やかで明るい笑顔を浮かべている直子は、起き掛けと言うことを抜きにしてもどこか疲れたようなぼやけた表情を浮かべていた。普段とは違う様子の原因が、昨夜の宴会でさんざん煽ったアルコールのためであることは明らかである。
「迷惑だなんて、そんなこと。私の方がお世話になっているんですから、気にしないでください。それより大丈夫ですか、顔色が随分悪いけれど……」
「二日酔いみたい。少し頭が重たいわ。多分、あの人もおんなじような状態で起きてくると思うわ」
「お仕事は大丈夫かしら」
「大丈夫よ、どうせただ座っているだけの仕事なんだから」
あの人とは、言わずもがな直子の旦那である良純のことである。
久しぶりの再会と言うこともあり、大人たちの宴会は大変に盛り上がったようで、談笑をしながらそれぞれ相当な量のアルコールを摂取したらしかった。皆酒に弱いというわけではないのだろうが、如何せん飲み過ぎたらしく、佐竹家を出る頃には直子も良純も足元が覚束ない状態であった。
そんな大人二人に肩を貸して歩いていた凜子も、酔っ払いの体重に負けて何度転びかけたか解らなかった。そうして苦心して家に連れて帰った後、玄関先で二人の靴を脱がせ、寝室に運んだのもまた凜子であった。
その後遅れて起きてきた良純は予想通り気分が優れない様で、直子同様に普段の朗らかさが半減した疲れた表情をしていた。
直子と同様の謝罪を良純にもされ、凜子は苦笑した。恐らく佐竹家で眠る大人二人も、同じような調子で朝を迎えているのだろう。
「凜子ちゃん、今日も出掛けるの? 研究のテーマに沿うような情報は見つかった?」
朝食に出された卵焼きを口に運んでいると、不意に直子が話しかけてきた。いつもより一人少ない食卓は、何故だかとても静かなものに感じられた。
咀嚼しながら視線を上げる。向き合った直子の表情は、起き掛けよりは幾らか明るさを取り戻していた。しかし食欲はないらしく、直子も良純も食器の中の食べ物はほとんど減っていなかった。
それを見ながら、ひょっとしてこの朝食は自分のためだけにわざわざ用意されたものなのではという考えが浮かび、凜子はハッとした。もしこの場に自分が居なかったとしたら、二人はもう少し疲れた脳内を休ませる時間を得ていたのかもしれない。浮かんだ考えに、途端に凜子の胸中には申し訳なさが募った。
投げかけられた質問にも息苦しさを感じる。調べ物は何一つとして進んではいない。後どれだけの期間この家族の世話になるのか、迷惑をかけることになるのか、それさえも見当がつかない状況であった。
それでも明人のいないい今沈黙を続けるわけには行かないと、僅かに視線を逸らしながら凜子は唇を開いた。
「……いえ、まだあまり。現在の村の様子は大体解って来たのですが、成り立ちについて書かれた資料がなかなか見つからなくて。波町の図書館にも行ってみたのですが、この村について書かれている本が一冊もないんです」
気落ちした様子で紡がれた凜子の言葉に、良純が視線を上げた。顎に手を当てて考えるような素振りをしながら、唇を開く。
「こんな辺鄙な村だからねえ、情報もあまり外には出回っていないんじゃないかな。昔っから住んでいる俺たちですら、村の古い歴史なんて知らないしね。……あ、だけどそうだ、資料なら村長の家にあるはずだよ。古い歴史書やらなんやらが蔵にしまってあるはずなんだ」
良純の言葉に、僅かに凜子は息を詰めた。内心の動揺を悟られぬようにと小さく息を吸い、そうして顔を上げる。
「村長さんのおうちに? 普通そういった資料などは役場に保存されているものなのではないのでしょうか」
「この村では昔から、大事なものは全て村長の家の蔵に保管されることになっているんだ。祭事に使う道具も全てね。普段この村じゃ、役場なんてものはただのお飾りみたいなものなんだよ」
「……そうですか。解りました、村長さんのお宅へ伺って見ます」
そう言い頷きながらも、凜子は気乗りしない思いでいっぱいだった。
