88話 四色の風
フィーネの蹴撃によって核を砕かれた『嵐の王』は、断末魔を上げることもなく霧散した。
主を失ったことで、渓谷の奥にそびえ立っていた黒い柱――『第三の楔』もまた、砂のように崩れ落ちていく。
風が止んだ。
頭上には突き抜けるような青空が広がっていた。
久しぶりに感じる、穏やかな陽の光。
それが、激戦の終わりを告げていた。
「……残るはひとつか」
カノアは『黒鉄』を鞘に納め、大きく息を吐いた。
長い迷宮だった。
視覚も聴覚も奪われる極限状態からの逆転劇。
だが、今の彼らの顔に疲労の色はない。
再会した仲間との絆と、完全な勝利がもたらす心地よい高揚感が、身体の芯から湧き上がっていた。
「それにしても、フィーネ。よくここが分かったな。俺たちも迷いかけてたのに」
カノアが尋ねると、フィーネは長い耳を得意げに動かして答えた。
「ボク一人の手柄じゃないよ。……教えてくれた人がいたんだ」
「人?」
「うん。ザインだよ」
「……ザイン!?」
カノアとヒルダが顔を見合わせる。
「そう、ボクがミラムの復興を手伝ってたら、ふらっと現れてさ」
◇
――オアシス都市ミラム。
活気を取り戻した街角で、フィーネは瓦礫の撤去作業を指揮していた。
そこへ、黒いコートの男が現れた。
周囲の喧騒から浮くような、冷たい気配。
『……街は元通りか。悪くない』
ザインは独りごちて、去ろうとした。
フィーネは慌てて作業の手を止め、警戒心を剥き出しにして声をかけた。
『あんた! ザインだよね!?』
フィーネは身構える。
彼は魔女の配下だ。シレーヌが倒された今、報復に来たのかもしれない。
『……なんでここにいるの? まさか、また何か奪いに来たんじゃ……』
『勘違いするな』
ザインは足を止め、面倒そうに振り返った。
『ギア・ガルドに少し用事があってな。……その帰りのついでだ』
『ギア・ガルド……?』
フィーネは首を傾げた。
魔女の手下が、職人の街に何の用があるというのか。
だが、ザインの表情に嘘をついている様子はなかった。どこか、大きな荷物を下ろした後のような、微かな安堵すら感じられる。
『……用が済んだなら、さっさと帰ってよ。ここはもう、あんたたちの庭じゃないんだから』
『ああ、そうさせてもらう。……だが、その前に一つ教えてやる』
ザインは西の空を指差した。
『カノアたちは今頃、南の火山を越えて、西の「風鳴りの渓谷」へ向かっているだろう』
『カノアたちが? どうしてあんたがそんなこと知ってるの?』
『理由はどうでもいい。ただ、事実を話しているだけだ』
ザインは淡々と続けた。
『あそこは天然の迷宮だ。視界は遮られ、音は反響し、方向感覚を奪われる。……今の奴らには「目」と「剣」と「歌」はあるが……先を走り、道を示す「斥候」が足りん』
『……』
『奴らの能力だけでは、突破するのに何日かかるか分からんな。……その間に、ヴィオラ様の手が回れば全滅もあり得る』
フィーネは拳を握りしめた。
それは、遠回しな勧誘だった。
「お前が必要だ」とは言わない。ただ冷徹な事実を並べて、彼女の焦燥感を煽っている。
『……それって、ボクに行けってこと?』
『さあな。私は事実を述べたまでだ』
ザインは背を向け、歩き出した。
『行きたければ行けばいい。……奴らも、お前の到着を待っているかもしれんぞ』
そう言い残し、彼は風のように去っていった。
まるで、迷っていたフィーネの背中を押すためだけに、わざわざこの街に立ち寄ったかのように。
◇
「……ってことがあってさ。あいつの言い方はムカついたけど、ボク、居ても立っても居られなくなって!」
フィーネがニカっと笑う。
カノアは天を仰いだ。
あの男、ヒルダから預かった「ミリア王女の結晶」をギア・ガルドへ届けるという約束を、本当に果たしたんだ。
そしてその帰りに、わざわざルートを外れてミラムへ寄り、フィーネを焚き付けたのか。
律儀というか、お節介というか。
あるいは、彼なりに「ヴィオラを倒すための最強の布陣」を完成させるために動いていたのか。
「……感謝しなきゃな。あいつの『采配』のおかげで、最高のタイミングで合流できた」
カノアは『黒鉄』の柄を握りしめる。
ザインの真意は、まだ完全には分からない。
だが、結果として彼の行動が、カノアたちを救い、勝利へと導いているのは事実だ。
「うん! それにね、あの人が教えてくれた通りだったよ。……みんな、ボクを待っててくれた!」
フィーネが嬉しそうにルミナの手を握る。
ルミナも涙ぐみながら頷き返す。
「待ってたよ。……フィーネちゃんがいなきゃ、ダメだった」
「へへっ。任せてよ。これからはずっと一緒だからさ!」
四人の間に、温かい空気が流れる。
一度は別れた道が、再び交わり、より太く強固な絆となって結ばれた瞬間だった。
カノアは懐から地図を取り出し、広げた。
北の雪山、南の火山、西の渓谷。
三つの供給源を断った。
王都を覆う結界は、すでにかなり弱体化しているはずだ。
だが、まだ消えてはいない。
最後の楔が残っているからだ。
「さて、と。……残る楔はあと一つ」
カノアが指差す先。
大陸の東側に広がる、未開のジャングル地帯。
「最後は東。……『深緑の密林』」
「大丈夫だよ! 道案内ならボクに任せて!」
フィーネが胸を叩く。
「毒消しの薬草とか、危険な植物の見分け方なら、砂漠のオアシスでたっぷり仕込まれたからね!」
「頼もしいな。それに、ルミナもいる」
カノアはルミナを見た。
彼女の『聖詠』は、今やカノアたちの生命線だ。
毒や状態異常が相手なら、彼女の歌が最大の防御になる。
「うん。私も、もっと頑張る。新しい歌も、練習しなきゃ」
ルミナが力強く頷く。
彼女の中で、何かが芽生えつつあった。
これまでの旅で得た経験、仲間との絆、そしてフィーネとの再会。
それらが混ざり合い、新たな「色」を生み出そうとしている予感。
全ての色を束ねる、虹の歌への予兆。
「よし、行くか!」
カノアが歩き出す。
四人の影が、渓谷の岩肌に長く伸びる。
四つの色が混ざり合い、一つの強大な光となって、王都への道を切り拓いていく。
彼らの旅は、クライマックスへと加速する。
最後の楔を破壊し、魔女ヴィオラを引きずり出すために。
東の空には、不気味な緑色の雲が渦巻いていた。
そこには、これまでとは異質の、命を冒涜する「何か」が待ち受けている。




