89話 深緑の魔境
大陸の東、未開の地。
カノアたちが足を踏み入れたのは、地図上で『深緑の密林』と記されている広大なジャングル地帯だった。
だが、その実態は「緑」という言葉から連想される生命の息吹とは程遠いものだった。
「……うわぁ。空気がベタベタする」
フィーネが長い耳をパタパタさせながら、不快そうに鼻を鳴らした。
頭上を覆う巨木の枝葉が日光を遮り、森の中は昼間でも薄暗い。
地面は腐葉土と泥でぬかるみ、踏みしめるたびにジュクジュクと湿った音がする。
そして何より、辺りに立ち込める臭気が酷かった。
甘く熟れた果実の香りと、何かが腐敗したような酸っぱい臭いが混ざり合い、鼻の奥にへばりついてくる。
「瘴気ね。……ロゼッタの森とも違う、もっと原始的で悪意のある気配だわ」
ヒルダが大剣『プロメテウス』を杖代わりに突きながら、周囲を警戒する。
生身に戻った彼女にとって、この高温多湿な環境は体力を著しく奪う。
額には玉のような汗が浮かび、呼吸も少し荒くなっていた。
「ヒルダ、大丈夫か? 少し休む?」
カノアが気遣わしげに声をかける。
彼の『心眼』には、この森全体を覆う微細な魔力の粒子が視えていた。
それは胞子のように空気中を漂い、呼吸するたびに肺から侵入して魔力を蝕んでいく毒性のものであることが分かる。
まだ完全に肉体と魂が適合していないヒルダはこの森の中に居るだけで辛いはずだ。
「平気よ。……まだ入り口だもの、ここでへばってはいられないわ」
ヒルダは強がって見せたが、その足取りは重い。
「みんな、これ塗っといて! 特製の虫除け!」
フィーネが鞄から瓶を取り出し、中身の緑色のペーストをみんなの鼻の下や手首に塗りたくった。
強烈なミントのような香りが鼻を突き抜け、一瞬だけ頭が冴える。
「うっ、すごい匂い……」
「我慢してルミナ。ここの蚊は刺されると熱が出るからね。……ボクの耳でも、小さな羽音までは全部拾いきれないし」
フィーネの耳は常に動いているが、この森は環境音が多すぎる。
葉擦れの音、水滴の落ちる音、得体の知れない生物の鳴き声。
それらが反響し合い、聴覚による索敵を困難にしていた。
「……待った」
カノアが足を止めた。
前方の茂みがガサガサと揺れる。
一つや二つではない。周囲一帯の草木が、意思を持ったように蠢き始めた。
「囲まれたわね」
ヒルダが剣を構える。
茂みから飛び出してきたのは、獣ではなかった。
植物だ。
人間の背丈ほどもある巨大な食虫植物のような花が、根を足のように動かして迫ってくる。
『捕食花』。
その花弁の中央には、鋭い牙がびっしりと生え揃った口腔があり、涎のように消化液を垂らしている。
「キシャアァァッ!!」
花が咆哮を上げる。
植物が声を上げるという異様な光景に、ルミナが息を呑む。
「……生きてる植物…!?」
「活きがいいな……!」
カノアが『黒鉄』を抜く。
一番近くにいた個体が、鞭のように蔦を伸ばしてきた。
カノアは半身になってそれを躱し、すれ違いざまに茎を斬り裂く。
スパッ!
