1
一
「家を出た頃は曇っていたけれど、こっちは晴れているみたいだね。雨が降らなくてよかったよ」
車を運転する隆文の呟きに、助手席に座る佳子がそうねと答えた。そんな両親二人のやり取りを、後部座席に座る時文は一度ちらりと見やってから窓の外へと視線を向けた。
隆文の言うとおり、都会の街を出る時はどんよりとした灰色の雲が空一面を覆っていた。雨が降ったら道が悪くなると一家揃って危惧していたが、一時間も車を走らせたところで空模様は変わった。
何処までも青い大空は、まるで一面絵具をぶちまけた様に澄み渡っている。雲一つない快晴だ。車の窓を開けると、吹き込んだ風によって前髪が揺れた。もう少し車を走らせればこの風に潮の香りが混ざる。海に面した小さな町を抜けた先に、一家がこれから訪れる村があった。
夏の長期休暇の間、毎年家族は佳子の実家である雨露村で過ごすことになっていた。山と森と畑と川しかないその村で過ごす夏は、一家にとっては既に一年の内の決まり事となっている。しかしその度に喜んで自分達家族を迎え入れる祖父母とは異なり、都会育ちの時文には年々それが億劫な行事に感じられるようになっていた。
まだ幼かった頃は、都会の街にはない豊かな自然に感動し、昆虫採集に植物採集にと様々な楽しみを見つけることが出来ていた。しかし成長して都会ながらの楽しみ方を幾つも覚えるようになってからは、小さな村での生活は退屈と言う言葉以外に適した表現が思いつかないものになっていた。
高校生の頃に一度、そんな不満を母親である佳子に投げかけたことがあった。健全な都会の男子高校生にとっては、豊かな自然の中で過ごす穏やかな夏よりも、喧騒と友人との談笑に満ちた都会での夏の方がよっぽど有意義なものなのだということを唱えたのである。
しかしそんな時文に対し、佳子は「あんたが仕事をするようになったら嫌でも村での日々が恋しくなるわよ」と言っただけだった。
主張が挫かれたことによって更に嫌気がさし、絶対にそんなことがあるものかとなおも反発したが、結局一度も彼の意見が受け入れられたことはなかった。
しかし言われてみれば、毎年仕事の関係で母子より先に都会に帰る父親は、村を離れる間際決まって寂し気な、名残惜しむかのような表情を浮かべて去っていく。
それを思い出して、ああ確かに都会の街中で忙しない日々を送っている人間にとっては、あの何もない時間は喉から手が出るほどに欲しい時間であるのかもしれないと感じたのも事実であった。
しかしそうは思っても退屈であることに変わりなく、そのため毎年少なからずの倦怠感を覚えながら雨露村へと訪う時文であったが、今年は様子が違った。
というのも、この春都会の大学の歴史学科に進んだ彼にとって、その専攻に幾らか沿う内容の伝説が雨露村にはあるのだと言うことを知ったからである。
幼い頃から歴史や伝承を学ぶことに興味を持っていた時文は、小学校の長期休暇に出された自由研究には都会の街並みや交通、特産、商業などありとあらゆる歴史について調べてまとめあげたレポートを提出していた。
教師にも同級生にも褒められたそのレポートは、彼の歴史研究熱に拍車をかけた。有名な公立大学でありながら、他学部に比べて著しく就職率が悪いと言われている人文学部の歴史学科に進学を決めたのも、趣味のような歴史研究を正当化するための理由が欲しかったからに違いない。
しかしながら、そうして日々歴史研究に精を出し、気になれば街でも物でも人でもすぐにその成り立ちを探ることを習慣にしているはずの彼は、これまで一度も雨露村に興味を持ったことがなかった。しかしその理由もなんとなしには理解していた。
ありふれて平凡な性質である母親を見ていると、そんな母親の故郷にそれほど大層な言い伝えがあるなどとは思えなかったのだ。調べたところで村の成り立ちについて申し訳程度に書かれた記述しか出てこないのだろうと、勝手に決めつけていた節もある。
しかし伝説があると言われて考えてみれば、豊かな自然に囲まれ、交流と言えば隣町としかない、どこか閉鎖的な印象を受ける小さな村に何の背景もないはずがないのである。
