8話 美貌の狩人と仮面の罪
金属が擦れ合う硬質な音が、夜のベル・ルージュに響き渡った。
カノアに手首を掴まれた衛兵の顔が、怒りで赤く――いや、不気味なほど無表情のまま、瞳だけが殺意で揺らめいた。
「……公務、執行妨害だ」
機械的な宣告と共に、残りの四人の衛兵が一斉に抜刀する。
白銀の剣身が魔導灯の光を反射し、ギラリと輝く。その切っ先が向けられたのは、カノアと、その背後で震える仮面の少女ルミナだ。
周囲の群衆からは悲鳴ではなく、「やれ!」「その女の顔を晒せ!」という嗜虐的な歓声が上がる。この街では、美醜を暴くことは娯楽であり、美しさを害する者は排除されて然るべき害悪なのだ。
「カ、カノア……!」
「下がってて、ルミナ。……おっと、おっさんも少し落ち着きなって」
カノアはルミナを庇いつつ、掴んでいた衛兵の手首を軽く捻った。
人間の関節構造を熟知した、最小限の力での制圧。普通なら激痛で膝をつくはずだ。
だが、衛兵は眉一つ動かさず、あろうことか自らの手首をへし折る勢いで無理やり剣を振るってきた。
「――ッ!?」
ボキリ、と嫌な音が響く。
カノアは瞬時に手を離し、バックステップで距離を取った。
空を切った剣が石畳を叩き、火花を散らす。
「おいおい、マジかよ。痛覚ないの?」
カノアは舌を巻いた。
目の前の衛兵は、手首がありえない方向に曲がっているにも関わらず、何事もなかったかのように剣を左手に持ち替えている。
その顔には、痛みによる苦悶も、恐怖もない。あるのは「排除」という目的のみ。
(……やっぱり、ただの人間じゃない)
カノアは布越しの『心眼』を凝らした。
視界が一変する。色彩のない闇の中に、魔力の光だけが浮かび上がる世界。
そこでカノアは見た。
衛兵たちの背中から、極細の「糸」が伸びているのを。
薄紫色の、粘着質な魔力の糸。それは夜空へと伸び、街の丘の上に立つ領主の館へと繋がっている。
「なるほどね。操り人形ってわけか」
彼らの魂の色が薄い理由がわかった。
自我がないのだ。あの糸を通じて思考も痛みも制御され、ただ「美を害する者を排除する」という命令だけを実行する端末にされている。
生きた人間を素材にした、悪趣味な自動人形。
「排除する」
五人の衛兵が、統率の取れた動きで殺到した。
逃げ場はない。背後にはルミナがいる。
カノアはふぅ、と息を吐き、腰の愛剣に手を掛けた。
「悪いけど、ダンスの相手なら他を当たってくれよ。おっさんと踊る趣味は無いんでね」
カノアが踏み込む。
迎撃ではない。自ら死地へ飛び込む前進。
――『空間転移』・短距離跳躍。
カノアの姿が、陽炎のようにブレた。
先頭の衛兵が剣を振り下ろした瞬間、その刃の下にはもう誰もいない。
カノアは衛兵の懐、ゼロ距離の死角に「出現」していた。
「遅い」
呟きと共に、カノアの拳が衛兵のみぞおちに深々と突き刺さる。
鎧の隙間、呼吸の瞬間を狙った精密打撃。
だが、倒れない。痛覚がない人形は止まらない。衛兵が体勢を崩しながらも、裏拳で反撃してくる。
「やっぱ、効かないか」
カノアは紙一重でそれを躱し、流れるような動作で足払い。
転倒させた衛兵の顔面を、追撃の踵で踏み抜こうとして――寸前で止めた。
代わりに、首筋にある魔力の経絡を、指先で鋭く突く。
プツン。
糸が切れるような感触。
その瞬間、衛兵は糸の切れた人形のように脱力し、動かなくなった。
「……なるほど。物理で殴るより、配線を切った方が早いか」
正解を見つけたカノアは、ニヤリと笑った。
残る四人が囲い込むように迫る。
だが、今のカノアにとって、彼らの動きはスローモーションに等しい。
『心眼』は、彼らを操る「糸」の動きすら捉えている。糸が引かれる方向を見れば、次の攻撃がどこに来るか、未来予知のように分かるのだ。
