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コーヒーと君と笑顔

ヴァイオリンとヴィオラのお話。

ヴァイオリンの声は、福山潤さんの声で脳内再生しています。


 コーヒーは豆から。きちんと手動のミルで豆を挽く。一度、電動のものを使ったら、味が違うと言われた。以来、電動のものよりもずっと手間がかかるけれど、手動のミルを使っている。慣れれば、深い色をしたコーヒー豆をがりがりと挽く音を聞いているのが心地良くなる。もしかしたら、単に順応能力が高いだけかもしれない、とはヴィオラは夢にも思わない。


 挽き終わった豆を、直火式のエスプレッソメーカーに入れる。水を下に引くのを忘れずに。火にかけてからしばらくすると、しゅーしゅーと独特の音を立て始める。待つのが苦痛だと言わんばかりのそれは、まるで、「彼」を思い出させるから、ヴィオラは思わずくすりと微笑んでしまう。エスプレッソが出来上がる間に、耐熱鍋にミルクを注ぎ入れる。弱火でゆっくりと、熱すぎないように、でも芯からあたたまるように。木べらで定期的にかき混ぜて、膜が張るのも防ぐ。


 彼のお気に入りのカップは、一点の曇りもない白。陶器独特の、凜としていて、それでいてぬくもりも感じさせる質感は、彼らしい好みだと思う。そこに、あたたまったミルクを入れてから、出来上がったエスプレッソをカップに。泡を立てたミルクは好みじゃないから、このまま。


 「よし」


 にんまりと、自分に満足気な笑みを浮かべてから、トレイにカップとソーサーをおく。部屋を出ようとしてから、はたと気付いて、トレイを慎重に持ったまま、戸棚からチョコレートの缶を取り出す。ちゃんと、彼の名前がレーベルに貼り付けられたそれには、純度の高いダークチョコレートしか入っていない。


 小さな、3㎝四方の、スリーブにくるまれたチョコレートをソーサーの上にそっと置いてから、ヴィオラは今度こそと部屋の扉を開けた。




 控え目なノック。 練習中に、大きなノックでないと聞こえないだろうと思って扉を叩いたら、後でこっぴどく叱られた。騒音を誰よりも気にする彼らしいといえばそれまでだが、それにしても、自分の音を聞いているときに、ノックの音など聞こえるものなのだろうか。しかし、彼にはそういった、とんでも能力みたいなものがあるみたいなので、案外、練習中でも色んな音が聞こえているのかもしれない。


 今日に限って、部屋からは彼の奏でる音が聞こえてこない。


 もう一度、ノックをしてみた。大きな音は立てないように、指の関節で、軽くこづくようにして扉を叩いてみるけれど、いつもならすごい勢いで開かれる扉が、いつまでたっても開かない。


 「留守……? いやいや、そんな、まさか」


 そうこうしているうちに、コーヒーが冷めてしまう。もし仮に彼が留守だとしたら、このコーヒーは自分が飲めば良いだけだけれど、これをまだ彼に届けるのだとしたら、冷めたものなんて差し出したら、それこそ八つ裂きにされてしまう。あの、鋭い眼光で。


 彼の、怒ったときに見せる、凍てつくような視線を思い出して、ぞっとしてしまったヴィオラは、慌ててドアノブに手をかけた。それは、かちゃりと澄んだ音を立てて、すんなりと開く。


 「あ、開いてる? てことは、いるんだよな……? えっと、じゃあ、お、お邪魔します」


 小声でそんなことを口にしてから、ヴィオラが部屋に入る。 後ろ手に扉を閉めたところで、


 「お?」


 高い天井にお似合いの、細長い窓。少しだけ開いたそれからは、風がそよそよとレースのカーテンを揺らしている。そのすぐ近くに置かれた、カウチ。渋い金色のフレームがついた猫足のそれは、上質なスウェード地に覆われていて、そこには今、彼の体躯が一枚の絵画のように横たわっていた。


 「おお……」


 彼との付き合いは、長い。一緒に弾く機会だって、とても多い。四六時中一緒にいることだって、日常茶飯事だ。それでも、彼が休んでいる姿など、ヴィオラでさえ滅多に見たことがない。きっと、彼と付き合いのないトランペットあたりは、彼が休むことすら知らないのではないだろうか。それくらい、彼はワーカホリックだから。こんなことを言うと、彼は眉間に皺を寄せるだろうけれど、彼ほど、音楽のことを常に考えている者を、ヴィオラは他に知らない。


 久しぶりに、そして滅多にお目にかかれない、彼の姿を、ヴィオラはまじまじと眺める。


 烏の濡れ羽のように艶々と輝く髪が、額に一筋かかっている。閉じられた瞳は、同じく漆黒の睫毛に縁取られていて、流麗なラインを描く眉も、今はじっとそこに鎮座するのみだ。きっちりとアイロンのかけられた白いシャツの襟元からは、白く長い首が覗く。練習しやすいようにか、サテン地のウエストコートは、いつもよりも緩く胴に巻き付いているようにみえる。細い腰から続く長い脚は、ダークグレイのパンツに包まれていて、軽く立てられた片膝が、布越しでも分かる、彼の体躯の華奢さを伺わせる。


 「こんなほっそいのに、何であんな音が出るかな」


 思わず出た言葉には、憧憬が混じる。


 「きちんと練習しているからだ。お前と違ってな」


 両目は閉じられたまま、彼がその薄い唇を開いた。


 「うおっ! お、起きてたのか、ヴァイオリン!」

 「そもそも、休んでなどいない」


 胡乱な目つきでヴィオラを睨んでから、ヴァイオリンがカウチから上半身を起こした。片腕をカウチの背もたれにかけて、片膝を立ててこちらを向く彼は、まるで眠りから目覚めた天使のようではある。その目つきが、いやに鋭いことを除けば。