村長なる人物は六十半ばの老人で、名を重里と言う。実を言えば、凜子は既に彼と顔を合わせていた。村への滞在を許された翌朝、明人に連れられて挨拶をしに行ったのである。
この小さな集落を取り仕切る人物とはどのような人なのだろうと考えた時、どうしたって粛々として厳かな人物しか思い浮かべることが出来なかった。そのため、果たしてそのような人物によそ者である自分が会いに行って良いものだろうかと、家に向かう間中凜子は落ち着かない思いでいっぱいだった。
しかしそんな彼女を見て、隣を歩く明人は「優しい人だから大丈夫だよ」と言って微笑んだ。邪気のないその笑顔に、彼が言うのだからその通りなのだろうと幾らか不安は和らいだが、しかしそうして訪れた先で予想外の反応をされたのだ。
家の者らしき中年の女性に案内された部屋は、客間ではなく壁一面ぐるりと書棚で覆われた書斎のような場所であった。書棚を背に、小さな文机を前にして座るその人は、明人の言うとおり優しそうな目をしていた。見事なまでの白髪頭や深く刻まれた皺からは、村の長としての何か特別な威厳が感じられたが、彼が纏う空気は静かに吹く春風のように常に穏やかであった。
明人の明るい挨拶に、同じように親しみを込めながら重里が返事をする。しかしその視線が凜子の姿を捉えるなり、どうしてか老人の双眼は大きく見開かれた。弛んだ皺に囲まれた目が真っ直ぐに自分を凝視している様に、凜子は息を飲み、つられたように目を見開いていた。一体何が起こったのか解らなかった。
互いに視線を逸らすことが出来ぬまましばしの間見つめ合っていると、不意に老人の唇が何か言いたげに僅かに震えた。彼の唇が紡ぐ言葉を一つも予測することが出来ない凜子は、緊張に身を竦ませたままぴくりとも動くことが出来なかった。
しかしそうして重里の唇から漏れた言葉は、ようこそ、という僅かに上ずった歓迎の言葉であった。その言葉に置き換えられて飲みこまれた言葉が何であったのか、凜子には解らなかった。静かに逸らされた視線が、ただ気がかりであった。
(……あの日、結局村長とはろくに会話をしないで終わってしまった。明人は気分が悪かったのかも、なんて言って特に気にした素振りを見せなかったけれど、彼も村長の行動の不自然さには気付いたはずだわ。あの人はあの瞬間、私を見て確かに驚いたような表情をしていた)
それが何故なのか大いに気になりはしたが、重里の表情を思い出すと到底本人に問うことは出来そうになかった。逸らされた視線に、何も問うなと、そう言われた気がしたのだ。
しかしながら良純の言うとおり、村長である重里はこの村についてよく知る人物の一人であるに違いなかった。村の代表者として、彼ならば現在の村の状況はもちろん、古い歴史や遠い昔の伝説についても幾らか知っているに違いない。少なくとも直子や良純のように、申し訳なさそうに首を傾げるだけで終わることはないだろう。
彼の家に行けば、波町の図書館では一切見つけることの出来なかった村に関する事項が乗った資料の幾つかも見つけることが出来るかもしれない。凜子が一番に知りたい情報を得られるかどうかは解らないが、それでもここ一週間の無意味さを思い返せば、あてもなくただ村内を散策することよりも、情報を持つ誰かに話を聞くことの方が有意義であることは明らかである。
(……だけど私、もう一度あの家に行ってもいいのかしら)
再び重里の元を訪れることに対し、凜子の胸中には躊躇いがあった。出会ったその日の重里の反応を思い出す限り、どうにも自分は彼に歓迎されていないのではないかと思わされるのだ。直接的な否定の言葉を言われたわけではないが、普段は温厚で優しいはずの老人が見せた、普段通りではないのであろう振る舞いが、凜子の中に一抹の不安を植え付けていた。
「そう言えば、凜子ちゃんは村の歴史や伝説について調べに来たのよね。昨日会った時くん居たでしょう。あの子は昔から歴史を調べることが大好きなのよ。夏休みの自由研究では都会の街の歴史について調べたりしていてね、今の大学を選んだ理由も、歴史の学科があるからなんですって。歴史専門の学科って、それほど多くないらしいの。凜子ちゃんとは学部が同じなのよね。人文学部だったかしら。私にはよく解らないけれど、ひょっとしたらあなたたち、趣味が合うんじゃないかしら」
