97話 継ぎ接ぎの女王
重厚な扉が開かれた瞬間、カノアたちの肌を刺したのは、殺気ではなく、濃密すぎる香水の匂いだった。
甘く、重く、肺にまとわりつくような薔薇の香り。
それは、死臭を隠すために振り撒かれた防腐剤のように、この部屋の異常性を際立たせていた。
『鏡の間』。
王城の最上階に位置するその広間は、壁一面が黒い布で覆われていた。
かつては己の美貌を映すために磨き上げられていた無数の鏡が、今は全て隠されている。
自分の姿を見ることを拒絶した、魔女の怯え。
その中心。
豪奢な玉座に、ヴィオラは座っていた。
「……よく来たわね、ドブネズミたち」
彼女は優雅に足を組み、ワイングラスを傾けていた。
その姿は、息を呑むほど美しい。
透き通るような肌、豊満な肢体、宝石を散りばめたようなドレス。
どこからどう見ても、世界の支配者にふさわしい「美の女王」だ。
だが、カノアの『心眼』には、全く別のものが映っていた。
「……なんだよ、それ」
カノアは顔をしかめた。
ヴィオラの身体から放たれている魔力の色。
それは単一の色ではない。
赤、青、金、黒……無数の他人の色が、強引に縫い合わされ、継ぎ接ぎだらけのパッチワークのようになっている。
統一感のない、不協和音のような色彩の嵐。
そして何より、その中心にある彼女自身の魂が、空っぽだった。
空洞。
他人の色で着飾ることでしか形を保てない、哀れな虚無。
「相変わらず、無粋な目つきね」
ヴィオラがグラスを置く。
カチン、という音が静寂に響く。
「5年前、その瞳を抉り取った時もそうだった。……お前は私の『美』を見ようとしない。ただ、薄汚い中身ばかりを探ろうとする」
「中身がないからだろ?」
カノアは言い放った。
挑発ではない。ただの事実の指摘。
「アンタは他人から奪ったもので着飾ってるだけだ。……今のアンタは、綺麗なドレスを着たマネキンにしか見えないよ」
「……黙りなさい」
ヴィオラのこめかみがピクリと動く。
「奪った? 違うわね。これは『選別』よ。優れた素材は、優れた芸術家の手によって統合されるべきなの。……私が世界で一番美しい存在になることこそが、この世界の正義なのよ!」
ヴィオラが立ち上がる。
その瞬間、彼女の背後から膨大な魔力が噴出した。
物理的な圧力を伴うオーラが、カノアたちを押し潰そうとする。
「来るわよ!」
ヒルダが大剣を構え、前に出る。
ヴィオラは指先一つ動かさず、ただ冷笑した。
「試してみる? 私の『コレクション』の力を」
ヴィオラの姿がブレた。
――『神速』。
かつて、大陸最速と呼ばれた盗賊から奪った脚力の概念。
瞬きする間に、彼女はヒルダの目の前に移動していた。
「遅いわ」
ヒルダが反応して剣を振るうが、ヴィオラはそれを素手で受け止めた。
ガギィィンッ!
金属音が響く。
――『金剛』。
伝説の武闘家から奪った、鋼鉄の皮膚の概念。
生身の腕が、ヒヒイロカネの大剣を傷一つなく弾き返す。
「なッ……!?」
ヒルダが驚愕する隙に、ヴィオラの手のひらから業火が放たれた。
――『紅蓮』。
宮廷魔導師から奪った、最強の火魔法の概念。
ドォォォォンッ!!