そもそも雨露というその名も奇妙であった。村は特段雨が多く降る土地ではないのだ。
(……人になった人魚の伝説、かあ)
聞かされた伝説は、かつてこの村には人になった人魚が暮らしており、夜になると森の中から海を恋しがる人魚の歌声が聞こえてくるのだと言う、伝説と言うだけあって真実かどうかはかなり疑わしい内容のものであった。それだけの内容しか知らないので、それが怪奇伝説なのかそれ以外の類なのかどうかさえも解らなかった。
(……なんだってこんな伝説が生まれたのか。海のない小さな村なのになあ)
普段時文は、未確認な生物たちに対してそれほど否定的な態度を取っているわけではなかった。宇宙人も幽霊も、特段信じているわけでもないが、声を大にして「そんなものは存在しない」と主張する気もない。何処かに居てもおかしくはないんじゃないか、程度のものとしてその存在を捉えていた。
しかしそれが人魚ともなれば話は別である。幾らなんでもそれは、と言う気がした。何故宇宙人は信じられるのに人魚は信じられないのだと言われると、時文自身明確な理由は思いつかない。しかし強いてあげるとすれば、人間の想像の産物としか言いようにないその存在の美しさだとか、設定のロマンティックさなどがいかにも作り物臭く感じられるのだ。
美しい歌声で男を誘惑するだの、人と結婚すれば魂を手に入れることが出来るだの、恋に破れれば泡になって消えてしまうだの。
そもそも人魚と言う存在は宇宙人でもなければ幽霊でもなく、妖精や化物の類に分類され、どちらにせよそれは存在の疑わしい怪しいものなのである。
そのような存在が自分の良く知る村に居たのだと言われて信じられるはずもない。自分が幼い子供であったとしたら少しくらいは胸をときめかせたのかもしれないが、そのような純真さも時文はもう持ち合わせてはいなかった。
では何故明らかに疑わしい伝説について探る気になったのかと言うと、村内でそのような伝説が生まれるにあたった経緯を調べることはそれなりに面白いことかもしれないなと、そう思ったからに他ならない。
伝説とその背景を調べていくにつれ、自然と当時の様子が浮き彫りになっていく。村人たちが何を信仰していたのか、何を恐れて、どのような生活を送っていたのか。今でも山と森と川に阻まれて地理的には孤立している小さな村が、その昔はどのようにして成り立っていたのか、隣町との交流は、争い事は、村民たちの主だった生業は。時文の興味は伝説そのものではなく、そういったものの裏側に隠れた真実へと向いていたのだ。
しかしながら、そうして興味を抱く半面、村について調べたところで驚愕の事実が出てくることはないのだろうとも予想していた。加えて資料が少ないであろうこの村の歴史を探ることは、言葉で言う以上に難儀なことであるに違いなかった。
従って、苦労して村の歴史を探った末に大したことのない事実を知って「なんだこんなものか」と肩透かしを食らう羽目になるのだろうとは思いつつも、しかし歴史を調べるうえで味わうその苦労は今後の自分の役には立つに違いないと、そう思う。大学のレポート課題に取り組む際の情報集めに役立てばそれでいいのだ。
何よりも、時文にとっては退屈な夏をどのように過ごすかということは重要なことだった。小さな村でただひたすら時が過ぎるのを待つよりは、少しでも自分の関心事に携わることの方が有意義であるに違いない。
「それにしても、あんたも大概現金よね。今まで散々文句を言っていたくせに、途端に顔色を変えるんだもの」
不意に、先ほどまで夫である隆文と話していたはずの佳子が、後部座席に座る時文を振り返ることなく言い放った。呆れたような声音に時文は肩を竦める。
車は丁度峠を越えた辺りで、見下ろす視界は一面山と森に覆われていた。名も知らぬ木々が生い茂り、名も知らぬ鳥が時々空を横切っていく。
都会の街並みの景色に見慣れた時文にとって、車窓から見える風景は何もかもが静かであった。開け放したままの窓の向こうから聞こえてくるのは車が風をきる音のみである。都会の街に当たり前にある喧騒が一つもない。風の音に耳を澄ませながら、風とはこのような音をしていたのかと、そんなことさえ思った。
