98話 最後の嘘
黒い影の泥が、ザインの身体を飲み込んでいく。
抵抗する間もなかった。
ヴィオラの背後から噴出した悪意の塊は、ザインの手足を拘束し、地面から浮かせた状態で彼を締め上げている。
「ぐぅ……ッ!」
ザインが苦悶の声を漏らす。
骨が軋む音が、静まり返った『鏡の間』に響いた。
「ザインさん!」
ルミナが叫ぶが、ヴィオラは冷ややかな視線をザインに向けたまま、愉悦に歪んだ笑みを浮かべた。
「……残念だったわね、ザイン。私の首を取れると思った?」
ヴィオラは玉座からゆっくりと歩み寄り、拘束されたザインの顔を覗き込んだ。
その瞳には、裏切られた怒りよりも、哀れなペットを見るような侮蔑の色が濃い。
「あれだけ自由にチョロチョロと動き回って、私が気がつかない訳がないでしょう? ことあるごとに私の邪魔をして、このドブネズミ共の手助けをしていたわね」
ヴィオラは指先でザインの頬をなぞる。
その指先は鋭く尖り、赤い血の筋を作る。
「なぜ私が、裏切り者のあなたを傍に置いていたかわかる?」
「……知るか」
ザインが吐き捨てる。
ヴィオラはクスクスと笑い、ザインの耳元で囁いた。
「あなたなんて、なんの脅威にもならないからよ。……妹すら守れず、私の靴を舐めて命乞いをした、無力でちっぽけな男」
ヴィオラの手が、ザインの首にかかる。
「泳がせていただけよ。あなたがどんな滑稽なダンスを踊るのか、特等席で見ていたかったの。……でも、もう飽きたわ。退場なさい」
ヴィオラが指に力を込める。
ザインの喉が鳴る。
このままでは首がへし折られる。
だが。
「……嘘だね」
静かな声が、ヴィオラの背後から響いた。
カノアだ。
彼は剣を構えることもなく、ただ真っ直ぐにヴィオラを見据えていた。
「……なに?」
ヴィオラの手が止まる。
彼女はゆっくりと振り返り、カノアを睨みつけた。
「今、なんて言ったの?」
「お前は今、嘘をついてるって言ったんだよ」
カノアは一歩、前に出た。
『心眼』。
真実を見抜くその力が、ヴィオラの心の奥底にある、ドロドロとした本音を暴き出していた。
「泳がせていた? 脅威じゃない? ……ハッ、笑わせるなよ」
カノアは憐れむように首を振った。
「お前は怖かったんだ。ザインに裏切られるのが」
「……なんですって?」
「ザインの裏切りなんて、分かっちゃいなかった。あいつが俺たちを助けていたことも、結晶を盗み出したことも、お前は気づいていなかったはずだ」
カノアの言葉に、ヴィオラの表情が強張る。
図星だった。
彼女は『千里眼』を持っていたが、それは物理的な視界を広げるだけで、人の心までは見通せない。
ザインの完璧な演技と、彼への無意識の信頼が、彼女の目を曇らせていたのだ。
「だが、そう信じ込まなければ、自分が壊れそうだから、今、そう言ってるんだろ? 『私は全て知っていた』『私は騙されてなんかいない』って」
「黙りなさい……! ドブネズミが私を語るな!!」
ヴィオラが叫ぶ。
その声には、焦燥の色が混じっていた。
「お前は……唯一、お前と対等に接してくれていたザインが恋しかったんだ」
カノアはさらに踏み込む。
言葉の刃で、彼女の鎧を剥がしていく。
「周りはみんな、お前の魔法で操った人形か、恐怖で支配した奴隷ばかりだ。……でも、ザインだけは違った」
ザインは妹を人質に取られ、屈服した。
だが、彼は決して心を売り渡さなかった。
冷徹な態度の裏で、常にヴィオラという存在を観察し、時には諫め、時には利用しようとした。
その「意志のある瞳」だけが、ヴィオラにとって唯一の、生きた人間との繋がりだったのだ。
「お前にはもう、ザインしか居なかったんだよ。……こんなに醜くなって、心が腐り果てても、傍にいてくれたのはザインだけだ」
ヴィオラが目を見開く。
脳裏に浮かぶのは、過去の記憶。
まだ彼女が力を手に入れたばかりの頃、不器用に従っていた若い調教師の姿。
彼だけは、ヴィオラの美貌に惑わされず、ただ淡々と任務を遂行していた。
その冷たさが、心地よかったのかもしれない。
彼だけは、私の中身を見てくれている気がしたから。
「だからお前は……裏切られたと認めたくなかった。最後まで、自分のペットだと思い込みたかったんだ」
カノアは、ヴィオラの虚勢を完全に粉砕した。
「哀れだよ、ヴィオラ。……お前は結局、誰からも愛されてなんかいなかったんだ」
プツン。
ヴィオラの中で、何かが切れる音がした。
「黙れぇぇぇぇッ!!!」
絶叫。
それは言葉ではなく、魂が崩壊する音だった。
ヴィオラの全身から、どす黒い魔力が暴走して噴き出す。
ザインを拘束していた影が弾け飛び、ザインが床に投げ出される。
「愛されてるわよ! 私は美しい! 私は完璧! みんな私が好きなのよ!!」
ヴィオラが自分の顔を掻きむしる。
厚化粧が剥がれ、その下から隠していた亀裂が露わになる。
ボロボロと肌が崩れ落ち、その奥から、ヘドロのような黒い何かが溢れ出してくる。
「殺してやる……! 私の世界を壊す奴は、全員死んでしまえぇぇッ!」
彼女の背中が裂け、肉が盛り上がる。
美しいドレスが引きちぎられ、中から現れたのは、無数の人間の手足と、苦悶の表情を浮かべた顔が埋め込まれた、醜悪な肉塊だった。
『概念置換』の末路。
奪い続けた他人のパーツが、拒絶反応を起こして暴走しているのだ。
「……あーあ。とうとう化けの皮が剥がれたな」
カノアは『黒鉄』を構えた。
目の前にいるのは、もう人間の姿をしていない。
美への執着と、愛への飢餓が凝縮された、悲しき怪物。
「ルミナ、ヒルダ、フィーネ! ……引導を渡すぞ!」
「ええ!」
「うん!」
「おっけー!」
三人がカノアの横に並ぶ。
ザインも、ふらつきながら立ち上がり、鞭を構えた。
ヴィオラとの最終決戦。
それは、彼女が積み上げてきた「嘘」を、彼らの「真実」で打ち砕くための戦いだった。