至近距離での爆発。
ヒルダが吹き飛ばされ、壁に激突する。
「ヒルダさん!」
ルミナが叫び、回復魔法を唱えようとする。
だが、ヴィオラの視線がルミナを捉えた。
「ああ……貴女ね。私の顔を傷つけた小娘は」
ヴィオラの顔が、嫉妬と憎悪で醜く歪む。
彼女は宙に浮き上がり、ルミナに向けて手をかざした。
「返してもらうわよ。その声も、命も!」
空間がねじ切れるような音がして、見えない重力がルミナを襲う。
――『重圧』。
土の精霊使いから奪った、重力操作の概念。
「きゃぁぁッ!」
ルミナが地面に縫い付けられる。
骨がきしむ音がする。
カノアが助けに入ろうと走るが、ヴィオラは視線だけでカノアを牽制する。
無数の氷の礫が、カノアの進路を塞ぐ。
「くそッ……! なんでもありか!」
カノアは『空間転移』で回避しながら舌打ちした。
速い、硬い、強い。
物理攻撃も魔法攻撃も、全てが最高水準。
一人の人間に、複数の達人の能力が同居している。
まさに「継ぎ接ぎの怪物」だ。
「どうしたの? 口ほどにもないわね」
ヴィオラは空中で腕を組み、余裕の笑みを浮かべている。
だが、カノアには視えていた。
彼女が能力を行使するたびに、その肉体に微細な亀裂が走っているのを。
強すぎる他人の概念に、彼女自身の器が耐えきれていないのだ。
彼女は、自分の命を削りながら、最強を演じている。
「……無理してんなよ、おばさん」
カノアは『黒鉄』を構え直した。
「そんなに色んなもん詰め込んで、パンクしそうじゃんか」
「減らず口を……! ミンチにしてあげるわ!」
ヴィオラが両手を広げる。
背後に、無数の魔法陣が展開される。
炎、氷、雷、風。
あらゆる属性の極大魔法が、同時に発動しようとしている。
「フィーネ! 撹乱だ! 的を絞らせるな!」
「りょーかいっ!」
フィーネが走り出す。
壁を蹴り、天井を走り、目にも止まらぬ速さでヴィオラの周囲を旋回する。
だが、ヴィオラは目で追おうともしなかった。
「無駄よ。……『千里眼』」
彼女の目が怪しく光る。
それは、かつて彼女の配下だったルクスと同じ、全てを見通す目。
フィーネの動きを完全に予測し、魔法の雨を降らせる。
「うわっ、危なっ!?」
フィーネが紙一重で回避するが、爆風に煽られて体勢を崩す。
隙ができた。
ヴィオラが追撃の雷を放とうとする。
「させない!」
瓦礫の中から、ヒルダが飛び出した。
ボロボロになりながらも、その闘志は衰えていない。
彼女は剣を投擲した。
ヴィオラの顔面めがけて、一直線に。
「フンッ」
ヴィオラは首を傾けてそれを避ける。
だが、それは囮だった。
剣の影から、カノアが転移してきたのだ。
「もらったァッ!」
ゼロ距離からの斬撃。
『黒鉄』がヴィオラの肩を捉える。
だが。
キィィィン!
硬い。
またしても『金剛』の皮膚が刃を弾く。
しかし、今回は違った。
カノアの剣には、ルミナの『光響』のバフは乗っていない。
代わりに、彼自身の「意志」が乗っていた。
「……硬いだけじゃ、俺の剣は止まんねぇぞ!」
カノアがさらに踏み込む。
剣先に魔力を集中させ、強引に概念を削り取る。
パリッ、と音がして、ヴィオラの肩から血が噴き出した。
「な……!?」
ヴィオラが悲鳴を上げる。
無敵のはずの肉体が、傷つけられた。
その動揺。
一瞬の隙。
玉座の裏、隠し扉の影に潜んでいたザインは、その瞬間を待っていた。
(……今だ)
ザインは音もなく飛び出した。
手には武器はない。
あるのは、この瞬間のために研ぎ澄ませてきた、魔封じの術式を刻んだ五指だけ。
狙うは一点。
ヴィオラの喉元。
そこに埋め込まれた、妹リゼの「声帯」。
カノアが作った一瞬の空白に、ザインの影が滑り込む。
誰にも気づかれず、風のように。
ヴィオラがカノアに気を取られている今なら、届く。
「……返してもらうぞ」
ザインの手が、ヴィオラの首に伸びた。
あと数センチ。
だが。
ヴィオラの口元が、ニヤリと歪んだ。
「……甘いのよ、裏切り者が」
彼女の背中から、予備動作なしで「影」が噴き出した。
それはかつてジェイナスで見た、あの黒い泥のような影。
影がザインの手首を掴み、強烈な力でねじり上げた。
「ぐっ……!?」
ザインの動きが止まる。
完全に虚を突いたはずだった。
だが、彼女は最初から知っていたのだ。
背後にネズミが潜んでいることを。
「残念だったわね。……私の目は『千里眼』よ? 城の中のネズミ一匹、見逃すわけないでしょう」
ヴィオラが振り返る。
その瞳には、慈悲など欠片もない、純粋な殺意だけがあった。
「お前も……私のコレクションの一部にしてあげる」
ザインの身体が、黒い影に飲み込まれていく。
絶体絶命の窮地。
継ぎ接ぎの女王は、その圧倒的な力を見せつけるように、高らかに笑った。




