モラトリアムの終焉
これはやらなくても良いことだ。やってもやらなくても良い。本当にそうだ。これをやったところで別に何かが変わるわけではない。何をどのようにしようとも、何か素晴らしいことが起きると保証されている訳ではない。ある特別なことが出来るようになることもない。ただそれ相応の事柄が得られるだけだ。
やっても、やらなくても同じこと。……同じ。行き着く先はどこも似たようなものだ。鈍行でのろのろ行こうが、特急でひとっ飛びに駆け抜けようが。そして、思いがけず辿り着いた終着駅はいつもよりもがらんとしているように思えた。
ものには特有の密度がある。そして湿度が。
例えば、靴を磨く。これは明らかに有意義だ。道路を掃く。これもそうだ。ただ現実は別にそんなことばかりではない。これとは似つかないくらい退屈で、つまらなくて、無意味で、思わず無力感に包まれるぐらい、虚無で、惨めで、ひどくやるせない事柄ばかりだ。
そもそも、こんなことをせずとも良い。これは生存の必須要件でもなんでもない。起きて、食って、ほどよく疲れて、ぐっすり寝られればそれで良いのだから。
無駄だ、無駄。疲労するばかりで何も得るものがない。
確かにそうだ。でも、それは昔からずっとそうだったし、今もそしてこれからもそうだろう。それは忌々しいほどに無意味であり続けるだろう。いつもいつも眼前に立ち続け、健全な視野を阻害するだろう。
しかし……しかし、それらはなぜ妨害するのだろう?
それは妨害なのだろうか? まるで何かを奨励するかのようにそれは在る。
……
葛藤には、さしたる意義はないと思っていたが、どうもそうではなかった。同じ場所をぐるぐるぐるぐると、気でも触れたかのように延々と回っているように思えたが、どうやら螺旋を描いていたようだ。
図らずも我々は二重螺旋の痕跡を追い駆けていたのだった。
城を右手に前進!
前進していたのは何も我々だけではなかった。兎にも角にも道迷いは我々の根底となり、人知れず礎となり、血肉となってゆらゆらと踊るのだった。
……
靴磨きのような有意義な物事が空から降ってくるのではないかと、あたかも飢えた小鳥のように口をパクパクして今か今かと待ち侘びるのではない。率直に言えば、仕事を「有意義な」ものに見せかけるのだ。
いや、それが無意味であろうが有意義であろうが問題ではない。問題なのはその行為自体の意義ではない。行為の意義はその真偽にではなく、その一回性にある。
型は器をも凌駕する。
どんな手を使ってでも、例え正気を失ってでも、わずかに残った理性を一つも残らずかき集めて、漏れなくゴミ箱に放り込んででも、とにかくそうすべきだ。
行為は意義を含有している訳でも、煌びやかに放出する訳でもないが、それでもやるのだ。
それら、我々が喉から手が出るほど欲しがっているそれ、はそこにある。もちろん、見つけられる訳ではないが。
それが我々に出来る唯一と言って良いほどまともな仕事であり、それらを半ば自覚的に仕立て上げることは、少々罪深いことでもある。
地球に居ながらにして、その目で月を裏側を見てこいと言っているようなものだからだ。ただ一概に悪いことであるとは言えない。
嘘に乗ること、それは波に乗ることだ。物理的なウェーブに。リズムを合わせ、同期する。嘘を嘘として共有し、脆く崩れやすい場を慎重に形成していく。我々の在り方として決して間違っているものではない。
ケチをつけるのは波に乗れてからでも遅くないからだ。しかも、波に乗り遅れるのは失敗ではない。
もちろんうまく波に乗れなかった同胞たちは、漏れなく頭から固い地面に落下していっているのだが、それは……それ自体もひとつの罪ではある。
それらの事柄は生きていくのには欠かせない嘘であり、それらを総称してフィクションと呼ぶ。
つまり、靴磨き的な仕事、誰が見ても有意義だと分かるような代物は明示的には存在せず、それどころか、靴磨き的な仕事とそうでない仕事の区別ですらあり得ない。
あらゆる仕事は靴磨きなのである。
結局のところ、それを決められるのは私ではなかった。不幸にも幸運にも。
これは濃密な嘘であり、軽薄な現実でもある。忘れないで欲しいのだが、それは肉薄している。我々の軌跡に。
重々しいゲートがゆっくりと開かれようとしている。しかし、一体どこに向かって?
嘘が嘘であるという嘘を抱えながらにしても、我々はなんとか生きていけるのだということを思いがけず発見した。
これは悲劇としてでもなく喜劇としてでもない。ただ単にそうだったということ、それだけだ。だが、そのちっぽけで無意味な事実が時折我々の足元を微かに照らしてくれるのだろう。
そう、無意味に!




