忘れてもいいよ。~娘が知るはずのない記憶を語ったとき、俺は妻の震える手を握った~
「大きくなったら、パパとけっこんする!」
日曜日の夕方。
リビングの床いっぱいに積み木を広げ、城らしきものを真剣に組み上げていた七歳の娘、結月が、突然そんなことを宣言した。
さっきまで積み木しか見えていなかったくせに、今度は俺の腕にぎゅっと抱きついてくる。
「パパのおよめさんになる!」
「おお、そうかそうか」
笑って頭を撫でていると、キッチンからスリッパの音が近づいてきた。顔を出したのは、エプロン姿の妻、紗月だ。
「ざんねんでしたー。パパはもうママのものでーす」
その言葉に、結月の頬がぷくっと膨らむ。
「じゃあ結月、パパに聞いてみよっか」
いたずらっぽく笑った紗月が、今度は俺を見る。
「ねえパパ。結月と私、どっちと結婚する?」
二人そろってこちらを見ている。どうやら逃げ道はなさそうだ。
「…………両方」
「うわっ! パパ、二股だ! さいてー!」
結月にびしっと指を差され、思わず目を丸くした。
「……そんな言葉どこで覚えたんだよ」
「二股男には、晩ご飯なしでいいかなぁ」
紗月がわざとらしく首を傾げる。
「それは勘弁して……」
俺が即座に頭を下げると、結月がけらけらと笑い出した。
「パパよわーい!」
「はーい、お待たせー。ご飯できたよ〜」
紗月の声を聞くなり、結月は勢いよく立ち上がって食卓へ駆けていく。
「わぁ〜、オムライス!」
「結月、好きでしょ?」
「だいすき!」
椅子に座ったときには、もうスプーンを握りしめている。そんな娘の姿を眺めながら、俺も食卓についた。
食事を終えた後、風呂から上がった結月が、パジャマ姿のままリビングの棚を指差した。
「あるばむ見たい!」
「またぁ? 昨日も見たよね」
「もう一回!」
「はいはい」
口では面倒くさがりながらも、紗月は棚の奥から分厚いアルバムを取り出してくる。
結月を真ん中に、三人でソファに並んだ。
白い表紙を開くと、結月は嬉しそうにページをめくり始め、やがて俺と紗月の結婚式の写真で手を止めた。
真っ白なウェディングドレスに身を包み、カメラに向かって微笑む紗月を指差す。
「ママかわいい!」
「でしょ!」
紗月は得意げに胸を張った。
その隣に立つ俺へ、結月の指先が滑っていく。
「パパは……なんか固いね。ロボットみたい」
「え……そうか?」
確かに、あの日は緊張でろくに笑えていなかった。まさか七歳の娘にそこを突かれるとは思わなかったが。
結月は写真を眺めたまま、尋ねてきた。
「パパは、ママと会えてよかった?」
思いがけない質問に、紗月と顔を見合わせる。
「もちろん。今は、とっても幸せだから」
「ママも?」
「うん。ママもだよ!」
俺は結月の頭に手を置いた。
「おかげで、結月にも出会えたしね」
「よかったよかった」
結月が満足そうに何度か頷いたところで、紗月がアルバムをぱたんと閉じる。
「さ、結月。そろそろ寝る時間だよ」
「うん」
結月が眠ったあと、リビングには俺と紗月だけが残った。
二つ並んだお揃いのマグカップから、白い湯気が細く立ち上っている。
ソファにもたれた紗月が、こちらを見た。
「さっきの結月の質問。悠真、即答だったね」
「ちょっと、びっくりしたけどな」
マグカップを両手で包み、熱いお茶に息を吹きかける。
「……ねえ。初めて私に昔のことを話してくれた夜、覚えてる?」
「ああ。覚えてるよ」
「私ね、あのとき正直、不安だったんだ。悠真は私といて、本当に幸せになれるのかなって。……私でいいのかなって」
「……紗月、ごめんな」
「もう、今はそんなふうに思ってないよ」
紗月は手元のマグカップを見つめながら、穏やかに笑う。
「それに、忘れなくていいって言ったのは、本心だから」
「……あの言葉に救われたんだ」
「なら、よかった」
紗月はマグカップをテーブルに置くと、俺の肩にもたれかかってきた。俺も体を寄せる。
静かなリビングには、秒針の音だけが響いていた。
ふと、肩に預けられた紗月の頭が、こくんと揺れる。
