92話 崩壊する日常
王都、魔女の城。
豪奢な『鏡の間』には、異様な緊張感が漂っていた。
玉座に座るヴィオラは、一見すると完璧な美貌を保っていた。
かつてヒルダから奪った強靭な肉体は捨て去り、今は地下の保管庫で眠らせていた、若く魔力適性の高い少女の肉体を纏っている。
傷一つない、陶器のように滑らかな肌。
だが、彼女は鏡を睨みつけながら、苛立ちを隠せない様子で自身の頬に手を当てていた。
「……またよ。またヒビが入ったわ」
ヴィオラが指を離すと、その美しい顔にまた新たな蜘蛛の巣状の細かい亀裂が走っているのが露わになった。
物理的な傷ではない。
内側から、魂の腐敗が肉体を侵食している証だ。
「おのれ……ルミナ……ッ! あいつが輝くたびに、私の『美』が拒絶反応を起こす……!」
遠く離れた地でルミナが覚醒し、魂の輝きを増すたびに、ヴィオラが奪った「美貌の概念」が反発し、器に亀裂を入れるのだ。
新しい肉体に乗り換えても、この呪いからは逃れられない。
「隠さなきゃ……。完璧でなければならないのよ……!」
ヴィオラは震える手で、化粧台から魔法の軟膏を掬い取った。
それを亀裂に塗り込み、さらに上から強力な幻惑魔法を重ね掛けする。
亀裂が消え、再び滑らかな肌が戻る。
だが、それは表面だけの偽装工作だ。
カノアから奪った『アレキサンドライトの瞳』を通して見ると、厚化粧の下で腐り落ちていく自分の魂が、ありありと見えてしまう。
「あぁぁぁ……ッ! 醜い! なんて醜いの!」
ヴィオラは化粧瓶を投げつけた。
ガシャン! という音が響き、香油が床に広がる。
「ヴィオラ様……お加減はいかがでしょうか……」
おずおずと声をかけたのは、玉座の脇に控えていた初老の男だった。
豪奢な王冠とマントを身に着けているが、その目は焦点が合わず、口元からは涎が垂れている。
この国の国王だ。
かつては賢王と呼ばれた彼も、今はヴィオラの薬漬けにされ、ただ玉座を飾るだけの人形に成り下がっている。
「うるさいわね、ジジイ。私の顔を見て何を思った? 笑ったのか?」
ヴィオラは狂気を孕んだ目で国王を睨んだ。
「あ、いいえ……滅相も……」
「黙れッ!」
ヴィオラが指を弾くと、見えない衝撃波が国王を打ち据え、老体は無様に床を転がった。
八つ当たりだ。
だが、それでも心の渇きは癒えない。
『――満たされぬな』
不意に、鏡の中から声がした。
ヴィオラが顔を上げる。
鏡の奥、底知れない闇の中から、形のない黒い影が蠢いている。
かつて、幼い彼女に力を与えた存在。
『虚飾の王』。
『器を変えても、厚化粧で隠しても、お前の魂の穴は塞がらぬ。……あの小娘たちが輝けば輝くほど、お前の闇は濃くなるのだからな』
「……黙りなさい。誰のおかげで、私がここまで来れたと思ってるの?」
ヴィオラは鏡を睨んだ。
「貴方がくれた力よ。……責任を取りなさい。私をもっと、誰よりも完璧な存在にしなさいよ!」
『ククク……。貪欲だな。その浅ましさこそが、お前の美徳だ』
影が笑う。
『いいだろう。楔は壊されたが、まだ手はある。……この街そのものを喰らえ。数万の命を燃料にして、お前の器を極限まで満たせばいい』
「街を……喰らう?」
『そうだ。結界が消えた今、街全体を巨大な「胃袋」に変えるのだ。民衆の絶望と生命力を吸い上げ、お前の美しさを維持する糧とするがいい』
鏡の表面が波打ち、黒い霧が溢れ出した。
ヴィオラの瞳から理性の光が消え、昏い欲望の炎だけが燃え上がる。
彼女は立ち上がり、窓の外――眼下に広がる王都を見下ろした。
その頬の亀裂が、ピキリと音を立てて再び開きかけたが、彼女はもう気にしなかった。
「ええ、そうね。……私のために死ねるなら、あいつらも本望でしょう」
魔女の暴走が、最終段階へと移行する。
それは、国一つを贄とする、最悪の儀式の始まりだった。
◇
その頃、カノアたちは王都の城壁の前に辿り着いていた。
かつて世界を拒絶していた黒いドーム状の結界は、すでに消滅している。
青空の下、壮麗な白亜の城壁がそびえ立っているが、その光景は異様だった。
「……静かね」
ヒルダが丘の上から街を見下ろし、眉をひそめた。
人々の喧騒が一切聞こえてこない。
ただ、不気味な紫色の靄が、街全体を薄く覆い、空気を澱ませている。
「ああ。……俺の目には、最悪な光景が見えてるよ」
カノアは『心眼』を凝らした。
街の中。大通り、広場、路地裏。
そこかしこに、人の形をした「何か」が彷徨っている。
彼らの魂の色は、薄く、灰色に濁っていた。
生気がない。
まるで、生きるエネルギーを極限まで吸い取られ、辛うじて動いているだけの抜け殻のようだ。
「ヴィオラの仕業だ。……結界が消えた代わりに、街全体を巨大な『魔力吸収装置』に変えやがったんだ」
傷ついた魂を癒やすため、なりふり構わず国民の生命力を搾取しているのだ。