ついこの間までは、田舎の小さな村もその途中で出会うものも退屈なものとしか感じられなかった。しかし今は様子が違った。楽しみを見出した心がそう思わせているのか、目に見える全てに心が僅かに踊る。木々も鳥も自然の音も、特段注意を払うべき存在ではなかったはずだった。
そのような心境の変化を、母親に言われるまでもなく時文自身自覚していたのだが、その皮肉を素直に受け入れることには抵抗があった。それを大人は子供の意地だと笑うのかもしれないが、それを認めることもせず、時文は窓の外の景色に視線を向けたまま努めて冷静な口調で言い訳をした。
「そんなこと言って、俺に雨露村の伝説を教えたのは母さんだろう。教えてくれなきゃ、今でも面倒臭がっていたさ。逆を言うと、もっと前から教えてくれていれば訪れる楽しみが出来ていたんだけど」
「よく言うわよ。全く誰に似てそんな歴史マニアになったんだか」
「まあまあ、時文が興味を抱いてくれるようになったのならそれでいいじゃないか。何せいつも村に居る間中楽しくなさそうだったからね」
息子の心変わりの理由を不純であると指摘する佳子であったが、穏やかな口調で二人の会話の仲裁に入った隆文の言葉には、どこか腑に落ちない気持ちはありつつも幾らか納得して頷いた。
どのような理由であるにせよ、息子が自分の故郷の村に興味を抱いてくれることは喜ばしいことである。それ以前に、今まで散々息子の不満を無視し続けてきた佳子であったが、彼女自身自分の故郷が都会での生活に慣れた若者にとって退屈なものであることは解っていたのだ。何しろ自分もその退屈さを嫌って村を出たのである。
「……でもね時文。その伝説について、あまり年配の人には聞かない方がいいかもしれないわよ」
佳子の言葉に、時文は半ば反射的に顔を上げた。バックミラー越しに目が合う。何故、と視線で問うと、彼女は一度悩むように視線を逸らし、再び向き合って言いにくそうに口を開いた。
「私もこの伝説についてあまり詳しくないし、まあ今となっては信じてもいないんだけどね。小さい頃に一度おばあちゃんに……もう亡くなったあんたの曾おばあちゃんだけど、伝説について聞いたことがあったんだけど。そしたら渋い顔をされたのよ」
「渋い顔?」
「そう。それで、そんな伝説おばあちゃんは聞いたことないよ、って言われてね。なんとなく言いたくないことなのかしらと思って、それ以降は聞かなかったんだけど。それにね、今となってはその伝説を知っている人の方が少ないみたいよ。同じ村の子供でも、知らない子が居たもの」
「それじゃあ母さんはどうやって伝説の存在を知ったの」
「……それが全く記憶にないのよねえ。どうして知ったのかしら。でも私以外にその伝説を知っている子供が居なかったのは間違いないわ」
「……へえ」
頷きながら、時文は頭の中で佳子の言葉を復唱していた。
伝説について問われて言い淀み、そうして白を切った曾祖母。今はもう語られることのなくなった伝説。
一体それにどのような意味があるのだろうと、時文は思考を巡らせた。一般的に渋い顔と言うのは気が進まない時にする者である。ということは、曾祖母は伝説について語ることをしたくなかったのだ。それはこの伝説が言葉にするのも憚られるような忌まわしいものとして村人たちの間で語り継がれていたと言う裏付けになるのではないのだろうか。
(雨露村の人魚伝説。調べてみると意外に奥深そうだな)
数分前に母親が言った言葉などすっかり忘れ、時文は期待を寄せていた。
峠を下り、更に一時間程車を走らせると海沿いの小さな町に出る。漁業が盛んなこの町は波町といい、潮の香りで満たされていた。この町に着けば雨露村まではあとほんの僅かの距離である。
人口二万人程度の波町は、都会の街に比べると些かみすぼらしく思えるが、それでも生活に必要なものはあらかた揃っていた。工場や商業ビルも幾つか立ち並んでおり、畑と田んぼばかりが広がる雨露村に比べると随分な賑わいを見せている。