「……眠いのか?」
「ん……もうちょっと、このまま」
それきり紗月は黙ってしまい、やがて小さな寝息が聞こえてきた。
思わず小さく笑い、起こさないように肩を寄せ直した。
昔の俺なら、こんな夜が来るなんて想像もしなかっただろう。
◆
高校二年生の頃、俺には凛という恋人がいた。
ある日曜日、二人で街をぶらついていたときのことだ。
休憩に入ったカフェで、凛はメニューを開くなり言い放った。
「私、オムライスにしよ!」
「は? さっき昼飯食ったばかりだろ」
ぽかんとする俺などお構いなしに、凛はさっさと店員を呼んでしまう。
「オムライスは別腹だからね!」
「いや、スイーツじゃねーんだから」
そんな俺をよそに、凛は運ばれてきたオムライスをぺろりと平らげた。
カフェを出たあとは、海まで足を伸ばした。
夕方の海は、水平線の近くまで赤く染まっている。
俺と凛は砂浜に並んで腰を下ろし、沈んでいく夕陽を眺めていた。
「好きだよ」
しばらくして、凛が口を開く。
「……なんだよ、急に」
思わず隣を見ると、凛は夕陽を眺めたまま、何でもないことのように続けた。
「別に急に言ってもいいでしょ」
「いや、まあ……そうだけど」
凛が楽しそうに笑うので、俺もそれ以上は何も言えなくなった。
やがて会話が途切れ、波の音だけが耳に残る。
「ねえ、悠真……」
「ん?」
顔を向けると、凛がじっとこっちを見ていた。
目が合っても逸らそうとせず、いつの間にか、さっきよりも距離が近くなっている。
……なんだ、この空気。
思わず息を止めた。
もしかして、これ……
「……お腹すいた」
「は? さっきオムライス食っただろ」
「もう消化した」
「早すぎるって」
凛がけらけらと笑い出し、結局、俺もつられて笑ってしまった。
◆
冬のある休日、俺たちは家族三人で買い物に出かけた。
昼になって近くのファミレスへ入り、メニューを開いた結月が、ほとんど迷わず一つを指差す。
「これにする!」
指の先には、チーズののったハンバーグ。
「あれ? オムライスじゃないの?」
紗月が隣からメニューを覗き込む。
「うん。今はハンバーグのほうが好き!」
まあ、子供の好みなんてそんなものか。
何気なく隣に載っているオムライスの写真を眺めていると、紗月に名前を呼ばれた。
「悠真?」
「いや、なんでもない」
結月はそんな俺には構わず、さっさとメニューを閉じている。
「じゃあ今日はハンバーグだな」
「うん!」
運ばれてきたハンバーグを、結月は嬉しそうに頬張っていた。
その日の夜、家に帰ると結月が熱を出した。
翌朝になっても熱は下がらず、病院へ連れていくとインフルエンザと診断された。
薬を飲ませたものの、まだ熱は高い。いつもなら一秒だってじっとしていない娘が、布団の中で小さく丸まっていた。
帰宅してからというもの、紗月はほとんど結月のそばを離れようとしない。
「少し休んできたら?」
「でも……」
「俺が見てるから。紗月も昨日からほとんど寝てないだろ」
何度かそう言って、ようやく紗月を寝室へ向かわせた。
俺はベッド脇の椅子に腰を下ろし、結月の背中をゆっくり撫でる。布団の中からは、ときおり小さな咳が聞こえてきた。
「パパ、元気になったら、またあそこ行きたいな」
「ん? どこ行きたいんだ?」
「ほら、前に行った……」
結月は眉を寄せ、しばらく考え込んだ。
「……あれ。さっきまで覚えてたのに」
「熱があるからな。今は無理に思い出さなくていい」
「……うん」
けれど、まだ何か気になるようで、しばらく天井を見つめていた。
「パパ、私、死んじゃうの?」
掠れた声に、一瞬、返事ができなかった。
「……大丈夫だよ」
「ほんと?」
「うん。薬飲んで、たくさん寝たらちゃんと治るから」
布団からはみ出した小さな手を握ると、すぐに握り返してきた。
結月は安心したのか、静かに目を閉じる。荒かった呼吸も次第に落ち着き、やがて規則正しい寝息へと変わっていった。
「……寝たか」
熱い、ふっくらした手が、まだ俺の指を握っている。
