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忘れてもいいよ。~娘が知るはずのない記憶を語ったとき、俺は妻の震える手を握った~

作者: 陸無ふき
掲載日:2026/10/09

「大きくなったら、パパとけっこんする!」


 日曜日の夕方。


 リビングの床いっぱいに積み木を広げ、城らしきものを真剣に組み上げていた七歳の娘、結月《ゆづき》が、突然そんなことを宣言した。


 さっきまで積み木しか見えていなかったくせに、今度は俺の腕にぎゅっと抱きついてくる。


「パパのおよめさんになる!」


「おお、そうかそうか」


 笑って頭を撫でていると、キッチンからスリッパの音が近づいてきた。顔を出したのは、エプロン姿の妻、紗月《さつき》だ。


「ざんねんでしたー。パパはもうママのものでーす」


 その言葉に、結月の頬がぷくっと膨らむ。


「じゃあ結月、パパに聞いてみよっか」


 いたずらっぽく笑った紗月が、今度は俺を見る。


「ねえパパ。結月と私、どっちと結婚する?」


 二人そろってこちらを見ている。どうやら逃げ道はなさそうだ。


「…………両方」


「うわっ! パパ、二股だ! さいてー!」


 結月にびしっと指を差され、思わず目を丸くした。


「……そんな言葉どこで覚えたんだよ」


「二股男には、晩ご飯なしでいいかなぁ」


 紗月がわざとらしく首を傾げる。


「それは勘弁して……」


 俺が即座に頭を下げると、結月がけらけらと笑い出した。


「パパよわーい!」


「はーい、お待たせー。ご飯できたよ〜」


 紗月の声を聞くなり、結月は勢いよく立ち上がって食卓へ駆けていく。


「わぁ〜、オムライス!」


「結月、好きでしょ?」


「だいすき!」


 椅子に座ったときには、もうスプーンを握りしめている。そんな娘の姿を眺めながら、俺も食卓についた。


 食事を終えた後、風呂から上がった結月が、パジャマ姿のままリビングの棚を指差した。


「あるばむ見たい!」


「またぁ? 昨日も見たよね」


「もう一回!」


「はいはい」


 口では面倒くさがりながらも、紗月は棚の奥から分厚いアルバムを取り出してくる。


 結月を真ん中に、三人でソファに並んだ。


 白い表紙を開くと、結月は嬉しそうにページをめくり始め、やがて俺と紗月の結婚式の写真で手を止めた。


 真っ白なウェディングドレスに身を包み、カメラに向かって微笑む紗月を指差す。


「ママかわいい!」


「でしょ!」


 紗月は得意げに胸を張った。


 その隣に立つ俺へ、結月の指先が滑っていく。


「パパは……なんか固いね。ロボットみたい」


「え……そうか?」


 確かに、あの日は緊張でろくに笑えていなかった。まさか七歳の娘にそこを突かれるとは思わなかったが。


 結月は写真を眺めたまま、尋ねてきた。


「パパは、ママと会えてよかった?」


 思いがけない質問に、紗月と顔を見合わせる。


「もちろん。今は、とっても幸せだから」


「ママも?」


「うん。ママもだよ!」


 俺は結月の頭に手を置いた。


「おかげで、結月にも出会えたしね」


「よかったよかった」


 結月が満足そうに何度か頷いたところで、紗月がアルバムをぱたんと閉じる。


「さ、結月。そろそろ寝る時間だよ」


「うん」


 結月が眠ったあと、リビングには俺と紗月だけが残った。


 二つ並んだお揃いのマグカップから、白い湯気が細く立ち上っている。


 ソファにもたれた紗月が、こちらを見た。


「さっきの結月の質問。悠真《ゆうま》、即答だったね」


「ちょっと、びっくりしたけどな」


 マグカップを両手で包み、熱いお茶に息を吹きかける。


「……ねえ。初めて私に昔のことを話してくれた夜、覚えてる?」


「ああ。覚えてるよ」


「私ね、あのとき正直、不安だったんだ。悠真は私といて、本当に幸せになれるのかなって。……私でいいのかなって」


「……紗月、ごめんな」


「もう、今はそんなふうに思ってないよ」


 紗月は手元のマグカップを見つめながら、穏やかに笑う。


「それに、忘れなくていいって言ったのは、本心だから」


「……あの言葉に救われたんだ」


「なら、よかった」


 紗月はマグカップをテーブルに置くと、俺の肩にもたれかかってきた。俺も体を寄せる。


