甘い微笑みには気をつけて
ヴィオラとチェロのお話。チェロがさわやか腹黒さんになってしまいました。
チェロは、中村悠一さんの声で脳内再生、お願いします!
その日は、少しわくわくしていた。長い間、ソロ曲にかかりっきりになっていたヴァイオリンが、漸くヴィオラに招集をかけたからだ。ヴィオラだけじゃない。チェロも呼ばれた。
(弦楽三重奏なんて、久しぶりだなー)
うららかな日差しも相まって、ヴィオラの口元がつい緩んでしまう。
(っと! いけない、急がないとなんだった!)
公私共に厳しいヴァイオリンであるが、リハーサルに遅刻するのもされるのも大変に嫌う。どちらかというと、遅刻される方がもっと嫌かもしれない。ただでさえ鋭い眼光が、レーザーのようにこちらを見つめるのだけは、避けたい。なんとしても。
「あ…れ?」
小走りに、道を駆けていると、ふと目の端に見知った姿が映った。歩みを止めて、数歩下がる。建物の間の細い裏道に、ふたり、ヴィオラのよく知る顔が並んでいた。
「チェロ? それに、ピアノ? 何やってんだよ、ふたりして」
狭いその道に入って行こうとすると、ピアノが顔を上げた。心なしかいつもよりも青ざめた顔をした友人は、ヴィオラの姿を認めるやいなや怯えた瞳をして、彼とは反対の方向へと裏道を走り去る。
「タイミング悪いよ、ヴィーちゃん」
表通りに比べて薄暗い路地の中、艶やかなチェロの瞳だけが光を放つ。走り去りながら、色んなものにつまづいているピアノの後ろ姿を、笑顔で見送ると、チェロが声をかけた。
「気を付けなよ、ピアノ」
「う、うる、うる、うる…さいっ!」
全く威厳の感じられない罵声が、消えゆくピアノの姿と共に霧散する。何だか居心地が悪くて、ヴィオラは空笑いを上げた。
「い、いやー、ごめん。何か、お邪魔だった? おれ」
「ん? んー、まあ、大丈夫。これくらいは、予測の範疇内だから」
ヴィオラにはまったく意味の分からないことを言って、チェロがにっこりと微笑んだ。
「な、なら良いんだけど」
つられて、ヴィオラもへらりと笑う。家族とはいえ、チェロはたまに何を考えているか分からなくて、ヴィオラは焦るときがある。
「いま、何時?」
日常会話には不向きなほど甘い声でチェロが尋ねるので、ヴィオラは慌てて腕時計に目をやった。
「やばい! このままじゃ、おれたち遅刻だよー。どうする? どうする??」
「そっか。そりゃ、やばいねえ。ヴァイオリン、怒るだろうなあ」
「そうだよ! 怒るなんてもんじゃないよ。おれたち、命が危ないよ!」
両手をぶんぶんと振って、事の重大さをアピールするヴィオラを、チェロは目を細めて楽しそうに眺めている。
「チェロー」
「ああ、ごめんごめん。ヴィーちゃんは、いつもながら可愛いねえ」
「いや、おれ、可愛くないし」
「そう? そんな、己の可愛さに無頓着なヴィーちゃんも、またまた可愛いね」
「チェーロー! 話聞いてる? とにかく、ここからダッシュしかないって。それでも、間に合うか分からない感じじゃん??」
一度、コーヒーを入れ間違えた時のヴァイオリンの瞳を思い出して、思わず背筋がぞっとする。ぶるぶる、と恐怖心を取り除くように頭を左右に振って、ヴィオラは未だ余裕しゃくしゃくの笑みを浮かべているチェロを見上げた。
「とりあえず、走ろう!」
きびすを返して、いざ走ろうとすると、チェロが、
「あ」
「なーんーだーよー!」
「俺、楽譜部屋に置いてきたまんまだ。取りに帰らなきゃ」
「なっ! そ、そんなことしてたら、確実に遅れるじゃん!」
「うん。だから、俺は楽譜取りに戻るけど、ヴィーちゃんは先に行ってて?」
「そ、そんなこと……」
「だって、ここにヴィーちゃんが通りかかったのだって、ただの偶然でしょう? 別に、一緒にリハーサル行こうって言ってたわけじゃないし。これはそもそも、俺の責任なわけだし」
「そ、それはそうかもしれないけど」
でも、それって何か、おれがチェロを見捨てるみたいじゃないか。
