How do you do?
主人公になるにはマイナー過ぎるであろう楽器、ヴィオラ。彼の初登場作品です。
作者の独断ではありますが、ヴィオラは阪口大助さんの声で脳内再生しています。
「初めまして」
と言って、右手を差し出すと、大抵の場合、相手に怪訝な顔をされる。
「え…」
戸惑った表情で呟いて、相手は彼を見つめる。まるで、彼がおかしなことでも言ってしまったかのように。まるで、もう会ったことがあるかのように。
それから、相手は、彼の顔をまじまじと見る。ひとによっては、一、二歩下がって、全身をくまなく凝視されることもある。すると、相手は決まってこう言うのだ。
「あ、ヴァイオリンさんかと思いました」
彼は、ぎこちなく口を笑顔の形にもっていく。頬の筋肉を故意に持ち上げて、にっこりと微笑んでみせる。そんな事情などお構いなしに、相手は彼のこころにずかずかと踏み入れる。
「でも、よく見たら、ヴァイオリンさんとは似てもにつかないですね」
それが、決して褒め言葉の類でないことを、幾たびもの経験の中で、彼はいやというほど認識し続けてきた。そして、それが相手の真意であることも。
「出来の悪いやつですから」
そうおどけてみせると、相手は朗らかに笑ってくれる。彼が、とても面白いことを言ったのだと、彼がとても面白いひとだと、そう伝えるために。ただ、相手は永遠に理解することはないのだ。彼が、その笑顔によって、どれだけ傷ついているかということを。
「で、あんた、誰?」
失礼な輩にいたっては、そんな言葉を初対面でつきつけられる。
これにも、精一杯の笑顔で彼は応じる。怒ることが出来ないわけではない。失礼だと思っていないわけでもない。マナーの悪いのが、見過ごされるべきだと信じているわけでもない。ただ、何故だか、初対面の相手に対して、激昂することが出来ないだけなのだ。
それを、コントラバスなんかは、
「お前の、長所だな。大事にした方が良い」
なんて言ってくれる。
同時に、ヴァイオリンあたりは、
「何故、そんな無礼な振る舞いを許すんだ? だからお前は、いつまでたってもなめられてばかりなんだ」
などと叱りつける。
大事にするべきなのかも分からず、なめられてばっかりなのも嫌なのに、彼はいつも同じことを繰り返してしまう。
メガネの縁に、無意識に手をやってから、一瞬だけ目を伏せる。それから、顔を上げたときには、目一杯の笑顔を見せる。
「あ、知らなくても当然ですよ。あんまり、有名じゃないですから」
自己紹介をしても、その名を知られていることは少なく、名前を覚えてもらえないことだって多々ある。
「あ、大きいヴァイオリンさんだ」
などと言われると、つい、条件反射で、
「どうもー。大きいヴァイオリンでーす」
なんて返してしまう自分を、彼は恨めしく思う。そうやって、自虐的な言の葉を連ねる彼を、ヴァイオリンが横目で睨むのも、精神的に辛いものだ。
「まあまあ。そういうさ、自分のことを笑っちゃえるところが、ヴィーちゃんの良いところなんだから。年がら年中ぴりぴりしているヴァイオリンに、ちょこっと睨まれたからって、そう気に病むことはないと思うよ?」
というのは、ヴァイオリンのいないところでフォローをしてくれる、チェロの言葉だ。
でもさー。
ごろん、と芝生の上に仰向けになる。両腕を頭の上にやって組んでから、両目を閉じた。日の光が、目を閉じていても感じられる。風のそよぐ音を聞きながら、彼は深呼吸を繰り返した。
たしかに、名前を覚えてもらいたかったら、自分のことをネタにするようなことはやめた方が良いのかもしれないけど。なめられたくなかったら、もうちょっと他人に厳しくするべきなのかもしれないけど。ヴァイオリンと一緒にすんじゃねー、とかって、たまには叫ぶべきなのかもしれないけど。
時折吹いてくる風が、彼の赤茶けた髪を揺らす。ゆっくりと目を開ければ、錆びた鉄のようなグレーの瞳に、パステルブルーの空が映り込む。片手でメガネを取って、同じ手で折りたたんでから、もう片方で鼻の付け根をさすった。
でもなー……。
きっと、自分の生き方は不器用なんだと思う。でも、何故だか、それにがっかりしきれないのだ。
「でもなー……」
今度は、声に出してみた。だからといって、何かが劇的に変わるわけではない。答えの出ないことに時間を割いている自分を笑ってしまいたくなって、彼はもう一度、目を閉じてから、ふっと息を漏らした。
「おい。何をひとりで笑っている。ついに、頭がおかしくなったのか」
頭上から聞こえてきた高圧的な声に、彼は驚いて上半身を起こすと同時に丸っこい目を見開いた。
「ヴァイオリン……。どうしたんだ?」
「これ」
短い単語と共に、何かが彼の頭の上に落ちる。それが、ヴァイオリンが昨日の演奏会で着ていたシャツだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
「これが、どうかしたのか?」
「カフスが壊れた。直しておけ」
彼の返事すら待たずに、ヴァイオリンはきびすを返して、歩き始める。呆気に取られつつも、苦笑混じりに、遠くなっていく背中に声をかける。
「分かった!」
しゃんと伸びた背筋が、少しだけ強張ったかと思うと、ヴァイオリンがぎこちなく振り返る。眉間に皺を寄せると、ひとつ、ため息をついた。
「ヴィオラ」
「何?」
呼ばれて、彼-ヴィオラ-が答える。自然とその口元がほころんでいるのに、彼は気付いていただろうか。
「午後のリハーサル、遅れるな」
「遅れないよ」
「お前がいないと、曲がまとまらん」
早い目に着いて、用意もしておけ、とヴァイオリンが言いのけて、今度こそ去っていく。
「はいはーい」
聞こえていないだろうと思いつつも、律儀にヴィオラは返事をした。さきほどよりも、ずっと明るい声音で。空を見上げると、雲のたなびく様が瞳いっぱいに映る。大きく息を吸って、肺に酸素をしっかりと取り入れ、
「よっしゃ」
軽い動きで立ち上がって、うんと伸びをした。
「おれはおれ、だな」
誰にともなく呟いて、満足そうに微笑む。
壊れたカフスがぶら下がったシャツを片手に、ヴィオラが芝生を踏みしめて歩き出す。
きっと今日も、忙しくなるだろう。