 静かなリビングには、秒針の音だけが響いていた。


 ふと、肩に預けられた紗月の頭が、こくんと揺れる。


「……眠いのか?」


「ん……もうちょっと、このまま」


 それきり紗月は黙ってしまい、やがて小さな寝息が聞こえてきた。


 思わず小さく笑い、起こさないように肩を寄せ直した。


 昔の俺なら、こんな夜が来るなんて想像もしなかっただろう。


◆


 高校二年生の頃、俺には凛《りん》という恋人がいた。


 ある日曜日、二人で街をぶらついていたときのことだ。


 休憩に入ったカフェで、凛はメニューを開くなり言い放った。


「私、オムライスにしよ!」


「は? さっき昼飯食ったばかりだろ」


 ぽかんとする俺などお構いなしに、凛はさっさと店員を呼んでしまう。


「オムライスは別腹だからね!」


「いや、スイーツじゃねーんだから」


 そんな俺をよそに、凛は運ばれてきたオムライスをぺろりと平らげた。


 カフェを出たあとは、海まで足を伸ばした。


 夕方の海は、水平線の近くまで赤く染まっている。


 俺と凛は砂浜に並んで腰を下ろし、沈んでいく夕陽を眺めていた。


「好きだよ」


 しばらくして、凛が口を開く。


「……なんだよ、急に」


 思わず隣を見ると、凛は夕陽を眺めたまま、何でもないことのように続けた。


「別に急に言ってもいいでしょ」


「いや、まあ……そうだけど」


 凛が楽しそうに笑うので、俺もそれ以上は何も言えなくなった。


 やがて会話が途切れ、波の音だけが耳に残る。


「ねえ、悠真……」


「ん?」


 顔を向けると、凛がじっとこっちを見ていた。


 目が合っても逸らそうとせず、いつの間にか、さっきよりも距離が近くなっている。


 ……なんだ、この空気。


 思わず息を止めた。


 もしかして、これ……


「……お腹すいた」


「は? さっきオムライス食っただろ」


「もう消化した」


「早すぎるって」


 凛がけらけらと笑い出し、結局、俺もつられて笑ってしまった。



◆



 冬のある休日、俺たちは家族三人で買い物に出かけた。


 昼になって近くのファミレスへ入り、メニューを開いた結月が、ほとんど迷わず一つを指差す。


「これにする!」


 指の先には、チーズののったハンバーグ。


「あれ? オムライスじゃないの?」


 紗月が隣からメニューを覗き込む。


「うん。今はハンバーグのほうが好き!」


 まあ、子供の好みなんてそんなものか。


 何気なく隣に載っているオムライスの写真を眺めていると、紗月に名前を呼ばれた。


「悠真?」


「いや、なんでもない」


 結月はそんな俺には構わず、さっさとメニューを閉じている。


「じゃあ今日はハンバーグだな」


「うん!」


 運ばれてきたハンバーグを、結月は嬉しそうに頬張っていた。


 その日の夜、家に帰ると結月が熱を出した。


 翌朝になっても熱は下がらず、病院へ連れていくとインフルエンザと診断された。


 薬を飲ませたものの、まだ熱は高い。いつもなら一秒だってじっとしていない娘が、布団の中で小さく丸まっていた。


 帰宅してからというもの、紗月はほとんど結月のそばを離れようとしない。


「少し休んできたら?」


「でも……」


「俺が見てるから。紗月も昨日からほとんど寝てないだろ」


 何度かそう言って、ようやく紗月を寝室へ向かわせた。


 俺はベッド脇の椅子に腰を下ろし、結月の背中をゆっくり撫でる。布団の中からは、ときおり小さな咳が聞こえてきた。


「パパ、元気になったら、またあそこ行きたいな」


「ん? どこ行きたいんだ?」


「ほら、前に行った……」


 結月は眉を寄せ、しばらく考え込んだ。


「……あれ。さっきまで覚えてたのに」


「熱があるからな。今は無理に思い出さなくていい」


「……うん」


 けれど、まだ何か気になるようで、しばらく天井を見つめていた。


「パパ、私、死んじゃうの?」


 掠れた声に、一瞬、返事ができなかった。


「……大丈夫だよ」


「ほんと?」


「うん。薬飲んで、たくさん寝たらちゃんと治るから」


 布団からはみ出した小さな手を握ると、すぐに握り返してきた。


 結月は安心したのか、静かに目を閉じる。荒かった呼吸も次第に落ち着き、やがて規則正しい寝息へと変わっていった。


「……寝たか」