町の中心地から離れて奥地へと進んでいくと、森の中へと続く道路が見えてくる。車がぎりぎり二台通れる程度の舗装されていない細い道路は、雨露村へと続く唯一の道であった。
村と町を行き来する公共の交通手段はなく、そのため波町を訪れる際村人たちは自家用車か自転車、それ以外では自分自身の足を頼りにするしかなかった。徒歩であれば一時間以上はかかる。しかしこの距離を、雨露村の数少ない子供達は通学のために毎日徒歩か自転車で往復していた。雨露村には学校がないため、波町まで通わなければならないのである。
それに対して以前知り合いの村の子供が「もうすっかりなれたよ」と言ったのを、時文は信じられない思いで聞いていた。文系である上に低血圧な彼にとって、朝早く起きて一時間もの距離を移動する毎日など考えたくもない事であった。
道なりに車を三十分ほど走らせていくと、森と山と畑に囲まれた雨露村が見えてくる。ぽつりぽつりと建つ土蔵建築の建物は、役場を除いて全て民家である。都会の街に立つ洋風の家などは一つもなく、白塗りの壁に赤や青の煉瓦屋根を乗せた古めかしい作りの家がほとんどだった。店も娯楽場も一つもないこの村は、時代の変遷に取り残された寂しい土地に見えた。
辿り着いたころにはすっかり日が暮れていた。橙色の光を浴びた村は、より一層時の流れを感じさせない古い世界に見えた。
「相変わらず、いつ来ても景色が変わらないね」
一年前に訪れた時と全く様子の変わらない静かな村の景色に、思わず時文が言葉を漏らす。するとその言葉にすぐさま佳子が反応した。
「私が子供の頃からこの村はずっとこのままよ。変化と言えば道路がほんの少し広くなった程度ね。森を切り開いて波町と合併でもしない限り、この村は一生このままでしょうね」
「でもまあ、変わっていく世の中で、こういう風に変わらない景色って言うのは大切だと思うよ」
朗らかに笑いながらそう言った夫の言葉に、またもや佳子はそれもそうねと頷いた。そんな両親の会話を聞きながら、時文は変わらないことと変わることはどちらの方が推奨すべき事なのだろうと考えていた。訪れる変化を享受して生きていくべきなのか、それともそれを望まず、馴染んだものを抱きしめて生きていくべきなのか。
考えながら、恐らくこの世には二通りの人間が居るのだろうと思い至った。新しいものと古いものが混在しているこの世の中は、この先どのような形で巡っていくのだろうか。人々は何を望んで生きていくのだろう。田舎の村に辟易しつつも古い歴史を辿ることが好きな自分は、古い物と新しい物のどちらを望んでいるのだろうか。
「お、見えて来たぞ」
背後を山に、手前を森に囲まれているこの村の中で、祖父母の家は割合森に近い場所にあった。言い換えればそれは波町に近いという意味になる。
普通であれば歩いて一時間以上かかる距離は決して近いとは言わないのだろうが、この村ではそうではなかった。小さな村とはいえ、村内を端から端まで移動するともなれば徒歩でたっぷり一時間はかかる。そのため奥地に住む者は村の手前に住む者に比べると、何処に行くにも倍以上の時間がかかるのである。そんな彼らから見れば森付近に住む住人は羨むべき対象に違いなかった。このような不便な村で暮らしてみると、大凡の感覚が都会の街とは異なってくるのである。
しかし近いにかかわらず、見える景色は三百六十度山と森と畑ばかりであった。
「あらあらいらっしゃい。長旅で疲れたでしょう。時文くんはまた大きくなったわねぇ」
「ほんと、大きくなったなぁ。幾つになったんだったかな」
「じいちゃんばあちゃん、久しぶり。今年で十九になるよ」
祖父母の家に着くなり、一家は暖かい笑顔で迎えられた。しかしながらおざなりの挨拶の後祖父母の関心は主に時文へと注がれた。両親の心が娘よりも孫にばかり向かうことは佳子にとっては幾らか面白くない事であったが、そうなる原因を作り上げたのは他でもない村を出た自分自身であったため、大きな声で文句を言うことは出来なかった。息子に嫉妬心を覚えたところで馬鹿げた話である。
「とりあえず、先に荷物を運び入れようか」