直子の言葉に内心ぎくりとしつつも、必死に平静を装い頷く。すると今度は良純の方が口を開いた。
「歳は時くんの方が下だけれど、歴史を調べることに関しては彼の方が詳しいかもしれないよ。なんせ彼の歴史研究には年季が入っているからね。何か困ったことがあったら聞いてみると良い。しっかりしているし、頭の良い子だから、良いアドバイスをくれるはずだよ」
「そうね。なんといってもあの明人がお兄さんみたいに慕っている子だもの。きっと凜子ちゃんの力にもなってくれるわよ。村長もとってもいい人だから、気軽にお話を聞きに行けばいいわ」
「……そうですね」
見知った人物二人を褒め称え、そうして朗らかに微笑む二人を見ながら、尚も凜子の胸中には躊躇いがあった。
自分に対してよそよそしい態度を取った重里と、出会う前から自分の嘘など見抜いていたに違いない時文。
明らかに他の村人たちとは違う様子の彼らに、出会った瞬間言いようのない不安を抱いた。物言わずただ自分をじっと見つめただけのあの目を思い出す度に、身体の奥底がざわつくのだ。それは確かな恐れである。視線を通わせたあの瞬間、彼らがその胸の内で自分に対してどのような感情を抱いたのか、自分をどのような存在として見なしたのか、そればかりが気がかりだった。
しかしそれを知ることに対しても同じように恐れを抱くのだ。果たしてそれは知っても良い事なのか、それとも知らない方が良い事なのか、判断がつかない。そのもどかしさが凜子に必要以上の警戒心を与えていた。
その結果、凜子の中の何処とも解らぬ器官は「必要以上に彼らに接触すべきではない」という警告を彼女に下した。そしてその警告は今もなお続いていた。彼らに関わるべきではないと、何処からともなく声がかかるのだ。凜子はその声に抗うことが出来ずにいる。
朝食を終えた凜子は、直子と共に仕事へと向かう良純を玄関先で見送った。仕事でミスをしないか心配だと笑う良純に、ミスするような場面もないでしょうと直子が軽口を言う。そうして微笑み合う夫婦の姿を見ながら、これが真っ当な幸福の形なのだと感じていた。
その後朝食の片付けや室内の掃除をする直子を手伝い、居間の掛け時計が十時を過ぎたところで玄関の扉が開いた。けたたましい扉の開閉の音とともに、明るい声が聞こえてくる。昨晩佐竹家で夜を過ごした明人が帰ってきたのだ。途端に賑やかになった室内の様子に、凜子は思わずほっとした。
「凜子、ただいま! 母さんにこき使われなかった?」
いつものように無邪気に笑って声をかけてきた明人の姿に、凜子の身体からは力が抜けて行った。そうして自分が僅かに緊張していたことに気付かされた。直子と良純の三人で囲んだ食卓の席にも、明人のいない数時間の間にも随分と緊張していたのだ。
しかしそうして張り詰めた糸のようになっていた精神が、少年の笑顔一つでやんわりと解きほぐされてしまう。ただいまと、彼にとっては何気ない一言に過ぎないその言葉が、乾いた土に降り注ぐ雨水の様に全身に沁み渡った。
その笑顔を見ながら、何故この少年はこんなにも暖かな笑顔を自分に向けてくれるのだろうと、不思議に思った。信頼を得るようなことは一つもしていないのだ。そのような笑顔を向けられる謂れも一つとしてない。しかしそうして向けられる微笑みの中に、凜子が救いを見出しているのも事実であった。
「……おかえりなさい」
そのようなことを思いながら小さく微笑み返すと、それを見た明人はより一層満足気に笑った。その笑顔に今度は戸惑いながらも、ふと彼が一晩共に過ごしたであろう青年の姿を思い出して胸の奥がざわついた。
「……昨夜は楽しかった?」
なるべく平静を装いながら、小さな声で問いかける。しかしそうして音になった言葉は、自分でも解るほどに上ずっていた。僅かに震えた声音は明人にも伝わっていたに違いない。言葉の裏に隠された本音を探るように、茶色い目がじっと凜子を見つめた。