このままでは、王都の住人は全員、干からびて死ぬ。
「……許せない」
ルミナが拳を握りしめる。
彼女にとって、王都は辛い思い出の場所だ。
けれど、そこで暮らす人々まで憎いわけではない。
無関係な人々を犠牲にしてまで生き延びようとする魔女の執念が、許せなかった。
「行こう。……正面からは入れないな」
城門は閉ざされ、城壁の上には黒い鎧を着た騎士たちがずらりと並んでいる。
『近衛騎士団』。
かつてヒルダが率いていた精鋭たちだ。
だが今の彼らは、ヴィオラの呪いで自我を奪われ、動く死体のような兵士になり果てている。
「ボクが囮になって引きつける? その隙にカノアが転移で……」
フィーネが提案するが、カノアは首を横に振った。
「いや、数が多すぎる。それに、城の周りには強力な魔力探知の結界が張られてる。転移した瞬間に蜂の巣だ」
真正面からのカチ込みは自殺行為だ。
もっと賢く、確実に中枢へ近づく必要がある。
「地下よ」
ヒルダが口を開いた。
「王都の地下には、古い水路が張り巡らされているわ。本来は廃棄された通路だけど、そこなら城壁の下をくぐって、街の内側へ侵入できるはず」
「さすが元騎士団長。……案内、頼めるかな?」
「ええ。任せて」
三人はヒルダの先導で、城壁から離れた森の中にある、古びた排水口へと向かった。
◇
水路の中は暗く、湿った空気が漂っている。
「……うぇ、臭い」
フィーネが鼻をつまみ、長い耳をペタリと伏せる。
彼女の鋭敏な嗅覚には、この腐敗臭は拷問に近いだろう。
「我慢してくれ。……俺にとっては、懐かしい臭いだけどな」
カノアは苦笑した。
ゴミ捨て場と同じ、澱んだ空気の臭い。
5年前、自分が捨てられた場所の臭いだ。
だが、今はもう、この臭いに負ける気はしない。
一行は闇の中を進んだ。
フィーネが『内緒話』で先行偵察を行い、ネズミや害虫の群れを回避しながら進む。
数時間後。
一行はマンホールの蓋を押し上げ、地上へと顔を出した。
そこは、王都の一角にある貧民街の路地裏だった。
「……ひどい」
ルミナが絶句する。
目の前に広がる光景は、地獄絵図だった。
道端には、痩せこけた人々が力なく座り込んでいる。
彼らの肌は土気色で、目は虚ろだ。
空を覆う紫の靄が、彼らから少しずつ、確実に命を吸い上げているのだ。
「ママー……お腹すいたよぉ……」
子供が泣いているが、母親は動かない。
ただ、ぼんやりと空を見上げているだけだ。
感情すらも吸い取られている。
「……治療を! ルミナ、フィーネ!」
カノアが指示を出す。
ルミナはすぐに駆け寄り、母親に手をかざした。
『聖詠・翠』。
癒やしの光が母親を包む。
フィーネも、持っていた食料と水を子供に分け与える。
「あ……ありがとう……ございます……」
母親の目に光が戻る。
だが、根本的な解決にはならない。
この靄がある限り、彼らの命は削られ続ける。
「急がないと。……ヴィオラを倒さないと、この国は終わる」
カノアは城の方角を睨んだ。
その時。
大通りの方から、重厚な足音が響いてきた。
カシャッ、カシャッ、カシャッ……。
統率の取れた、金属の行進音。
『来るよ! 黒い鎧の集団!』
フィーネの警告が脳内に響く。
カノアたちは廃屋の陰に身を潜めた。
通りを歩いてきたのは、黒い鎧の騎士団だった。
彼らは無感情に周囲を見回し、動けなくなった市民を見つけると、無造作に荷車へと放り込んでいく。
「回収だ。……城へ運べ」
隊長らしき騎士が命じる。
彼らは市民を助けるのではない。
「燃料」として、城の魔力炉へくべるために回収しているのだ。
「……ッ!」
ヒルダが飛び出しそうになるのを、カノアが必死に抑えた。
「待て! 今ここで暴れたら、俺たちの存在がバレる!」
「でも……! あれは私の部下だった者たちよ! あんな非道な真似を……!」
ヒルダの歯ぎしりが聞こえる。
誇り高き騎士たちが、魔女の手先として国民を家畜のように扱っている。
その屈辱と怒りは、想像を絶するものだろう。
「……助けるさ。全員」
カノアはヒルダの肩を掴み、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「でも、今は耐えてくれ。……俺たちだけで正面から戦っても、消耗戦になるだけだ」
敵は数千の騎士団と、無数の魔物。
対してこちらは4人。
いくら個々の能力が高くても、数の暴力には勝てない。
共に戦ってくれる、軍勢が必要だ。
その時。
路地裏の奥から、小さな影が現れた。
ボロボロの服を着た、一人の少年。
彼はカノアたちを見て驚いたようだったが、すぐに手招きをした。
「……こっちだ。早く」
少年の魂の色。
それは、絶望に染まったこの街で唯一、力強く燃える「反逆」の色をしていた。
「……乗ってみるか」
カノアたちは頷き合い、少年の後を追った。