隆文の言葉に従い、一家は一先ず車に積んでいた荷物を家の中に運び込むことにした。そんな家族を見て祖父母は再び家内に戻っていった。祖父は居間に寝転んでテレビを眺め、祖母は夕食の支度へと取り掛かう。夕食の匂いが穏やかに吹く風に乗って嗅覚を刺激した。
一家の荷物はそれほど多いと言うわけではなかった。というのも、盆休みと称して夏の休暇を得ている隆文は、一週間程度しか村に滞在することが出来ないためである。そのため毎年妻子より先に一人車で都会の街へと帰らなければならないのだ。
残された佳子と時文は夏の間中雨露村に滞在するのだが、車がないため帰りは波町から電車を幾つか乗り継がなければならなかった。当然荷物は自分たちで運ばなければならないので、いつも必要最低限の着替えと村人たちへの土産くらいしか村には持ち込まないことにしているのだ。
しかし小中高校生時代の夏休みが約一か月程度であったのに対し、大学の夏休みはそれに比べて長く、一か月半近くある。その長い休みを丸々こちらで過ごすのかどうかは今のところ不明で、全ては佳子の気分次第であった。
「そう言えば、明人くんの姿が見えないわね。いつもだったら、おかあさんたちと一緒にこの家であんたが来るのを待っているのに」
荷物を運びこみながら、不意に佳子が時文を振り返った。その言葉に、時文は小さく頷いた。
「……ああ、確かに見かけないね。だけど考えても見ればあいつももう中三だよ。俺に甘える時期も終わったんじゃないのかな」
息子の言葉に、そんなものかしらと佳子は小首を傾げた。それにそんなものだよと答えながらも、時文自身いつもであれば真っ先に目に入ってくるはずの少年の姿が見えないことに幾らか疑問を抱いていた。
明人と言うのは、この村に住む数少ない子供のうちの一人である。今現在村には明人の他、去年生まれたばかりの子供と小学校に上がったばかりの小さな子供がいるだけだった。数年前までは時文とそう歳の変わらない子供が数人居たが、彼らも成長し、現在は地方の高校や大学に進学し、ほとんど村に帰っては来ないらしかった。
大人にも子供にも末っ子のようにして可愛がられて育った明人は、どうしてか昔から時文によく懐いていた。まるで金魚の糞のように後ろをついて回り、絶えず笑顔を浮かべながら「時兄、時兄」と彼の名を呼ぶのだ。
そのようにして甘えてくる少年のことも、歳を追うごとに村への不満と同様に時文にとっては少なからず煩わしいものとして感じられるようになっていた。しかしいざ耳慣れた明るい声が聞こえてこないとなると、妙に物足りなく感じられるもので、そのように感じてしまった自分に対して時文は幾らか呆れる思いだった。幼子気質の抜けない少年を、成長したのだろうと言ったのは自分であるはずなのに、それが妙に寂しいことのように思われた。
あらかた荷物を運び終えたところで、不意に家の扉を叩く音があった。手の放せない家主と両親に変わって時文が扉を開けると、そこには見慣れた女性が居た。明人の母である。
「直子さん。お久しぶりです」
「時くん、久しぶりね。そろそろ到着の頃だと思ってやってきたんだけど、忙しかったかしら。手伝うことがあれば手伝うわよ」
「いえ、もうすぐ終わるのでおかまいなく。もともと荷物は少ないんです。そうだ、色々とお土産がありますよ」
時文がそう答えたところで、荷物を運び終えたらしい佳子がやってきて、玄関先に立つ人物を見て嬉しそうに声を上げた。
「直子! 会いたかったわ、久しぶりねえ、元気にしてた?」
「よっちゃん、久しぶり。こっちは何にも変わりはないわよ。あなたも相変わらず元気そうね」
久しぶりの再会に、少女の頃のような明るい声音できゃあきゃあと盛り上がる女たちを尻目に、時文はやれやれと小さく溜息を吐いた。
母佳子と直子は幼馴染である。歳は佳子の方が四つ上だが、村内にしては双方の家は近い距離にあるため、二人は幼い頃から姉妹のようにして育ったらしかった。明人が時文を兄の様に慕うのも、自分の母親が佳子を姉のように慕っている姿を見て育ったせいなのかもしれない。