 熱い、ふっくらした手が、まだ俺の指を握っている。


 手を離さないまま椅子の背にもたれると、急に瞼が重くなってきた。


 結月の寝息を聞いているうちに、俺もいつの間にか目を閉じていた。


◆


 高校三年生の夏。


「オムライスもっと食べたかったなぁ」


 凛の声が、白い病室にぽつりと落ちた。


 天井も、壁も、カーテンも、ベッドのシーツも嫌になるほど白い。


 閉め切った窓の向こうからは、蝉の声だけがうるさいほど聞こえてくる。


 その中で、俺はすっかり細くなった凛の手を握っていた。


「そんなの、退院したらいくらでも奢ってやるよ!」


「ふふっ」


 返ってきたのは、かすかな笑い声だった。


 元気だった頃ならもっと大きな声で笑っていたはずなのに、今は握り返してくる指にもほとんど力がない。


「ねぇ悠真……約束して」


「……何を?」


 凛は息を整え、俺を見つめる。


「もし私がいなくなっても、悠真はちゃんと幸せになってね。私のことは忘れて」


「だから、そういうのやめ……」


 言い終える前に、凛がゆっくりと首を振った。


「約束して」


 その一言だけは、はっきり聞こえた。


「そんなの……できるわけないだろ」


 自分でも分かるくらい、声が震えていた。


「大丈夫。悠真は誰よりも優しいから。私が一番知ってるから」


 忘れられるはずがない。


 それでも、これ以上同じことを言わせたくなかった。


「……わかった」


 俺の返事を聞くと、凛は優しく微笑んだ。


「……ありがとう。約束だよ」


 その数日後、凛は亡くなった。


 それから何度季節が巡っても、俺だけはあの夏に取り残されたままだった。


◆


「……パパ?」


 聞き慣れた声に引かれるように、目を開ける。


 いつの間にか眠っていたらしい。布団の中では、結月がこちらを見つめていた。


 握っているのは、あの日の細い手ではない。


 小さくて、熱い、娘の手だ。


「パパも寝てた」


「……みたいだな」


 結月の手を握ったまま、額にかかった前髪を払ってやる。


「もう少し寝てろ」


「うん」


 結月はまた目を閉じた。


 規則正しい寝息が戻ってくるまで、俺はその手を握っていた。


◆


 数日後、結月はすっかり元気になり、我が家には騒がしい日常が戻ってきた。


「結月、八歳の誕生日おめでとー!」


「ありがとう!」


 ろうそくを吹き消そうと、結月が頬を膨らませる。


「ああっ、ちょっと待って! 動画撮るから!」


 紗月が慌ててスマホを構えた。


「まだぁー?」


「はい、いいよ!」


「ふーっ!」


 八本の火が、一息で消える。


 そのあと三人で写真を撮り、ケーキを食べ、プレゼントを開けた。


 紗月はそのたびにスマホを構え、俺は「撮りすぎだろ」と笑う。


 ケーキを食べ終え、紗月がお茶を淹れ直そうと席を立ちかけたときだった。


「パパ、ママ。ちょっと、大事なお話があるの」


 さっきまで弾んでいた声が、急に沈んだ。


 紗月は椅子へ座り直し、結月の顔を覗き込む。


「どうしたの?」


 結月は俺と紗月を交互に見たあと、俯いた。


「あのね……結月、こわい病気かも」


「病気って、どこか……」


 俺が言い終えるより先に、紗月が身を乗り出す。


「どこか痛いの? まだ熱ある? 気持ち悪くない? 頭は痛くない?」


「ち、違うの。そういうんじゃないの」


 結月は慌てて首を横に振り、膝の上で指を弄り始めた。


「なんかね……変なの。結月が知らないこと、覚えてるの」


「……知らないこと?」


「いろいろあった気がするんだけど……うまく思い出せなくて」


 そこで言葉が途切れた。


 俺たちは黙って、その続きを待つ。


「でもね、これだけははっきり覚えてる。白い部屋にいてね。とっても苦しかったけど、パパが、ずっと手を握ってくれてた」


「……え?」


 結月はそこで首を傾げ、何かを思い出そうとするように眉を寄せた。


「それでね、元気になったらオムライス、いっぱい食べようって。パパが言ってくれたの」


 その瞬間、あの蝉の声が耳の奥に蘇った。


 白い壁に、白いシーツ。


 そして、握り返す力もほとんど残っていなかった、あの細い手。


「悠真……それって」


 顔を向けると、紗月は俺を見つめていた。テーブルの上では、その手がかすかに震えている。


