第1話
検事という肩書きは、思ったより軽い。
黒瀬怜司は、いつからかそう思うようになっていた。
法廷で被告人を追い詰めるとき。
記者に囲まれ、無数のフラッシュを浴びるとき。
警察官や事務官が「黒瀬検事」と呼んで背筋を伸ばすときでさえ、怜司はその肩書きひとつで人間が偉くなるわけではないと知っていた。
世の中を動かしているのは、正義ではない。
金だ。
血筋だ。
そして、その二つを守るためなら平然と人を潰す、見えない暴力だ。
「……やっぱり、帳簿が合わねえ」
東京地検特捜部の一室。
深夜の執務室で、怜司は蛍光灯の下、紙の山に埋もれていた。
机の上には、鷹宮グループ関連企業の決算資料、政治資金収支報告書、海外法人への送金記録、そして匿名で届けられた内部告発文書が広げられている。
巨大財閥、鷹宮グループ。
不動産、金融、医療、教育、エネルギー、メディア。
日本経済のあちこちに根を張り、政治家や官僚にも強い影響力を持つ、国内最大級の企業連合。
その頂点に立つ鷹宮家は、表向きには由緒正しい名家として知られていた。
慈善活動に熱心な一族。
文化事業を支援する篤志家。
日本経済を支える名門財閥。
だが、怜司の目には違って映っていた。
政治家への違法献金。
談合。
海外ペーパーカンパニーを使った資金洗浄。
不祥事を握った人間の不可解な失踪。
そして、内部告発をほのめかした関係者の不審死。
どれも証拠の尻尾を掴ませない。
掴んだと思えば、翌日には関係者が海外へ飛ぶ。
証言者は突然、記憶を失ったように口を閉ざす。
資料は火災やシステム障害で消える。
偶然にしては出来すぎていた。
だが、怜司は諦めなかった。
諦めるのは、昔から性に合わない。
「黒瀬検事、まだ残ってたんですか」
背後から声をかけられ、怜司は顔を上げた。
若い事務官の三枝が、戸口から不安そうに覗いている。手には帰り支度の鞄を提げていた。
「おう。ちょっとな」
「ちょっとって量じゃないですよ、それ。鷹宮の件、上からも慎重にって言われてるんでしょう?」
「慎重に、な」
怜司は椅子の背にもたれ、首を鳴らした。
「便利な言葉だよな。慎重にってのは、たいていの場合、触るなって意味だ」
三枝は返す言葉に困ったように黙った。
怜司は苦笑する。
「悪い。お前に当たっても仕方ねえな」
「いえ……でも、本当に気をつけてください。鷹宮グループは普通じゃありません」
「ああ。知ってる」
知っている。
普通じゃないから、追っている。
怜司は元ヤンだった。
少年時代は、地元では少しばかり名前が知られていた。金髪、潰れた学ラン、拳にはいつも擦り傷。警察の世話になったことも、一度や二度ではない。
けれど、ある事件をきっかけに知った。
弱い人間から奪う奴らは、路地裏にだけいるわけじゃない。
スーツを着て、名刺を差し出し、法律を盾にして笑っている奴らもいる。
そして、そいつらは拳で殴ったところで倒れない。
なら、法律でぶん殴るしかない。
そう決めて、怜司は勉強した。
笑われた。
無理だと言われた。
元ヤンに司法試験なんて受かるわけがないと、何度も馬鹿にされた。
それでも歯を食いしばった。
血の滲むような努力の末に検事になり、今では特捜部で巨悪を追っている。
昔の仲間は言った。
『お前みてえな奴が検事って、世も末だな』
怜司は笑って答えた。
『世も末だから、俺みたいなのが必要なんだよ』
あれから十年以上。
拳の代わりに証拠を握り、喧嘩の代わりに法廷で戦うようになっても、根っこの部分は変わっていない。
売られた喧嘩は買う。
泣き寝入りする奴の代わりに前へ出る。
そして、悪党には必ず落とし前をつけさせる。
「帰るわ」
怜司は資料をまとめ、鍵付きの引き出しにしまった。
三枝が意外そうな顔をする。
「珍しいですね」
「最近、寝不足なんだよ。たまには早く帰って休むわ」
「それ、普通の人が言う台詞ですよ」
「俺だって普通の人間だろ」
「黒瀬検事が?」
「おい、どういう意味だ」
三枝が少しだけ笑った。
自宅の最寄駅を出ると、夜風が湿っていた。
四月の東京は、夜になると少し肌寒い。アスファルトから立ち上る冷たい空気が、スーツの裏地にまとわりつく。
時刻は午後十時を過ぎていた。