玄関先ですっかり話し込んでいる母親二人を見つめながら、これ以上ここに立ち尽くしていたところで何にもならないだろうと考えた時文は、居間へと引き返すことにした。退屈そうにテレビを眺めているだけの祖父の機嫌を取って、小遣いにでもありつこうかなどと不純なことを考えていた。
しかしそうして身を翻したところで、再び時文の存在を視界に捉えたらしい直子が声をかけてきた。
「そう言えば、時くん。明人とまだ会っていないでしょう。お客さんが来ていてね、それであの子、彼女に付きっきりなのよ」
「彼女?」
直子の言葉に、思わず時文は足を止めて彼女を振り返った。怪訝に思い、首を傾げる。
普段雨露村を訪ねてやってくる者はほとんどいない。地方に出て行った者が盆や年末の時期に里帰りにやってくるくらいのものである。そうして里帰りをする者だって、年々減ってきていた。毎年必ず訪れる一家と言うのは時文の家以外にないと言っても良い。
波町をはじめ、村人が他の町へと出て行くことはあってもその逆はないのがこの村である。新しく訪れる人も物もないこの村は、いずれ古い物すらもなくなって空っぽの状態のまま死んでいくのではないかと、そんなことさえ時文は思った。
考えを巡らせていると、横で直子の話を聞いていた佳子も彼女の言葉に疑問を抱いたらしく、不思議そうに首を傾げていた。
「お客さん? なに、珍しく祐介兄さんでも帰ってきているの?」
祐介と言うのは、村に滅多に帰ってこない直子の兄である。佳子よりも更に歳が三つ上で、高校を卒業後村を出て地方の食品メーカーに就職したらしかった。妻子持ちだが、毎年盆と正月の時期には妻の実家の方に行くらしく、ほとんど雨露村には帰ってこない。そのため時文もあまり面識がなかった。
しかし佳子のその質問に対し、直子はそうじゃないのよと首を振った。
「違うの、今ね、大学生の女の子が来ているの。……そうだ、確か時くんと同じY大の学生さんよ。歳は一つ上だったかしら。なんでも研究の一環でこの村にやって来たんですって」
「Y大の? 専攻はなんだって言ってた?」
「ええと、なんだったかしら。確か人類……文化……」
「文化人類学?」
「あ、そう、それよ確か。とっても綺麗な女の子で、礼儀正しくってね。ちょうど一週間くらい前だったかしら。突然村にやって来たんだけど、この村、泊まるところがないでしょう。それで今うちに下宿させているの。明人がすっかり彼女のこと気に入ってしまったみたいでね。もう付きっきりよ」
その言葉に佳子は「明人君もそんな歳になったのねえ」などと言いながら楽しげに笑っていたが、その横で時文は一人腑に落ちない顔をしていた。
時文の通うY大学には、五つの学部がある。最も力を入れているのは法学部と工学部であり、近代化やグローバル化の影響で近年では経営学部と語学部にも力が入れられるようになった。
どの分野であっても就職に生かすことが出来るため、就職率も大変良い。卒業生は皆優秀だと、企業側からも賞賛されていた。
しかし残る一つである人文学部には、時文の選考でもある歴史学科と今話題に上がった文化人類学科という二つがあるのだが、それらはどうにも専門性が強すぎるためあまり社会では役に立たない学問だと言われていた。
事実歴史学科の生徒は知識を生かすために教職課程に進んで小中高の歴史教師になるか、分野など全く関係ない企業に一般就職する他道はない。しかしこのような学問に興味を示す人間と言うのは大概にしてあまり社交的とは言えない人格の持ち主が多いので、苦労して就職した後であっても挫けてしまう者が多いらしく、そのため有名大学卒と言ってもあまり企業からの評判は宜しくなかった。
そしてそんな評判のよろしくない歴史学科の更に上を行くのが、文化人類学科である。文化人類学と言うのは多様な文化や社会の側面について研究する学問であり、時文自身は大いに興味を抱いている分野であったが、教授にでも登り詰めない限り学んだ知識を生かす道はないと言っても過言ではなかった。
そんな一般的とは言えない分野を専攻する女が居るのだと言うのも珍しかったが、しかしそれ以上に現地調査の一環としてこの村を選んだと言うことが、どうにも時文には腑に落ちなかった。