 もし本当に、あの夏の記憶が結月の中にあるのだとしたら——。


 口を開きかけ、結月へ視線を戻す。


 けれど、結月は膝の上で小さな手を握りしめ、俺と紗月を不安そうに見比べていた。


 ……何を考えているんだ、俺。


 そっと、紗月の震える手を握ってから、語りかけた。


「結月、それは夢だよ」


「……夢?」


「うん。夢だ」


 俺の顔を見つめていた結月は、ようやく頷いた。


 けれど、まだ何か言いたげに俺を見る。


「でもね、あの夢、前はもっといろんなことを覚えてたのに……最近、少しずつ思い出せなくなってるの」


 結月は、テーブルに残ったケーキの皿へ目を落とした。


「だから……今日のお誕生日とか、パパとママとお出かけしたこととか……そういうのも、いつかあの夢みたいに忘れちゃうのかなって」


 言い終える頃には、結月の声が震えていた。


「大丈夫だよ」


 俺が手を伸ばすと、結月は顔を上げた。その小さな手を包みながら、目を見て伝える。


「あの夢を忘れたからって、今の思い出まで消えるわけじゃないよ」


「……ほんと?」


「ああ。今日の誕生日も、パパとママと一緒に過ごしたことも、夢じゃない。本当にあったことだから」


「ママも覚えてるよ」


 紗月も椅子を寄せ、結月に微笑みかける。


「今日のお誕生日も、お出かけしたことも。ちゃんと覚えてる」


「……そっか」


 強張っていた肩から、ようやく力が抜けていく。


 それからしばらく黙っていた結月が、もう一度俺の顔を見上げた。


「じゃあ……結月が覚えてる変な夢は、忘れちゃってもいいの?」


 その問いを聞いて、あの夏の病室で交わした約束が蘇る。


『私のことは忘れて』


 俺は結月の手を握り直してから答えた。


「忘れてもいいよ」


「……いいの?」


「うん」


 結月が息を吐くと、紗月は何も聞かず、娘をそっと抱きしめた。


「ママ……」


「大丈夫。ママ、ここにいるから」


 結月の指が紗月の服をぎゅっと掴む。


 俺も二人のそばへ寄って腕を回すと、すぐに抗議の声が上がった。


「ちょっと、パパまで来たら苦しいよ」


「悪い悪い」


「もう……」


 文句を言いながらも、結月は離れようとしない。


 三人で抱き合っていると、結月が俺の顔を覗き込んできた。


「パパ、泣いてるのに笑ってる」


「そうだな」


「なんで?」


 俺は結月の髪に手を置いた。


「今が、とっても幸せだからだよ」


◆


 十五年後――。


 チャペルの扉の向こうから、パイプオルガンの音がかすかに聞こえていた。


 白い壁に囲まれた静かな前室では、純白のウェディングドレスに身を包んだ結月が、俺と紗月の前に立っている。


 長い裾が、足元へ柔らかく広がっていた。


「パパ、ママ」


 結月が、照れくさそうに笑う。


「今まで、ありがとう」


 その言葉を聞くなり、紗月の目がみるみる潤んでいった。


「もう……結婚式の前に泣かせないでよ」


 そう言いながら結月を抱きしめ、やがて体を離した紗月が思い出したように笑った。


「そういえば結月、昔はパパと結婚するって言ってたのにね」


「あー……言ってたね」


「ざんねんでしたー。パパは今もママのものでーす」


 十五年前と、まったく同じ調子だった。


 結月が吹き出す。


「まだ言うの、それ」


 俺もつられて笑ってしまう。


 笑い声が収まったところで、結月がこちらを向いた。


「ねえ、パパ」


「ん?」


「今も、幸せ?」


 その言葉に、十五年前の夜が蘇る。


『パパは、ママと会えてよかった?』


 あのときも、答えに迷わなかった。


「もちろん。今も、とっても幸せだよ」


 結月は嬉しそうに笑った。


 そのとき、目の前の扉がゆっくりと開き、パイプオルガンの音が一気に近くなる。


 白いバージンロードがまっすぐ祭壇まで伸び、高い窓から差し込む光が、ステンドグラスの色を床へ淡く落としていた。


「じゃあ、行こっか。パパ」


「ああ」


 結月が、俺の手を取る。


 それから二人で、一歩を踏み出した。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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