鮮やかな手応え。
胴体を両断された捕食花が地面に落ちる。
だが。
「……んっ!?」
切り口から緑色の泡が吹き出し、瞬く間に組織が結合していく。
数秒もしないうちに、花は元通りに再生し、再び襲いかかってきた。
「再生型か!」
今度は細切れにする勢いで連撃を叩き込む。
しかし、切断された破片の一つ一つがそれぞれ蠢き、新たな根を生やして増殖しようとする始末だ。
「キリがないわ」
ヒルダが大剣で薙ぎ払うが、打撃武器に近い『プロメテウス』の重撃でも、柔軟な植物の身体は衝撃を吸収してしまう。
潰しても潰しても、地面から養分を吸い上げて復活する。
「しかも、なんか撒き散らしてる!」
フィーネが鼻を押さえる。
再生する際、花から黄色い粉末が噴出しているのだ。
毒花粉。
それを吸い込んだ近くの草が、一瞬で枯れ果てていく。
「毒よ! 吸わないで!」
「ルミナ、浄化を頼む!」
「うん! ……『聖詠・翠』!」
ルミナが共鳴石を掲げ、歌う。
清涼な緑の風が巻き起こり、毒花粉を吹き飛ばす。
同時に、カノアたちの身体に活力が戻る。
だが、敵の数は減らないどころか、森の奥から続々と増援が現れている。
「……核がないのか?」
カノアは『心眼』で敵の構造を探った。
通常の魔獣なら魔石となる核があるはずだ。
だが、こいつらの魔力は全身に均一に分散しており、急所が見当たらない。
いや、正確には違う。
個体ごとの核がないのだ。
地面の下。
根を通じて、この森全体が巨大なネットワークで繋がっており、地脈から無尽蔵にエネルギーを供給されている。
(……森そのものが、一つの巨大な怪物ってわけか)
地面と繋がっている限り、こいつらは不死身だ。
「根を断つしかない! ……ヒルダ、地面ごと吹き飛ばせるか?」
「やってみるわ!」
ヒルダが剣を振りかぶる。
全身のバネを使い、ヒヒイロカネの重量を一点に集中させる。
「ふんッ!!」
ドォォォォンッ!!
轟音。
地面が爆発したかのように抉れ、周囲の捕食花たちが根こそぎ宙に舞う。
土砂崩れのような衝撃波が、物理的に再生の基盤を破壊した。
「今だ! 走るぞ!」
カノアが指示を飛ばす。
再生が追いつかない今のうちに、この包囲網を突破するしかない。
フィーネが先頭に立ち、安全なルートを探る。
「こっち! 風通しのいい場所がある!」
四人は泥を蹴って走った。
背後では、破壊された地面から早くも新しい蔦が伸び、獲物を逃した怒りに震えている。
なんとか魔獣の群れを振り切り、少し開けた岩場に辿り着いた頃には、全員泥だらけになっていた。
「はぁ……はぁ……。なんてしつこさなの」
ヒルダが岩に背を預けて座り込む。
戦闘自体は短時間だったが、湿気と足場の悪さが体力を奪っている。
「毒は……大丈夫そう?」
ルミナが心配そうに覗き込む。
歌で浄化したが、完全に防ぎきれたかは分からない。
「ええ、ありがとうルミナ。貴女の歌のおかげで、痺れは取れたわ」
ヒルダが微笑むが、その顔色は少し青白い。
ルミナは唇を噛んだ。
自分の歌は、あくまで「回復」と「防御」だ。
受けた傷を治すことはできても、敵そのものを無力化したり、あの異常な再生能力を止めることはできない。
(……もっと、強い力がなきゃ)
ルミナは共鳴石を握りしめる。
カノアやヒルダやフィーネが傷つくのを、ただ見ていることしかできない。
もっと根本的に、この森の理不尽さを覆すような「光」が必要だ。
「……休んでる暇はなさそうだ」
カノアが立ち上がり、森の奥を睨んだ。
『心眼』が、桁違いの魔力反応を捉えたからだ。
今までの雑魚とは違う。
明確な知性を持ち、この森全体を統率している「主」の気配。
『第四の楔』の守護者。
ズズズズ……。
遠くの木々が揺れ、鳥たちが一斉に飛び立つ。
重苦しいプレッシャーが、湿った空気と共に押し寄せてくる。
「挨拶に来たか……律儀な植物だ」
カノアは剣を構えた。
来るなら来い。
再生だろうが毒だろうが、俺たちの絆で叩き斬ってやる。
深緑の魔境。
そこは、生命のルールがねじ曲がった、ヴィオラの箱庭。