手を離さないまま椅子の背にもたれると、急に瞼が重くなってきた。
結月の寝息を聞いているうちに、俺もいつの間にか目を閉じていた。
◆
高校三年生の夏。
「オムライスもっと食べたかったなぁ」
凛の声が、白い病室にぽつりと落ちた。
天井も、壁も、カーテンも、ベッドのシーツも嫌になるほど白い。
閉め切った窓の向こうからは、蝉の声だけがうるさいほど聞こえてくる。
その中で、俺はすっかり細くなった凛の手を握っていた。
「そんなの、退院したらいくらでも奢ってやるよ!」
「ふふっ」
返ってきたのは、かすかな笑い声だった。
元気だった頃ならもっと大きな声で笑っていたはずなのに、今は握り返してくる指にもほとんど力がない。
「ねぇ悠真……約束して」
「……何を?」
凛は息を整え、俺を見つめる。
「もし私がいなくなっても、悠真はちゃんと幸せになってね。私のことは忘れて」
「だから、そういうのやめ……」
言い終える前に、凛がゆっくりと首を振った。
「約束して」
その一言だけは、はっきり聞こえた。
「そんなの……できるわけないだろ」
自分でも分かるくらい、声が震えていた。
「大丈夫。悠真は誰よりも優しいから。私が一番知ってるから」
忘れられるはずがない。
それでも、これ以上同じことを言わせたくなかった。
「……わかった」
俺の返事を聞くと、凛は優しく微笑んだ。
「……ありがとう。約束だよ」
その数日後、凛は亡くなった。
それから何度季節が巡っても、俺だけはあの夏に取り残されたままだった。
◆
「……パパ?」
聞き慣れた声に引かれるように、目を開ける。
いつの間にか眠っていたらしい。布団の中では、結月がこちらを見つめていた。
握っているのは、あの日の細い手ではない。
小さくて、熱い、娘の手だ。
「パパも寝てた」
「……みたいだな」
結月の手を握ったまま、額にかかった前髪を払ってやる。
「もう少し寝てろ」
「うん」
結月はまた目を閉じた。
規則正しい寝息が戻ってくるまで、俺はその手を握っていた。
◆
数日後、結月はすっかり元気になり、我が家には騒がしい日常が戻ってきた。
「結月、八歳の誕生日おめでとー!」
「ありがとう!」
ろうそくを吹き消そうと、結月が頬を膨らませる。
「ああっ、ちょっと待って! 動画撮るから!」
紗月が慌ててスマホを構えた。
「まだぁー?」
「はい、いいよ!」
「ふーっ!」
八本の火が、一息で消える。
そのあと三人で写真を撮り、ケーキを食べ、プレゼントを開けた。
紗月はそのたびにスマホを構え、俺は「撮りすぎだろ」と笑う。
ケーキを食べ終え、紗月がお茶を淹れ直そうと席を立ちかけたときだった。
「パパ、ママ。ちょっと、大事なお話があるの」
さっきまで弾んでいた声が、急に沈んだ。
紗月は椅子へ座り直し、結月の顔を覗き込む。
「どうしたの?」
結月は俺と紗月を交互に見たあと、俯いた。
「あのね……結月、こわい病気かも」
「病気って、どこか……」
俺が言い終えるより先に、紗月が身を乗り出す。
「どこか痛いの? まだ熱ある? 気持ち悪くない? 頭は痛くない?」
「ち、違うの。そういうんじゃないの」
結月は慌てて首を横に振り、膝の上で指を弄り始めた。
「なんかね……変なの。結月が知らないこと、覚えてるの」
「……知らないこと?」
「いろいろあった気がするんだけど……うまく思い出せなくて」
そこで言葉が途切れた。
俺たちは黙って、その続きを待つ。
「でもね、これだけははっきり覚えてる。白い部屋にいてね。とっても苦しかったけど、パパが、ずっと手を握ってくれてた」
「……え?」
結月はそこで首を傾げ、何かを思い出そうとするように眉を寄せた。
「それでね、元気になったらオムライス、いっぱい食べようって。パパが言ってくれたの」
その瞬間、あの蝉の声が耳の奥に蘇った。
白い壁に、白いシーツ。
そして、握り返す力もほとんど残っていなかった、あの細い手。
「悠真……それって」
顔を向けると、紗月は俺を見つめていた。テーブルの上では、その手がかすかに震えている。
