77話 雪に埋もれた声
白一色の世界を、男が一人、歩いていた。
『白銀の峰』。
大陸の北端に位置するこの山脈は、死の世界だ。
吹き荒れる暴風雪は、生物の体温を容赦なく奪い去り、鋭利な氷の礫が肌を切り裂く。
だが、ザインは歩みを止めなかった。
黒い狩猟服の上に厚手のコートを羽織り、雪を踏みしめるたびに響く「キュッ、キュッ」という音だけが、彼が生きている証だった。
「……寒いな」
白い息を吐く。
物理的な寒さではない。
この山に近づくにつれ、胸の奥底に埋め込んだはずの「古傷」が疼き、心臓を凍えさせていくような感覚。
――お兄ちゃん。
風の音に混じって、幻聴が聞こえた気がした。
愛おしい声。
もう二度と聞くことのできない、妹の声。
◇
記憶の中の妹――リゼは、いつも笑っていた。
彼女は生まれつき身体が弱く、ベッドの上で過ごすことが多かった。
だが、その喉には、神が与えた奇跡と、悪魔が与えた呪いが宿っていた。
『言霊』。
彼女が紡ぐ言葉には、現実を改変する力が宿る。
「治れ」と言えば傷が塞がり、「燃えろ」と言えば火種もないのに炎が上がる。
それは強大すぎる力だった。
幼い彼女には制御しきれず、無邪気な一言で周囲を傷つけてしまうこともあった。
だから、人々は彼女を恐れた。
「魔女の生まれ変わり」「呪われた子」と罵り、蔑んだ。
『ごめんなさい、お兄ちゃん。私がいるせいで……』
泣きじゃくるリゼの頭を、ザインはいつも撫でていた。
『謝るな。お前は悪くない。……お前の声は、世界で一番優しい魔法だ』
ザインにとって、リゼは守るべき全てだった。
両親を早くに亡くし、二人きりで生きてきた。
彼女を守るためなら、どんな汚れ仕事でもした。魔獣使いとしての才能を開花させたのも、彼女に近づく害意を排除するためだった。
だが、あの日。
運命は、あまりにも残酷な形で訪れた。
王都からやってきた魔女、ヴィオラ。
彼女はリゼの「声」に目をつけた。
美貌だけでなく、他者を絶対服従させる「支配者の声」を欲したのだ。
『素晴らしいわ。この声帯があれば、私は真の女王になれる』
圧倒的な力の差だった。
ザインが操る魔獣たちは、ヴィオラの指先一つで塵にされた。
リゼは連れ去られ、実験台にされた。
そして、取引が持ちかけられた。
『妹の声帯はいただくわ。……でも、命までは取らない』
ヴィオラは、摘出した声帯を自身の喉に移植し、残されたリゼの肉体を氷の棺に封じ込めた。
『この美しい器は、私の「予備」として保管しておいてあげる。……お前が私の忠実な犬として働くなら、氷を溶かさずにいてやるわ』
屈辱だった。
殺してやりたいと、何度も思った。
だが、リゼは生きている。声は奪われたが、魂はまだあの身体の中に眠っている。
もしヴィオラを殺せば、連動している術式によって、リゼの肉体も砕け散るかもしれない。
だから、ザインは膝を屈した。
心を殺し、感情を捨て、魔女の命令に従う「調教師」となった。
いつか、この呪縛を解く方法を見つける、その時まで。
◇
「……だが、それも限界か」
ザインは立ち止まり、山頂を見上げた。
吹雪の向こうに、巨大な氷の城影が見える。
あそこが『第一の楔』。
王都の結界を維持するための魔力供給源。
ヴィオラは、ついに「予備」を使うことを決めたのだ。
リゼの肉体に、自動防衛の術式を組み込み、侵入者を排除する生体兵器として起動させた。
――雪の女王。
それが、今のリゼの姿だ。
意識はない。心もない。
ただ、近づく者を無差別に殺戮する、悲しい人形。
「……リゼ」
ザインは懐から、氷色の結晶を取り出した。
星降る泉で見つけた、リゼの「声の記憶」。
冷たい石なのに、握りしめると微かな温もりを感じる。
「待たせたな。……ようやく、迎えに来たぞ」
ザインの瞳に、暗い決意の炎が宿る。
このままヴィオラに使われ続け、尊厳を穢されるくらいなら。
いっそ、この手で終わらせてやるのが、兄としての最後の愛なのかもしれない。
そう思っていた。
数日前までは。
「……フン。甘くなったものだ」
ザインは自嘲気味に笑った。
脳裏に浮かぶのは、あの無鉄砲な少年と、傷だらけの少女たちの顔だ。
カノア。ルミナ。ヒルダ。
絶望的な状況でも諦めず、奪われたものを取り戻そうと足掻く、愚かで眩しい連中。
『貴方は敵かもしれない。でも……私は信じる』
ヒルダの言葉が、耳に残っている。
信じる、か。
敵である私に、主君の命を預けるほどの馬鹿正直さ。
だが、その馬鹿正直さが、凍りついていたザインの心を少しだけ溶かしたのも事実だった。
(……あいつらなら)
微かな期待。
もし、ルミナの声が「奇跡」を起こせるなら。
ヴィオラの支配を内側から食い破り、リゼの魂を呼び覚ますことができるなら。
殺す以外の選択肢が、あるのかもしれない。
「……賭けてみるか。あの『毒』に」
ザインは結晶をしまい、鞭を手に取った。
風向きが変わった。
山の下から、複数の気配が近づいてくる。
隠そうともしない、真っ直ぐで力強い魔力の光。
カノアたちだ。
彼らもまた、この雪山を目指して来たのだ。
「……来るなら来い。試練は用意してある」
ザインは指を鳴らした。
雪の中から、無数の『氷像兵』が姿を現す。
ヴィオラの命令で配置された防衛戦力だ。
「ここを通りたくば、力ずくで越えてみせろ。……私を、そして運命をねじ伏せるほどの実力を示せ」
それは、敵としての迎撃準備であり、同時に師としての最終試験の準備でもあった。
ザインはゴーレムたちの中心に立ち、静かに目を閉じた。
次に目を開ける時、そこに映るのは絶望か、それとも希望か。
吹雪が強まる。
凍てつく山頂で、悲しい再会の幕が上がろうとしていた。




