第6話 鉛の均衡
夜が剥がれ落ちるように明け、
東の空が腐った魚の腹のような灰色に染まり始めていた。
桃太郎は、意識を失った掃除屋の女を背負ったまま、泥濘をゆく。
女の身体は、羽毛のように軽い。
だが、その軽さが逆に気味悪かった。
背中に触れる体温、規則正しい鼓動。それが生身の人間のものではなく、
いつ破裂するか分からない「情報の爆弾」を背負わされているような錯覚に陥る。
犬は低く唸り、朝露に濡れた下草の匂いを執拗に嗅いでいた。何かの予兆を恐れるように。
「大将、次の町まで保ちますかね。……俺たちの『喉』が」
猿が掠れた声でぼやく。竹筒はとうに空だ。
「保たせる」
桃太郎の返答は、短刀を突き立てるような鋭さを持っていた。
「次の町で、この女を捌く。それまでは死なせん」
「……吐きますかね」
「吐かせる。喉を焼いてでもな」
冷えた空気が、残酷な決意を乾燥させていく。
背後から、一定の距離を保って「音」がついてくる。
足音は砂を噛むように一定。呼吸は、まるで死人のように乱れない。
尾行か、同行か。あるいは、獲物の死を待つハイエナか。
やがて、その影が影を追い越し、桃太郎の真横に並んだ。
「桃太郎さん」
声は、あまりに穏やかすぎて、かえって鼓膜を逆撫でした。
「私は、薬を扱っているしがない商人でしてね」
桃太郎は視線すら向けない。ただ、指が鯉口を僅かに押し上げた。
「さっきのお茶、曼陀羅草を混ぜていましたね。
匂いで分かった。あれを飲めば半刻で意識を奪い、
内臓を麻痺させる。……殺さず、骨抜きにするための配合だ」
猿が牙を剥き出しにして、口笛を吹く。
「随分と、不吉なことに詳しい商売人だ」
「商いですから。毒も薬も、匙加減一つで同じものになる」
旅人は薄く笑い、懐から濡れた布に包まれた水袋を取り出した。
「この先、道が狭くなる。どうです、ご一緒しませんか」
犬の耳が、獲物を捉えたように直立する。
「……利害が一致するならな」
桃太郎が問う。
旅人は肩をすくめ、濁った瞳で桃太郎の背の女を見た。
「利害が一致する間だけ、互いの背中を預ける。
私はこの地獄で生き残りたい。あなたも、九条の首を獲るまでは同じでしょう?」
桃太郎は歩みを止めない。だが、拒絶もしなかった。
「……同行は拒まない」
それ以上は言わない。言葉にすれば、
それが契約という呪いになるからだ。
誓いはない。ただ、互いの殺気が僅かに混じり合う。
やがて霧の向こうに、隣村の屋根が歪んだシルエットとなって現れた。
そのとき――。
桃太郎の背中で、衣を掴む指先に力がこもった。
女の意識はまだ闇の中にある。
だが、その爪が桃太郎の皮膚を薄く、執拗に掻いた。
無意識の拒絶。あるいは、目覚めた瞬間に喉笛を食い破ろうとする本能か。
「目が覚めたら、まず水をやれ。吐き出す前に、な」
「……優しいね、大将。死神の接吻よりはマシか」
猿が茶化すが、その目は笑っていない。
霧の向こうで村が近づく。
九条の影、正体不明の商人、そして背中の毒。
すべては今、薄氷のような均衡の上にある。
だが均衡は、壊れる瞬間にこそ最も美しい。
その残酷な真実を、誰よりも理解しているのは、
一歩ごとに泥を噛む桃太郎自身だった。