(普通、研究対象にこんな何もない村を選ぶだろうか。もっと民族色の強い土地へ行くべきなんじゃないか。それに一つ上って言うことは、二年生だろう。二年生の内からフィールドワークなんてするだろうか。普通、三、四年ですることなんじゃないか)
そもそも突然やって来たと言うのもおかしな話である。研究の一環として大学の名を背負ってやってくるのなら、現地の住人には事前に連絡を入れるはずである。泊まるところがないともなれば尚更だ。
そうして一人、客であると言う女の素性に幾らか疑問を抱いて首を傾げていると、そんな時文の様子など意に介すことなく直子が笑いかけてきた。
「あの二人、今は多分森の方にいると思うんだけど。晩御飯は佐竹の家で御一緒することになっているから、もうしばらくしたら帰ってくると思うわ」
佐竹と言うのは佳子の旧姓である。毎年一家が村にやってきた初日は明人や直子、そしてその旦那である良純が佐竹の家にやってきて皆で賑やかに食事をした。そのため今更食事を共にすることには驚かないが、それより前に行った直子の発言がどうにも奇妙で時文は思わず首を傾げた。
「森? なんでまた」
この村の森に特段珍しいものはない。生い茂る木々と山菜、そして静かに流れる小川があるだけである。たまに熊もでるらしかった。加えて恐ろしく広大なので、森の奥地には村人達であっても行かないようにしていた。
「調べ物の一環じゃないかしら。毎日午前中は二人で出掛けるのよ。明人が凜子ちゃんに村の案内をしているみたい。明人ももう部活を引退しているから、暇を持て余しているの。受験勉強って言ったって、波町のK高校なら人数割れしてるから、勉強せずとも受かるって言って聞かないのよ。困った子よね」
時くんの優秀さを分けてあげたいわ、と直子が溜息を洩らしたところで家内から佳子を呼ぶ声が聞こえてきた。どうやら夕食の支度を手伝ってほしい祖母が呼んだらしく、直子と連れ立って二人は家の中へと入っていった。
それに時文も続こうとしたところで、しかし背後から騒がしい足音が聞こえてきて足を止めた。そうしてすぐにけたたましい音を立てて扉が開き、見慣れた笑顔が視界に飛び込む。
「あれ、時兄もう来てたんだ、久しぶり!」
「……お前、やっぱり変わってないなぁ」
約一年ぶりの再会にも関わらず、目の前の少年の笑顔も声音も記憶の中のものとほとんど変わってはいなかった。
来年は高校生になると言うだけあって、去年会った時よりは背丈も伸び、顔立ちも幾分ほっそりしたように思う。しかし落ち着きのない動作や言動がそう思わせるのか、目に映る明人は実年齢よりもずっと幼く見えた。時文を真っ直ぐに見つめる茶色い目は、まるで遊び相手を見つけて尻尾を振る子犬のようである。
その様子を見て、やはりそう簡単に人は成長するものではないのかとそう思う。しかしそうして呆れる気持ちと同じだけ、変わらない少年の姿を捉えられたことに安堵する気持ちもあった。
毎年訪れる度に纏わりついてくるこの少年を煩わしいと感じていたのは、他でもない時文自身だった。しかしこの村に来たらこの明るい笑顔に迎えられなければ物足りなく感じてしまうくらいには、明人の存在は彼の中で馴染みあるものになっていた。
「……こんにちは」
不意に鈴の音のような声が聞こえてきた。その声にハッとする。そうして視線を巡らせたところで、ようやく時文は明人の背後にいる人物の存在に気が付いた。気付いた途端に、小さく息を飲んでいた。
「……、」
両の目が捉えたのは、思わず息を飲むほどに整った顔立ちをした女であった。あまりの美しさに、時文は瞬きをすることさえ忘れていた。
呆然として見つめていると、不意に吹いた風に女の髪が静かに靡いた。胸下まで長く伸びた黒髪が揺れ、隠れていた白い首が露わになる。真綿のようなくすみのない白い肌と、烏の濡れ羽のように黒い髪の対比が酷く眩しかった。しかしそれ以上に印象的であったのは、自分を見つめる女の双眼であった。
時文を見つめながら何故だか不安気な色を湛えたその目は、妙な具合に光を帯びて煌めいていた。しかしどうやらそれは光の加減によってそう見えるのではなく、もともとの瞳の色らしい。珍しい色をしていた。茶でも黒でもないその瞳は、揺れる水面のように青みがかった灰色をしていた。