 「え、でも、練習してなかったじゃんか」

 「ちっ。これだから、馬鹿は。練習とは、音を奏でるだけではない。楽曲のリサーチ、和音分析、頭だけで出来る練習だってたくさんあるんだ」

 「そ、そっか」


 そうやって、昼夜を問わず、楽曲のことを考えているヴァイオリンが可愛らしいだなんて言ったら、殴られるだろうか。無視されるだろうか。それとも、毒舌よりも更に毒にまみれた罵詈雑言を浴びせられるのだろうか。


 「あ、これ」

 「うん?」


 片眉を上げて、ヴィオラが差し出したカップを見やると、ヴァイオリンは少しだけ目元を緩めた。


 「ああ」

 「ちょっと冷めたちゃったかもしれないけど」


 言って、ヴァイオリンに手渡す。ふ、とヴァイオリンが微笑んだ。


 「これくらいなら、大丈夫だ。そもそも、お前の作るコーヒーは、大概、熱すぎるからな。これくらいで丁度良いのかもしれん」

 「あ、そうだったの? 今度から気をつけるよ」


 いつもよりもリラックスした雰囲気のヴァイオリンにつられて、ヴィオラも笑顔になる。ふたりして、何とはなしに窓辺でそよぐカーテンを見つめた。

 

 「何、練習してたんだ?」

 「バッハのパルティータ、ベートーヴェンのソナタ、ブラームスのソナタ、ラヴェルのツィガーヌ、それから、パガニーニのカプリース」

 「パガニーニ、何番?」

 「は?」

 「え、いや、だから、パガニーニのカプリースって24番あるじゃんか。何番やってるんだ?」

 「全部に決まっている」

 「えええ!」


 難曲中の難曲としても名高いカプリースを、同時に全て習うだなんて、道理で練習し続けなければいけないわけだ。そもそも、そんな高度の目標を自分に課すところが、ヴァイオリンのヴァイオリンたるところかもしれない。


 純粋に、驚きと、それから尊敬の念を込めて上げた声だったのに、ヴァイオリンは無下に顔をしかめると、


 「大きな声を出すな、騒々しい。そんなに下卑た声で騒ぎたいのなら、僕の部屋を出てからにしてくれ」

 「あ、ごめん。つーか、すげえな、ヴァイオリン。ベートーヴェンは、全部ってわけじゃないだろう?」

 「ゆくゆくは、全部やる」

 「そっか。ヴァイオリンは、頑張り屋さんだよなあ」


 なんとなしに言った言葉に、ヴァイオリンはコーヒーを口に含んでから、ややもったいぶった動作でカップをソーサーにおく。


 いつも気になっているのだが、ヴァイオリンはカップをソーサーにおくとき、かちゃんと陶器と陶器が触れあう音を立てない。ヴィオラは、何度やっても音を立ててしまうというのに。何か、こつがあるのだろうか。それとも、それすらも、練習あるのみなのだろうか。


 ヴァイオリンが、黒曜石に良く似た、きらきらとしていて、とんでもなく深い瞳をこちらに向ける。そして、不敵に笑って見せた。


 「僕を誰だと思っている」


 いつも、傲慢にも思える自信に溢れたヴァイオリンを見ると、ヴィオラは何だか元気が出る。ヴァイオリンは、頑張っているわけじゃないなんて言うかもしれないけれど、常に音楽に向き合っている彼を見ていると、ヴィオラは嬉しくなってしまうのだ。傲岸不遜に微笑んで、いつも背筋をぴんと伸ばしていて欲しい。そのためなら、手動のミルだって挽く。何だって、出来る。そんな気持ちになる。


 「うん」


 歯を見せて笑えば、ヴァイオリンがまたしても顔を顰める。


 「何だ、にやにやして。気持ち悪いやつだな。さ、僕はこれから練習だ。出てってくれ」

 「うん。頑張ってな!」

 「何度言わせる。練習は、頑張るものではない」

 「うん!」

 「お前……」


 出来の悪い生徒を眺める教師のそれで、ヴァイオリンがカウチから立ち上がった。ヴィオラよりも少しだけ背が高いのに、ヴィオラよりも細いその身体は、しなやかに動く。無駄のない動きで、ソーサーをヴィオラに差し出すと、ヴァイオリンはくるりと背を向けて、譜面台の方へと足を進めた。


 「じゃあ、おれ、行くね」

 「ヴィオラ」


 扉を開けて、半身を通したところで、呼び止められる。振り返れば、ヴァイオリンが首だけをヴィオラに向けていた。


 「なに?」

 「コーヒー、ありがとう」

 「どういたしまして!」


 今度こそ、満面の笑みになって言うヴィオラを、気恥ずかしそうにヴァイオリンが見つめる。心なしか、耳が赤くなっていると思うのは、ヴィオラの気のせいだろうか。


 「な、何をじろじろ見ている。 さ、さっさと出て行け。 練習の邪魔だ」

 「うん!」


  しっしっと振り払うその仕草も気にならないくらい、ヴィオラは幸せな気分で部屋を後にする。すぐに、閉じられた扉の向こうから、ヴァイオリンが奏でる音が聞こえてくる。


 「がんばれ、ヴァイオリン」


 小声で、扉の向こうに呟くと、ヴィオラはソーサーとカップを落とさないように、軽い足取りで自分の部屋に向かった。


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