大通りにはタクシーが流れている。
酔客の笑い声、遠くのサイレン、コンビニの明かり。
いつもの夜だ。
怜司はネクタイを緩めながら歩いた。
駅から少し歩いたところには、再開発地区へ続く歩行者デッキがある。夜になると人通りはほとんどないが、怜司のマンションへ向かうには近道だった。
鷹宮グループの本社ビルが、そこからよく見える。
夜空に突き刺さるような高層ビル。最上階には、まだ明かりがついていた。
怜司は足を止め、そのビルを見上げる。
「待ってろよ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
「必ず引きずり下ろしてやる」
そのときだった。
背筋に、冷たいものが走った。
元ヤン時代から、怜司には妙な勘があった。
殴り合いの前に空気が変わる瞬間。
相手が凶器を抜く直前の視線。
逃げ道を塞がれたときの、路地の沈黙。
理屈じゃない。
体が先に気づく。
怜司は歩調を変えず、ガラス張りのデッキの壁面に映る背後を見た。
男がいる。
距離は十メートルほど。
黒いキャップ。
黒いパンツ。
目立たない体格。
夜の街に溶け込むような、特徴のない男。
だが、足音がない。
怜司は前方に視線を戻した。
人通りはない。
「……なるほどな」
怜司は小さく息を吐いた。
「鷹宮に近づきすぎた。そういうことか……」
次の瞬間、背後の気配が膨れ上がった。
怜司は考えるより先に横へ飛んだ。
頬の横を、黒い棒状のものが掠める。
警棒。
いや、違う。
伸縮式の特殊警棒だ。
まともに後頭部を食らっていれば、一撃で意識を刈り取られていた。
「おいおい」
怜司は体勢を立て直しながら笑った。
「いきなりかよ」
男は答えない。
無言で踏み込んでくる。
速い。
怜司はスーツの上着を脱ぎざまに相手へ投げつけた。視界を塞がれた男の腕を外側から弾き、腹へ膝を叩き込む。
手応えはあった。
普通の相手なら悶絶している。
だが、男は止まらなかった。
息を詰まらせただけで、怜司の膝を抱え込むように受け流し、逆に肘を落としてくる。
怜司は咄嗟に腕で防いだ。
骨に響く衝撃。
「ぐっ……!」
怜司は奥歯を噛みしめた。
喧嘩慣れしている程度ではない。
急所の潰し方を知っている。
殺し合いの距離に慣れている。
(こいつは、プロだ)
「財閥サマは、ずいぶん物騒なペット飼ってんな」
怜司は踏み込み、男の襟を掴んで額を叩きつけた。
鈍い音。
男のキャップが落ちる。
男の顔が見えた。
特徴のない顔だった。
けれど、その目だけは異様に冷たい。
怒りも焦りもない。ただ処理すべき対象として見ている目。
怜司は男の襟を掴んだまま低く言った。
「鷹宮に頼まれたんだよな? 鷹宮の誰だ? 長男か? 次男か? それとも総帥自らか?」
男は答えない。
代わりに、懐から何かを取り出した。
小型のスタンガン。
「――っ!」
青白い火花が散った。
怜司は身を捩ったが、完全には避けきれなかった。
脇腹に衝撃が走る。
筋肉が強張り、視界が一瞬白く弾けた。
体が言うことを聞かない。
その隙に、男は怜司の腕を捻り上げ、デッキの壁へ叩きつけた。
下は車道。
深夜とはいえ、たまに車が走っている。
高さは十分。
落ちれば、まず助からない。
怜司は状況を悟った。
刺す気じゃない。
撃つ気でもない。
落とす気だ。
「……なるほどな」
怜司は血の混じった唾を吐いた。
「俺が勝手に飛び降りたことにするつもりか」
男が初めて口を開いた。
「仕事熱心な検事が、重圧に耐えきれず自殺。よくある話だ」
低い声だった。
抑揚のない、乾いた声。
怜司はその声を、脳に焼きつけた。
男の手に力が入る。
デッキの向こうへ、怜司の上半身が押し出された。
夜風が背中を撫でる。
眼下でヘッドライトが流れていく。
死が、すぐ下にあった。
怜司は笑った。
喉の奥から、かすれた笑いが漏れた。
「舐めんなよ」
男の眉がわずかに動いた。
「俺はな、ガキの頃から散々言われてきたんだよ。お前みたいな不良は終わりだってな」
怜司は震える足に力を込めた。
「けどな、俺は終わらなかった」
体が痺れている。
腕も痛む。
呼吸も乱れている。
それでも、怜司は男の袖を掴んだ。
