第4話 不確定要素 ― 同じ夜、同じ戸
雉は、雲の切れ間から地上を睨んだ。
霧に沈む谷あいの外れ――
人の気配は乏しい。
だが一箇所だけ、異様に“整った”場所がある。
「……大将。
この先に、解体されたイノシシがあります」
雉は低く告げた。
枝を払われ、腹を裂かれ、
肉は丁寧に切り分けられている。
だが、運び去られた形跡がない。
「放置……か」
猿が眉をひそめる。
犬が地に降り、鼻を近づけた。
湿った土の匂い、獣脂の匂い。
しばらくして、犬は静かに首を振った。
「血の匂いは、確かにこれだ。
さっき感じた“血”は、イノシシのものに違いねぇ」
桃太郎は、胸の奥に刺さっていた違和感が、わずかにほどけるのを感じた。
(罠……では、ないのか)
空はすでに群青に沈み、街道を外れた身で夜を越すのは危険だった。
それでも――今夜だけは、身体が言うことをきかない。
「……腹も減った。
ここで一晩、雨露をしのげるなら助かる」
誰も反対しなかった。
疲労が、それほどまでに重なっていた。
ほどなく、霧の奥に一軒の家が現れた。
壁は歪み、戸は古い。
だが、灯りはともっている。
桃太郎は一歩前に出て、戸を叩いた。
「すまぬ。
道に迷ってしまってな。
一晩、泊めてはもらえぬだろうか」
しばらく、応答はなかった。
やがて――
ゆっくりと戸が開く。
現れたのは、背を丸めた、みすぼらしい老婆だった。
「……おお……
こんな夜に、大変じゃのう」
老婆は、三人と一羽を順に見回す。
だがその視線は、数を数えるように一瞬だけ外へ流れた。
「かまわぬよ。入るがよい」
囲炉裏には火が入り、ほどなく粗末ながら温かい食事が並べられた。
「ご親切に、かたじけない」
桃太郎が頭を下げると、老婆はゆっくりと笑った。
その笑みは善意にも、打算にも見えた。
犬は黙って床に伏し、猿は梁を見上げ、雉は天井近くの闇に身を潜める。
そして――
囲炉裏の火は静かに燃えていた。
爆ぜる音もない。
ただ赤い芯が、規則正しく呼吸している。
雉は梁に止まり、屋内と屋外の気配を拾っていた。
――静かすぎる。
犬も同じことを感じていた。
床に伏せ、目を閉じたまま鼻先だけをわずかに動かす。
老婆は囲炉裏に鍋を掛けながら、桃太郎たちに背を向けた。
「この辺りは獣が多くてのう。
さっきのイノシシも、ようやく仕留めたところじゃ」
「……解体だけして、運ばなかったのですか」
猿が何気ない調子で問う。
「歳でな。夜道に肉を運ぶほどの力は、もう残っとらん」
筋は通っている。
だが――どこか肝心な部分だけを、するりと避けている気がした。
桃太郎は何も言わず、椀を手に取った。
温かい。少なくとも、いま口に含んだぶんは毒ではない。
「……助かります」
その一言だけを、丁寧に置く。
老婆は、うなずいただけだった。
そのときだった。
戸を叩く音がした。
乾いた、ためらいのない音。
同じ願いを繰り返すには、妙に迷いがなかった。
「……誰だ」
犬が低く唸る。
老婆は驚いた様子も見せず、ゆっくりと立ち上がった。
「夜更けに、珍しいのう」
戸が開く。
立っていたのは、雨避けの外套を羽織った旅人だった。
年の頃は分からない。顔は影に隠れ、声だけが妙に落ち着いている。
「今宵、宿を探しておりまして。
一晩、軒を貸してはいただけませんか」
老婆は、少しだけ間を置いた。
その視線が、桃太郎たちを一度、
そして囲炉裏の火を一度、確かめるように動く。
「……狭いが、それでもよければ」
旅人は礼を述べ、ゆっくりと中へ入った。
「……冷えますな。お気遣い、痛み入る」
旅人が腰を下ろすと、老婆は「さあさあ」と甲斐甲斐しく新しい椀を並べ始めた。
桃太郎たちは突然の来訪者に神経を尖らせながらも、
同じ「逃亡者」の匂いを漂わせるその男に、わずかな共感を抱きかけていた。
――それが自分たちに残された、人間らしさの最後の欠片であるかのように。
猿が、喉の奥で乾いた笑いをころがした。
「大将、こういう時は“困ってる難民”らしく、もっと哀れにしてくだせぇよ。
……ふんどしの紐が見えてますぜ」
軽口だった。
冗談でも言わなければ、息が詰まって壊れてしまう。
桃太郎もそれを分かっていたから、言い返す代わりに小さく息を吐いた。
老婆は、桃太郎たちがお茶を飲み干したのを見て、奥へ引っ込んだ。
そして、また新しい茶を入れて戻ってくる。
湯気が立つ。
だが、湯気の匂いが――わずかに、甘い。
さっそく
猿がお茶に手をつけようとした、その瞬間。
旅人が、そっと猿の手首を押さえた。
「……ばあさん。これに毒、入れたね?」
旅人の声は静かだった。
その一言が、囲炉裏の火の呼吸さえ止めたように感じられた。
茶を飲もうとしていた猿の動きが凍りつく。
桃太郎は背を向けた老婆の肩を見た。
肩が――震えている。
誰も動けない。
床にこぼれた茶の雫だけが、灯りを受けて鈍く光っていた。
まるで、飲む前から重さを持った液体のように。




