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9話 鏡の迷宮


 宿屋へ戻るために裏路地を走っていたカノアは、ふと足を止めた。


「……変だ」


 彼は呟き、周囲を見回すような仕草をした。

 カノアの『心眼』に映る街の構造が、先ほどまでと変わっているのだ。


 直線だったはずの路地が歪曲し、建物の配置が微妙にズレている。まるで巨大な生き物の体内に迷い込んだかのような、不快な閉塞感。


「カノア、どうしたの?」


 ルミナが不安そうにカノアの袖を引く。

 彼女には何も変わったようには見えていない。ただ、夜の闇が少し深くなったように感じるだけだ。


「道が塞がれてる。……いや、誘導されてるのか?」


 カノアが警戒を強めた瞬間。

 通りの左右にあるショーウィンドウのガラス、水たまり、そして捨てられた金属片――あらゆる「反射するもの」が一斉に発光した。


『ようこそ、迷い子たち』


 ねっとりとした声が、四方八方から響いた。

 ルミナが悲鳴を上げて周囲を見渡す。


 ショーウィンドウのガラスの中に、一人の男が映っていた。金髪碧眼の、作り物めいた美貌を持つ男。

 領主ナルシスだ。


「誰だ、アンタ」


 カノアは虚空を睨みつけた。もちろん彼にナルシスの姿は見えていないが、そこから漂うヘドロのような魔力の気配は強烈に感じ取っていた。


『私はナルシス。この美しきベル・ルージュの支配者であり、美の守護者だ。


 ナルシスの像が、無数の鏡面に増殖する。

 千人のナルシスが、一斉に二人を見下ろし、嘲笑う。


『衛兵たちを壊してくれたね。野蛮で、無粋で、実に醜い。……だが、私の興味はそこの盲人ではなく、君にある』


 鏡の中のナルシスたちが、一斉にルミナを指差した。


『仮面の少女よ。なぜ隠す? その白磁の下には、どんな「罪」が隠されているのだ?』

「ッ……!」


 ルミナが仮面の上から顔を覆う。

 ナルシスの言葉は、彼女の心の傷を的確にえグってくる。


『見せてごらん。私なら、君の醜さすらも芸術に変えてあげられる。ホルマリンに漬けて永遠に保存するか、あるいは剥製にして飾るか……』


 鏡の映像が変わる。

 そこに映し出されたのは、ルミナ自身の姿だった。

 だが、今のルミナではない。


 仮面が砕け、その下の爛れた素顔が露わになり、周囲の人々に指をさされて泣き叫んでいる――「もし仮面がなかったら」という、彼女が最も恐れる未来の幻影。


「い、いやぁ……! 見ないで……!」


 ルミナが錯乱し、その場にうずくまる。

 鏡が見せる幻覚トラウマ。視覚情報に依存する人間にとって、それは現実以上の恐怖となって襲いかかる。

 ナルシスの高笑いが響く。


『ハハハ! そうだ、怯えろ、絶望しろ! その歪んだ感情こそが、君を最も美しく輝かせるスパイスなのだから!』


 精神攻撃。

 ナルシスの『鏡面魔術』は、物理的な攻撃だけでなく、対象の心を映し出し、増幅させて壊す性質を持っていた。

 ルミナの魂の色が、恐怖で灰色に染まりかけていく。


「……おい」


 その時、低く冷たい声が響いた。

 カノアだ。

 彼はうずくまるルミナの前に立ち、だらりと愛剣を下げている。


「アンタさ、さっきからペラペラとうるさいんだよ」


『……なんだと?』


「幻覚だか鏡だか知らないけどさ。俺には通用しないって、ちょっと考えりゃわかんないかな?」


 カノアはため息をついた。

 ナルシスの幻術は、あくまで「視覚」を騙すものだ。光の屈折と反射を利用したトリックアート。

 だが、そもそも光を見ていないカノアにとって、それは「そこにない」ものだ。


 『心眼』に映るのは、魔力でできたスクリーンと、その奥でニヤついているナルシスの本体の魔力反応だけ。


「ルミナ、顔を上げな。そいつらは全部偽物だ」


「で、でも……鏡に、私が……!」


「鏡なんてない。あるのは、性格の悪いおっさんの妄想だけだ」


 カノアは一歩踏み出した。

 目の前には、ナルシスが映る巨大なショーウィンドウがある。


『馬鹿め。鏡の世界に物理攻撃は――』


 パリンッ!!


 ナルシスの言葉が終わるより早く、カノアの剣がガラスを粉砕した。

 ただ割ったのではない。ガラスの表面に張り巡らされていた「魔術式」の結節点を、正確無比に断ち切ったのだ。


『な、に……ッ!?』


 鏡の中のナルシスが驚愕の声を上げる。

 映像がノイズのように乱れ、霧散していく。


「種も仕掛けもお見通しだっての。……ま、アンタの鏡には、自分の腐った魂の色は映らなかったみたいだけどな」


 カノアは皮肉たっぷりに笑い、次々と周囲の鏡を破壊していく。

 パリン、パリン、パリン!

 心地よい破砕音と共に、ルミナを囲んでいた悪夢が剥がれ落ちていく。


「カノア……」


 ルミナが顔を上げる。

 彼女の目にはもう、恐ろしい幻覚は見えていない。あるのは、彼女を守るように立つカノアの背中と、ガラスの破片が星屑のようにキラキラと舞い散る美しい光景だけだった。


「ほら、道が開いた」


 全ての鏡を割り終えたカノアが、手を差し伸べる。

 幻術が解け、歪んでいた路地が元に戻っていた。その先には、丘の上に立つ領主の館が、月明かりの下で不気味にそびえ立っている。


「逃げるのはナシだ。……文句があるなら、直接言いに行こう」


 カノアの声には、有無を言わせない怒りが宿っていた。

 ルミナを泣かせた罪。それはカノアにとって、万死に値する。


「……うん!」


 ルミナは力強く頷き、カノアの手を握った。

 彼女の魂の色が、恐怖の灰色から、意志の光を宿した虹色へと戻っていく。


 鏡の迷宮は突破された。

 次なる舞台は、狂気の主が待つ館。

 カノアとルミナは、真っ直ぐにその敵地へと歩き出した。


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