困ったように眉根を寄せれば、チェロが菩薩のように柔らかい微笑みを浮かべてくる。その何もかもを許してしまう微笑みが、逆にヴィオラの罪悪感に拍車をかける。
「いー、いやいや! だめだだめだ! ここでおれが行ったら、チェロに悪い! おれ、待つ! だから、一緒に行こう。な?」
「ヴィーちゃんは、本当によいこだねえ」
言いながら、チェロがぽんぽんとヴィオラの頭を優しく撫で、それからふにゃふにゃと髪を撫でた。
「でも……」
頭に手の平を載せたまま、チェロの声が少し曇る。メガネの位置を直して、ヴィオラが上目遣いにチェロを心配そうに見つめると、チェロは、これまた不必要に甘いため息をついた。
「ヴィーちゃんの申し出はとっても嬉しいんだけど、ふたりともリハーサルに遅刻しちゃったら、ヴァイオリンの怒りが噴火して、リハーサルどころじゃなくなっちゃうよね」
「は!」
大いにありえるチェロの指摘に、ヴィオラの顔が青ざめた。
「だから、やっぱりヴィーちゃんが先に行った方が……」
「わーかった! じゃあ、こうしよう! おれが、チェロの楽譜を取りに戻るよ。チェロは先にヴァイオリンのところに行ってて? ヴァイオリンのことだから、もうすでに苛々してると思うんだけど、チェロの方がヴァイオリンを宥めるの上手いじゃんか。だから、チェロ、ヴァイオリンにちゃんと説明しておいてくれよな! じゃ!!」
チェロの返事も待たずに、ヴィオラは全力疾走を始める。
「ヴィーちゃん! 鍵! 忘れてるよ-!」
後ろから、チェロの良く通る声がして、ヴィオラは急ブレーキをかけた。鍵を手にして、ぷらぷらと上方で揺らしているチェロのところまで戻ると、チェロが人好きのする笑顔で言った。
「ヴァイオリンのことは、任せておいて? ありがとう、ヴィーちゃん」
「どういたしまして!」
ひとに感謝されることをするのは、気分が良いなあ。そんな脳天気なことを思いながら、ヴィオラはチェロのアパート目がけて走り続けた。
「遅い!」
「ひい!」
あまりの剣幕に、思わず悲鳴が出てしまう。ヴィオラは、はあはあと息を切らしながら、ヴァイオリンの殺人的な視線ビームにさらされ、席にもつけずにただひたすら怯えながら立ち尽くした。チェロから説明聞いてないの? などと言えるような雰囲気では、決してない。
「遅い! 一体何度言えば分かる? 遅刻するな。そんなに難しいことなのか、それは」
鬼教師のそれで、細い腰に両手をやり、ヴァイオリンがヴィオラを睨む。目が合ったら、気絶してしまうかもしれない。そんな不条理なことを思わせる両の瞳から、ヴィオラは必死に目を背けた。
「ご、ごめん」
それだけをやっと絞り出すと、盛大なため息をつかれる。
「お前、やる気あるのか?」
「あ、あるよ! 全然あるって! ていうか、今日のリハーサル、めちゃめちゃ楽しみにしてたんだから、おれ!」
「ふん」
反射的に声を上げたヴィオラを、面白くなさそうに、でも興味深そうに見てから、ヴァイオリンが軽く鼻をならす。
「時間の無駄だ。さっさと始めるぞ」
言われて、ヴィオラは定位置に座る。左隣に座っていたチェロをちらりと見れば、いつもの優しい笑みを浮かべたチェロだった。
「ちぇ、チェロ?」
「んー?」
「あの。さ。ヴァイオリンに、ちゃんと……」
「ああ。ごめんね、ヴィーちゃん。俺がついたときには、ヴァイオリンすでにお怒りモードだったからさ。言うタイミングなくしちゃって」
「そ、そうなんだ……」
「ごめんね? 怒ってる?」
「いや、怒ってないけど……」
「そう。ヴィーちゃんは、よいこだね。ありがとう」
何か。何かが、おかしい。そう思うのだけれど、何がどうおかしいのか言えない。言葉に窮するヴィオラをよそに、チェロはさっさと楽譜を受け取ると、ヴァイオリンとヴィオラに向けて甘い笑みを向ける。
「さ、始めようか」
何か。何か、おかしい。
おれ、何か、騙された気がする……!
ヴィオラの内なる声は、リハーサルという名目で沈黙せざるをえないのだった。