水に濡れたようなその瞳を真っ直ぐに見つめ返しながら、こんにちはと言った声音が再び時文の頭の中に響いた。聞いたこともないような涼やかな音だった。まるで管楽器か何かが静かに鳴り響くように、良く通る美しい声であった。
なるほど明人が気に入るのも無理はないなと、思わず胸の内で納得していた。よっぽど趣向の変わったものでない限り、このような女を見て興味を抱かない女はいないだろう。
「時兄、見惚れてんじゃねえよっ」
そうしてしばらくの間ただただ目前の女と見つめ合っていたが、明人の批難めいた声音を聞いてようやく時文は視線を外した。
そうして見やれば僅かに頬を赤く染めた明人が挑むような目でこちらを睨み付けていて、なるほどお前もそんな目で俺を見るようになったのかとおかしなところで馴染みの少年の心の成長を感じ取った。
明人のその瞳には時文への対抗意識が含まれていた。それはこの綺麗な女を取られたくないと言う、嫉妬であるに違いなかった。自分を慕い後をついて回っているだけであった少年の心には、いつのまにやら男としての闘争心が芽生えていたようだ。
「……いや、見惚れるなって言う方が無理があるだろう。こんなに綺麗な女の人は今まで見たことがないよ」
「なっ……」
からかうようにそう言うと、途端に明人は顔を蒼白させた。慌てふためくその様子に、やはりまだまだ子供だなぁと思いつつも、気にすることなく再び人形のように整った顔をした女へと向き直った。向き直った瞬間、僅かに女の肩が跳ねた。おや、と思いながらも、気付かなかったふりをする。
「ええと、凜子さんだったっけ?」
「……ええ。あなたは、」
「時文だよ。Y大生なんだって。俺もなんだ。学年は一つ下だけれど、学部も同じだよ。歴史学科の方だけどね。君みたいな人でも、文化人類学に興味を持つんだね」
「……、」
しかしそうして話題を振ったところで、目の前の女の顔色が明らかに変わった。はっとしたようなその表情には、焦りと緊張が含まれていた。より一層彼女の瞳に水気が増したように思う。その変化を時文はじっと眺めていたが、彼女の方で耐えられなくなったらしく、静かに視線が逸らされた。
そうして短い沈黙の後によろしく、と返されたが、その声音も幾らか上ずっていた。
(……ふうん)
まるで隠し事がばれた子供みたいだなと、自分より年上であるらしい女を見て時文は思った。そうしてほとんど確信的に思う。目の前のこの綺麗な女は、どうやら何か特別な事情を抱えているらしいと。
しかしその事実を彼女のことを慕っている明人の前で口にすることは憚られた。そもそも確信はしていても確証はないのだ。怪しいと、そう感じているだけである。そしてそれはほとんど好奇心に近い感情だった。このような何もない小さな村に秘密を抱えてやって来た不可思議な女のその真意を知りたいと、純粋に興味を抱いていた。
かといって女の秘密を無理に探る気はなかった。何か悪意を持ってこの村にやって来たと言うのなら話は別だが、尚も怯えたように顔を俯けるその姿からは少なくともそう言った不穏な気配は感じられなかった。そもそも悪意を抱いてこの村にやってくる理由が浮かばなかった。
(……隠し通したいって言うなら、それはそれで良いさ)
女が抱えた秘密が何であるのか、全く気にならないと言えばそれは嘘になる。しかし向こうが騙すつもりなのであれば黙って騙されておくのが男のたしなみなのだろうと、そんな馬鹿げた思考で以てして時文はこの場を容認することにした。
(……今年の夏は退屈しなさそうだなぁ)
そのようなことを思いながら、時文はただ灰褐色の瞳が怯えたように揺らいだ様ばかりを思い出していた。
大変に描きにくい作品でして、そのため恐ろしく遅筆になると思われます。
プロットは出来上がっているのですが、いかんせん……
いかんせんこんな歴史混じりのシリアス作品は初めてで……
文体にも迷走している感が出ていると思うので、何かご意見、アドバイスがありましたら是非(優しいお言葉で)お願いします。