「右、左、大振り……はい、そこ」
カノアは舞うように戦場を駆けた。
剣を振るう衛兵の腕をすり抜け、背後に回り込み、首筋の経絡を突く。
一人、また一人。
カノアが通り過ぎるたびに、衛兵たちは崩れ落ちていく。
圧倒的な実力差。
だが、カノアの表情は晴れなかった。
衛兵を倒しても、群衆の狂気は止まらないからだ。
「なんだあいつ! 衛兵様を!」
「化け物だ! あの女も同類だ!」
「殺せ! 美しくないものは死ね!」
石が飛んできた。
カノアは剣の鞘でそれを弾き飛ばしたが、数は増える一方だ。
ルミナが小さく悲鳴を上げ、仮面を押さえてうずくまる。
彼女に向けられる悪意の視線。それは、物理的な暴力よりも深く、彼女の心を抉っていた。仮面という薄い壁一枚では防ぎきれないほどの、集団心理の暴力。
(……この街、全員イカれてる)
全員を気絶させることはできる。だが、それではルミナを守りきれない。
カノアは瞬時に判断を下した。
「ルミナ、掴まってろ!」
彼はルミナの腰を抱き寄せると、空いている手で愛剣を頭上高く放り投げた。
夜空へ向かって回転する剣。
それが建物の屋根、その縁に届いた瞬間。
――『転移』。
群衆の目の前で、二人の姿が掻き消えた。
残されたのは、倒れ伏した衛兵たちと、行き場のない怒りを喚き散らす人々の声だけだった。
◇
同時刻。
丘の上にそびえる領主の館、最上階。
壁一面が巨大な鏡で覆われた部屋で、一人の男が優雅にグラスを傾けていた。
ベル・ルージュ領主、ナルシス。
彼は、自らの顔をうっとりと鏡に映していた。
金髪碧眼、透き通るような白い肌。
その造形は完璧すぎて、人間味というものが欠落している。まるで精巧に作られたビスクドールのようだ。
「ああ……美しい。今日も私は完璧だ」
ナルシスは自らの頬を撫でる。その指先には、いくつもの指輪が嵌められているが、どれも鏡面仕上げで自分の顔を映すためのものだ。
彼の背後には、等身大の鏡が浮遊していた。
そこに映っているのは、先ほどの広場の光景――カノアが衛兵を倒し、転移で逃げる瞬間だ。
「……野蛮なドブネズミめ。私の美しい『コレクション』を壊すとは」
ナルシスの声に怒りの色は薄い。あるのは、芸術品を傷つけられたコレクターの不快感だけだ。
彼は指を鳴らし、浮遊する鏡の映像を切り替えた。
映し出されたのは、カノアに抱きかかえられたルミナの姿。
そして、彼女がつけている白い陶器の仮面。
「ほう……?」
ナルシスが目を細めた。
彼の興味は、圧倒的な戦闘力を持つカノアではなく、震える少女の方に向けられた。
「仮面、か。……隠しているな? その下にある『何か』を」
ナルシスは知っている。
人は、本当に醜いものを隠す時、もっと必死になることを。そして何より、あの少女の立ち姿、身にまとう空気には、隠しきれない「素材の良さ」が滲み出ていた。
そして、彼が崇拝する「あの方」――魔女ヴィオラが、最近苛立っている原因が、何者かに「美」を奪われた、あるいは取り返されたことにあるとも噂で聞いていた。
「もしや、あの中に隠されているのは、至高の原石か? それとも、極上の絶望か?」
ナルシスは舌なめずりをした。
彼の歪んだ性癖が疼く。
美しいものを愛でるのではない。美しいものを暴き、自分色に染め上げ、そして永遠に変わらない「彫像」にして保存することこそが、彼の愛なのだ。
「欲しいねえ。……暴きたい。その仮面の下を、白日の下に晒してやりたい」
ナルシスは立ち上がり、鏡に向かって手をかざした。
鏡面が波打ち、どす黒い魔力が渦を巻く。
「ようこそ、私の箱庭へ。……逃げられると思わないことだ」
館の鏡が、一斉に怪しく輝き始めた。
それは、街中に張り巡らされた監視網であり、同時に獲物を追い込むための迷宮の入り口でもあった。