普段素直に感情を表現する明人は、時折こうして話し相手を真っ直ぐに見つめる時がある。相手の心を汲み取ろうとするかのようなその瞳は、何故だか酷く大人びて見えた。普段の幼い無邪気さや明るさはそこにはなく、その裏側に隠れていたのであろう真摯さや力強さが姿を現すのだ。
しかしその瞳の強さに、凜子は慣れることが出来ずにいた。心の内を探られるような行為は、例え誰にされたとしても同じように緊張する。それが人として当たり前に備わった警戒心によるものなのか、胸に秘めた後ろめたさが原因なのかは解らなかった。
思わず息を飲むと、そんな凜子の様子に気付いたらしい明人は途端に幼子を諭すように柔らかく微笑んだ。しかしその笑みもまた、普段の少年らしさが漂う無邪気で明るい笑顔とは異なっていた。
その微笑みはいつだって凜子に安堵とも戸惑いともつかない奇妙な感覚を与える。出会ったその日もそうだった。俺はその嘘に騙されてやると、そう言って微笑んだ姿に、何もかも大丈夫だと言われている気がして呼吸が楽になるのと同時に、言いようのない切なさを抱いたのだ。胸が締め付けられるようなその切なさの理由は解らない。そのような感覚に陥ったのは、生まれてこの方初めてのことであった。
「楽しかったよ。時兄は良いヤツなんだ。とても頭の良い人だけど、嫌みなところなんて一つもない。まあ、たまに俺を馬鹿にすることはあるけどね。だけどそれ以上に頼りになるし、なんだかんだ言っても面倒見がいいんだよ。だから俺は時兄のこと昔っから好きなんだ」
兄の様な青年を慕うその言葉の裏には、凜子の求める返答が含まれていた。自分が慕うその相手は、お前になんの危害も与えないから安心しろと、何も心配することはないのだと、彼の言葉はその裏側でそう言っていたのだ。
直接的な質問をしなかった自分に対し、同じように間接的な方法で自分を安心させた明人に深く感謝する。それと同時に、またしても申し訳なさが募った。誰よりも自分のことを容認してくれているこの少年に対し、何一つ真実を打ち明けることが出来ない事実は凜子を絶えず苦しめていた。
いっそ何もかも打ち明けることが出来たらと、そう思ったことが一度もないわけではない。そうして打ち明けた真実さえもこの少年が容認してくれたなら、そうであったとしたらもうこれ以上の救いはないに違いないと、そんなことを思う。しかし思い描いたそれは理想でしかない。受け入れてもらえずに拒絶されてしまう未来を考えれば、自分の素性を明かすことなど到底出来はしなかった。
「……ありがとう」
それでもこうして自分を信じて傍に居てくれる明人に対し、言葉では言い表すことの出来ない感謝の念を抱いているのは紛れもない事実である。しかしそうして呟いた感謝の言葉にも、明人はとぼけたように笑うだけだった。
「それより凜子、今日はどうするつもりなんだ。また調べものに行くの」
「ええ。……村長さんのところへ、お話を聞きに行こうかと思っていたんだけど」
「村長のところへ?」
凜子の言葉を繰り返した明人が、一瞬考えるような素振りをする。それに首を傾げると、表情を窺うようにして、声を顰めながら明人が言葉を続けた。
「それがさ、時兄も村長のところへ行くって言っていたんだ。なんでもこの村について調べたいことがあるらしくてね」
「……時文、くんが?」
「うん。時兄に言われて思い出したんだけど、うんと小さい頃に、皆で村長の家の蔵に忍び込んで怒られたことがあったんだ。うろ覚えだけど、いろんな骨董品とか祭りの道具に混じって村の資料が保管されている棚があった。そのあと見つかって相当怒られたんだけど、勝手に忍び込んだから怒られたんであって、きちんと頼み込めば見せてくれるかもしれない」
「そう……」
「凜子が嫌じゃなければ、時兄と一緒に行かないか。その方が村長の時間も取らなくて済むし。俺もついて行くからさ」
