86話 風鳴りの迷宮
灼熱の火山地帯を後にしたカノアたちは、大陸の西側へと移動していた。
目指すは『第三の楔』がある場所。
『風鳴りの渓谷』。
そこは、年中強風が吹き荒れ、複雑に入り組んだ岩山が天然の迷路を作り出している難所として知られていた。
ヒュオオオオ……ッ!
渓谷の入り口に立った瞬間、耳をつんざくような風切り音が三人を襲った。
岩肌に空いた無数の風穴が、吹き付ける風を笛のように共鳴させ、不気味な音色を奏でているのだ。
「……うるさいわね」
ヒルダが顔をしかめる。
彼女は大剣『プロメテウス』を杖代わりに地面に突き立て、強風に耐えていた。
生身の身体では、立っているだけでも体力を消耗する。
「音だけじゃない。……魔力の流れも滅茶苦茶だ」
カノアは『心眼』を凝らした。
だが、いつものようにクリアな3Dマップが浮かんでこない。
風に乗って流れる魔素が乱気流のように渦を巻き、周囲の情報の輪郭をぼやけさせている。
まるで、擦りガラス越しに世界を見ているような感覚。
「カノア、どっちに行けばいいの?」
ルミナがフードを押さえながら尋ねる。
彼女の声も、風にかき消されて聞き取りにくい。
「……奥だ。魔力の密度が濃い方へ進むしかない」
カノアは曖昧に答えた。
正確な位置が掴めない。
楔の気配はあるのだが、音が反響するように、魔力の気配も渓谷全体に反響してしまっている。
「みんな、はぐれるな。……ここでは視界も音も当てにならない」
三人はロープで互いの腰を繋ぎ、慎重に渓谷の中へと足を踏み入れた。
◇
渓谷の内部は、入り口以上に混沌としていた。
切り立った崖が迷路のように入り組み、道は何度も分岐し、行き止まりに突き当たる。
上空は岩棚に覆われ、薄暗い。
「……同じ場所を回っている気がするわ」
数時間後。ヒルダが足を止めて言った。
彼女の指摘通り、目の前には先ほど通ったはずの特徴的な奇岩があった。
「迷ったか……」
カノアは壁を叩いた。
『心眼』は覚醒し、どんな敵の動きも見切れるようになった自負があった。
だが、この場所は「敵」ではない。
環境そのものが、カノアの知覚能力を拒絶している。
「休もう。……このままじゃ消耗するだけだ」
カノアは岩陰を見つけ、一時休息を提案した。
風を避けられる場所で、ルミナが水を配る。
「ありがとう、ルミナ」
カノアは水を受け取り、喉を潤した。
冷たい水が、焦る心を少しだけ落ち着かせる。
「……ねえ、カノア。何か聞こえない?」
ルミナがふと、耳を澄ませた。
「音? 風の音だろ?」
「ううん。違う。……風の中に、何かが混じってる」
ルミナは歌い手だ。音に対する感性は人一倍鋭い。
彼女が言うなら、何かがあるはずだ。
カノアは『心眼』の感度を最大にし、聴覚情報に集中した。
ヒュオオ……キィィン……。
風鳴りの中に、微かに混じる金属音。
いや、刃物が空気を斬る音。
「……伏せろッ!」
カノアが叫び、ルミナを押し倒す。
直後。
二人がいた場所の岩壁に、深々とした亀裂が走った。
斬撃だ。
だが、刃は見えない。敵の姿もない。
「なっ……!?」
ヒルダが大剣を構える。
周囲を見渡すが、動くものは風に舞う砂塵だけ。
「姿が見えないわ! どこから!?」
「風だ! 風の中に紛れてる!」
カノアは『黒鉄』を抜き、空気を薙いだ。
手応えはない。
だが、『心眼』には視えていた。
風の流れが不自然に歪み、鎌のような形を成して襲ってくるのが。
『風の精霊』――いや、魔力で汚染された『鎌鼬』の群れだ。
実体を持たず、風そのものと同化した暗殺者。
物理攻撃が通じない相手。
「キキキッ!」
嘲笑うような音が響き、四方八方から見えない刃が襲いかかる。
「読めない……!」
「『聖詠・翠』!」
ルミナが歌う。
緑色の障壁が展開されるが、風の刃は障壁の隙間――魔力の薄い部分を縫って侵入してくる。
ザシュッ!
カノアの頬が切れる。ヒルダのコートが裂ける。
「厄介ね……! どこを斬ればいいのか分からないわ!」
ヒルダが闇雲に大剣を振るうが、風を斬るばかりで手応えがない。
カノアも、『心眼』で軌道は見えても、本体の核が見つけられない。
風全体が敵であり、個体という概念が希薄なのだ。
「このままじゃ嬲り殺しだ! 走ろう!」
カノアは決断した。
戦っても勝てないなら、突破するしかない。
だが、この迷宮の中で、どこへ向かえばいい?
出口も、楔の場所も分からないまま、見えない刃の嵐の中を走り続ける。
(……クソッ! どこに行けばいい!?)
カノアは心の中で叫んだ。
その時。
轟音のような風鳴りの中に、微かな、けれど異質な「リズム」が混じった気がした。
タタッ、タタッ……。
それは、この絶望的な迷宮をあざ笑うかのような、軽快な足音。
どこか懐かしい響きが、嵐の向こうから近づいてきていた。