「俺を殺すなら覚悟しろ」
怜司は歯を剥いた。
「地獄に落ちても、てめえらをぶっ潰す」
次の瞬間、男は怜司の手首を迷いなく打ち、指を剥がし、胸元を押し返した。
その動きには、一切の躊躇がなかった。
男が耳元で囁く。
「鷹宮に手を出したのが間違いだったな」
そして、怜司の体は宙に投げ出された。
空が遠ざかる。
ビルの明かりが流れる。
夜風が耳元で唸る。
落ちながら、怜司は見た。
歩行者デッキの上に立つ男が、こちらを見下ろしている。
怒りが、喉の奥で爆ぜた。
(ふざけるな。俺はただ死ぬんじゃない。殺されたんだ)
地面が迫る。
衝撃。
音が消えた。
黒瀬怜司は、死んだ。
***
次に目を開けたとき、天井が高かった。
白ではない。
淡いクリーム色の天井に、繊細な彫刻が施されている。中央にはシャンデリア。水晶の飾りが朝日を受け、きらきらと光を散らしていた。
怜司は瞬きをした。
「……どこだ、ここ」
声が出た。
だが、その声は怜司のものではなかった。
若い。
細い。
喉がまだ成長しきっていない少年の声。
怜司は跳ね起きようとして、全身に違和感を覚えた。
痛みはない。
転落したはずの体も、砕けたはずの骨も、何も痛まない。
代わりに、体が妙に軽かった。
軽すぎる。
腕を持ち上げる。
白く細い手首。
柔らかそうな指。
拳には、古い喧嘩傷ひとつない。
怜司の手ではなかった。
「……は?」
声が震えた。
怜司はベッドから降りた。
足元には厚い絨毯。
部屋は広い。
怜司が住んでいたマンションの一室より、明らかに広かった。
壁には風景画。
机は重厚なアンティーク調。
窓の外には、手入れの行き届いた庭園が見える。
現実感がない。
夢か。
死ぬ間際の脳が見せている幻か。
怜司は胸に手を当てた。
心臓が動いている。
規則正しく、確かに。
「俺は……落ちて……死んだはずだ」
そこで、改めて気づいた。
この声は、自分の声ではない。
怜司は部屋の中を見回した。
(鏡。鏡はどこだ)
壁際に、大きな姿見があった。
怜司はゆっくり近づいた。
鏡の前に立った瞬間、息が止まった。
そこに映っていたのは、黒瀬怜司ではなかった。
年齢は十五、六ほど。
透けるように白い肌。
柔らかそうな黒髪。
整った顔立ちだが、どこか気弱そうな目。
高級な寝間着を着た、儚げな美少年。
怜司は鏡の中の少年を見つめた。
少年も、同じ顔でこちらを見つめ返している。
「誰だよ、お前……」
答えは返ってこない。
当然だ。
この体の持ち主の記憶が、都合よく頭に流れ込んでくるわけでもない。
名前も知らない。
ここがどこかもわからない。
この少年が何者なのかもわからない。
わかるのは、自分が黒瀬怜司であることだけ。
そして、この体が黒瀬怜司のものではないということだけだった。
怜司は部屋を探った。
机の上には、いかにも高級そうな筆記用具。
開かれていない参考書。
学校の教科書。
銀のフレームに入った写真。
写真には、壮年の男を中心に、何人もの男女が並んでいた。
怜司の目が細くなる。
見覚えがあった。
ある。
ありすぎる。
中央にいる男。
鷹宮巌。
鷹宮グループの総帥。
怜司が追っていた巨大財閥の頂点に立つ男。
その横には長男の貴臣。
次男の雅人。
関連財団の理事を務める娘たち。
怜司が資料で何度も見た顔が、ずらりと並んでいる。
「……おい」
怜司の喉が乾いた。
「冗談だろ」
なぜ、こんな写真がこの部屋にある。
なぜ、自分が目覚めた部屋に、鷹宮家の家族写真が飾られている。
怜司はさらに机を漁った。
引き出しの中に、学生証があった。
私立鳳成学園高等部。
氏名欄に記された名前を見た瞬間、怜司の指が止まった。
鷹宮蓮也。
「鷹宮……蓮也……?」
怜司は学生証の写真を見た。
鏡に映る少年と同じ顔。
胸の奥で、何かが繋がった。
鷹宮蓮也。
(知っている)
何度も写真を見た。
何度も資料をめくった。
怜司は学生証を握りしめたまま、もう一度鏡を見た。
「こいつは……」
その瞬間、鏡の中の少年の顔と、捜査資料の写真が完全に重なった。
「思い出したぞ。あんなに調べた一族の一人の顔なんだ。間違いない。こいつは、鷹宮財閥の八男で末息子、鷹宮蓮也だ」