それでも嫌だったら日を改めても良いけど、と言った明人に対し、そんなことはないと慌てて凜子は首を振った。そうしながらも不安気に眉尻を下げる彼女を見て、明人が苦笑する。心配するなと、その笑顔に言われた気がして心臓を掴まれたような気持ちになった。
胸の内の不安も疑念も全てこの少年にはお見通しなのだという事実に、自身の心の弱さを痛感する。この少年を煩わせることはしたくないといつだって思っているはずなのに、結局いつだって助けられてしまうのだ。それが心苦しかった。出来ることならこれ以上彼に気を遣わせるような真似はしたくないと、そう思う。
明人があの青年を信用出来る人間だというのなら、凜子は明人のその言葉を信じたかった。それが世話になっているこの少年へのせめてもの誠意だと、そう思う。その誠意を表すことも出来ぬままに、これから先ずっと明人に気を遣わせたまま日々を過ごすことはしたくなかった。
「嫌なんかじゃないわ。彼と一緒に行きましょう」
覚悟を決めたように向き直った凜子に、明人が頷いた。その表情は僅かに安堵しているようにも見えた。
「じゃあ昼過ぎになったら時兄の家に行こう。大丈夫、何にも心配はいらないよ。村長も時兄も、凜子の力になってくれるさ」
微笑む明人が、ただただ眩しかった。
昼食を摂った後、一先ず佐竹の家に向かおうと、凜子は明人と揃って家を出た。しかし家を出てすぐのところで、まさにこれから迎えに行くつもりであった人物に遭遇した。
「時兄!」
「明人? それに凜子さんも。なんだ、何処かへ出掛けるのか?」
二人を見てそう問いかけてきた時文に対し、明人が頷く。
「うん。俺たちも村長のところに行くつもりだったんだ。だからどうせなら時兄と一緒に行こうと思って、今から迎えに行くつもりだったんだけど。時兄の方が行動が早かったみたいだね」
「村長の家に? 俺と一緒に?」
明人の提案は時文にとっても幾らか予想外なものであったらしく、その目は驚きのために僅かに見開かれていた。不意の表情は平常時の涼しげな印象に比べると幾らか幼く見える。しかしその目はすぐ様普段通りの色を取り戻し、そうして彼の視線は明人の一歩後ろに遠慮がちに佇んでいた凜子の姿を捉えた。
無言で合わさった瞳に、よく俺と行動を共にする気になったなと言われた気がして狼狽する。なんとか体が竦むのは抑えたものの、気付けば凜子は逃げるように視線を落としていた。
そうして一瞬訪れた沈黙を掻き消したのは明人だった。
「だってさ、時兄も村について調べたいことがあるって言ってただろ。それって凜子と目的が同じじゃないか。それならまとめて一緒に行った方が、村長の迷惑にもならなくて良いだろ」
こともなさ気にそう言って場を取り持ってくれた明人に比べ、言い訳の一つも思いつかずに俯いた自分の頼りなさを凜子は情けなく思った。これ以上誰にも迷惑をかけたくないと思うのに、自分を守る術がない事実がもどかしかった。
不甲斐なさに一度強く下唇を噛み、明人に対してもう何度目になるかも解らない感謝の言葉を心の内で述べた。そうして覚悟を決めて時文へと向き合う。一重の目は真っ直ぐに自分を見つめていた。
「一緒に行っても良いかしら。迷惑だったら、私の方が日にちをずらすけれど……」
窺うような視線を向けながら呟いた凜子を、時文はしばしの間じっと見つめた。そうして表情を緩め、静かに頷いた。
「構わないよ。一緒に行こう」
その言葉に安心とも不安ともつかない感情を抱くのは、未だにこの青年を信用することが出来ていないからに他ならなかった。それでも昨日に比べれば幾らかましな反応をとることが出来たのではないだろうかと、凜子は内心息を吐いた。
そうしてほっとしたところで視線を上げると、尚も自分を見つめていたらしい時文と目が合った。そんな不意打ちに対して対応できる抗体は未だない。一瞬呼吸をすることさえも忘れてしまった。
「凜子さんの研究に役立つ情報が手に入ると良いね」
そう言って微笑む青年に対して、どうしたって明人に抱くような安らぎを感じることは出来なかった。