もし本当に、あの夏の記憶が結月の中にあるのだとしたら——。
口を開きかけ、結月へ視線を戻す。
けれど、結月は膝の上で小さな手を握りしめ、俺と紗月を不安そうに見比べていた。
……何を考えているんだ、俺。
そっと、紗月の震える手を握ってから、語りかけた。
「結月、それは夢だよ」
「……夢?」
「うん。夢だ」
俺の顔を見つめていた結月は、ようやく頷いた。
けれど、まだ何か言いたげに俺を見る。
「でもね、あの夢、前はもっといろんなことを覚えてたのに……最近、少しずつ思い出せなくなってるの」
結月は、テーブルに残ったケーキの皿へ目を落とした。
「だから……今日のお誕生日とか、パパとママとお出かけしたこととか……そういうのも、いつかあの夢みたいに忘れちゃうのかなって」
言い終える頃には、結月の声が震えていた。
「大丈夫だよ」
俺が手を伸ばすと、結月は顔を上げた。その小さな手を包みながら、目を見て伝える。
「あの夢を忘れたからって、今の思い出まで消えるわけじゃないよ」
「……ほんと?」
「ああ。今日の誕生日も、パパとママと一緒に過ごしたことも、夢じゃない。本当にあったことだから」
「ママも覚えてるよ」
紗月も椅子を寄せ、結月に微笑みかける。
「今日のお誕生日も、お出かけしたことも。ちゃんと覚えてる」
「……そっか」
強張っていた肩から、ようやく力が抜けていく。
それからしばらく黙っていた結月が、もう一度俺の顔を見上げた。
「じゃあ……結月が覚えてる変な夢は、忘れちゃってもいいの?」
その問いを聞いて、あの夏の病室で交わした約束が蘇る。
『私のことは忘れて』
俺は結月の手を握り直してから答えた。
「忘れてもいいよ」
「……いいの?」
「うん」
結月が息を吐くと、紗月は何も聞かず、娘をそっと抱きしめた。
「ママ……」
「大丈夫。ママ、ここにいるから」
結月の指が紗月の服をぎゅっと掴む。
俺も二人のそばへ寄って腕を回すと、すぐに抗議の声が上がった。
「ちょっと、パパまで来たら苦しいよ」
「悪い悪い」
「もう……」
文句を言いながらも、結月は離れようとしない。
三人で抱き合っていると、結月が俺の顔を覗き込んできた。
「パパ、泣いてるのに笑ってる」
「そうだな」
「なんで?」
俺は結月の髪に手を置いた。
「今が、とっても幸せだからだよ」
◆
十五年後――。
チャペルの扉の向こうから、パイプオルガンの音がかすかに聞こえていた。
白い壁に囲まれた静かな前室では、純白のウェディングドレスに身を包んだ結月が、俺と紗月の前に立っている。
長い裾が、足元へ柔らかく広がっていた。
「パパ、ママ」
結月が、照れくさそうに笑う。
「今まで、ありがとう」
その言葉を聞くなり、紗月の目がみるみる潤んでいった。
「もう……結婚式の前に泣かせないでよ」
そう言いながら結月を抱きしめ、やがて体を離した紗月が思い出したように笑った。
「そういえば結月、昔はパパと結婚するって言ってたのにね」
「あー……言ってたね」
「ざんねんでしたー。パパは今もママのものでーす」
十五年前と、まったく同じ調子だった。
結月が吹き出す。
「まだ言うの、それ」
俺もつられて笑ってしまう。
笑い声が収まったところで、結月がこちらを向いた。
「ねえ、パパ」
「ん?」
「今も、幸せ?」
その言葉に、十五年前の夜が蘇る。
『パパは、ママと会えてよかった?』
あのときも、答えに迷わなかった。
「もちろん。今も、とっても幸せだよ」
結月は嬉しそうに笑った。
そのとき、目の前の扉がゆっくりと開き、パイプオルガンの音が一気に近くなる。
白いバージンロードがまっすぐ祭壇まで伸び、高い窓から差し込む光が、ステンドグラスの色を床へ淡く落としていた。
「じゃあ、行こっか。パパ」
「ああ」
結月が、俺の手を取る。
それから二人で、一歩を踏み出した。
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