76話 閉ざされた王都
王都、魔女の城。
かつては豪奢な装飾で埋め尽くされていた『鏡の間』は、今や見る影もなく荒れ果てていた。
美しい調度品は薙ぎ払われ、壁の鏡は全て、黒い布で覆われている。
その中心で、ヴィオラは玉座にうずくまり、震えていた。
「……消えた」
彼女は自分の胸を強く鷲掴みにする。
腹部の傷ではない。もっと奥、魂の根幹にあった「何か」が、ごっそりと抜け落ちている。
「私の『影』が……消えた……?」
双子都市ジェイナスに放った自身の分身。
それは、ヴィオラが捨て去ったはずの「醜い過去」であり、同時に彼女を美への執着へと駆り立てる「原動力」でもあった。
『あんな惨めな自分には戻りたくない』
『誰よりも美しくなって、見返してやる』
その強烈なコンプレックスこそが、彼女を魔女たらしめるエネルギーだったのだ。
だが今、その過去が消えた。
ルミナの歌によって肯定され、浄化され、安らかに成仏してしまった。
「なによ……それ……」
ヴィオラの瞳から、涙がこぼれ落ちる。
それは悔し涙でも、怒りの涙でもない。
自分が何者なのか分からなくなった、迷子の涙だった。
「過去が許されたら……私は、何のためにこんなことをしているの?」
「美しくなる理由は? 他人から奪う理由は?」
空っぽだ。
鏡を見ても、そこには誰も映らない気がした。
過去を失った自分は、ただの空虚な器。
アイデンティティの崩壊。
それが、肉体の傷以上に彼女を追い詰めていた。
「……怖い」
ヴィオラは頭を抱えた。
世界が怖い。
自分を肯定したあの歌声が、光が、恐ろしい。
このままでは、今の自分という存在さえも否定され、消えてしまうのではないか。
「嫌よ……消えたくない……! 私は、私はここにいるのよッ!」
恐怖が、爆発的な防衛本能へと変わる。
彼女は玉座から立ち上がり、叫んだ。
「ザイン! ザインはどこ!?」
「……御前に」
影の中から、調教師ザインが現れ、跪く。
彼は主人の錯乱した様子を見ても、表情一つ変えない。
「鍵を使いなさい! 大陸の四方に設置した『楔』を起動させるのよ!」
「……よろしいのですか? あれを使えば、王都は外界から完全に隔絶されます。魔力の供給も、物流も、全てが止まる諸刃の剣ですが」
「構わない! 誰も入れるな! 光も、音も、あの忌々しいネズミどもも!」
ヴィオラは爪を噛んだ。
血が滲む。
「閉じこもるのよ……。私の世界を、誰にも触れさせないために!」
それは、王としての命令ではない。
布団に潜り込んで震える子供の、悲痛な癇癪だった。
だが、その魔力だけは強大すぎる。
「御意。……直ちに『絶対防御結界』を展開します」
ザインは深く一礼した。
その目線が下を向いた瞬間、彼の口元に冷ややかな笑みが浮かんだことを、ヴィオラは気づかなかった。
(……堕ちたな、魔女よ。恐怖に支配されたお前になら、付け入る隙はある)
ザインは部屋を辞する。
彼は向かう。
四つの楔の一つ――彼の妹が眠る、北の雪山へ。
◇
ジェイナスを出発してから数日。
カノアたちは、北へと続く街道を進んでいた。
季節が変わったかのように、風が冷たい。
空は鉛色の雲に覆われ、時折、白いものが舞い落ちてくる。
雪だ。
「……寒いわね」
ヒルダがコートの襟を合わせる。
生身の体になって初めて迎える冬の気配。
彼女は剣の柄を握り、かじかむ指先を温めた。
「もうすぐ王都だ。……山を越えれば、城が見えるはずだ」
カノアが前方を指差す。
街道の先、地平線の上に、黒い影のようなものが横たわっていた。
山脈ではない。
もっと異質で、禍々しい何か。
「……あれは?」
ルミナが目を凝らす。
近づくにつれ、その全貌が明らかになった。
壁だ。
王都を中心として、天まで届く巨大な黒いドーム状の壁が、世界を遮断していた。
黒い霧のようにも見えるし、無数の茨が絡み合っているようにも見える。
「……なんだ、ありゃ」
カノアは『心眼』を凝らした。
視界に入った瞬間、脳が焼き切れるような拒絶反応を感じる。
解析不能。
物理的な物質ではない。空間そのものを「通行止め」にする、絶対的な拒絶の概念。
「結界……それも、王都を丸ごと封鎖する規模の」
ヒルダが絶句する。
城壁どころの話ではない。王都全域が、巨大な鳥籠の中に閉じ込められている。
「試してみるか」
カノアは道端の石を拾い、結界に向かって全力で投げた。
ヒュンッ。
石が黒い壁に触れた瞬間。
ジュッ。
音もなく、石が消滅した。
砕けたのではない。煙のように霧散し、存在そのものが消し飛んだのだ。
「……やばいなこれ」
カノアは冷や汗を流した。
あんなものに突っ込めば、ヒルダの肉体だろうが、空間転移だろうが、一瞬で原子レベルに分解される。
攻撃魔法を撃ち込んでも、すべて吸い込まれて終わりだろう。
「どうするの? これじゃ中に入れないよ」
ルミナが不安そうにカノアを見上げる。
やっとここまで来たのに。
最後の最後で、扉は固く閉ざされていた。
「入る鍵はあるはずだ」
カノアは冷静に、結界の構造を観察した。
これほどの規模の術式を、ヴィオラ一人で維持し続けるのは不可能なはずだ。
必ず、外部からのエネルギー供給がある。
『心眼』の視界を広げる。
王都から伸びる、極太の魔力のパイプライン。
それは地脈を通って、大陸の四方へと繋がっていた。
「……見つけた。供給源だ」
カノアは視線を巡らせた。
北の雪山。
南の火山。
西の渓谷。
そして東の密林。
「四つの『楔』がある。そこから魔力を吸い上げて、この結界を維持してるんだ」
「つまり……その楔を壊さない限り、この壁は消えないってことね」
ヒルダがため息交じりに言う。
「正面突破は不可能。……急がば回れ、か」
「ああ。面倒だけど、やるしかない。……ヴィオラの手足を一本ずつへし折って、引きずり出してやるさ」
カノアは、一番近くにある気配――北の方角を見据えた。
王都の背後にそびえる、万年雪に覆われた険しい山脈。
『白銀の峰』。
そこから、鋭利な刃物のような、冷たく悲しい魔力の気配が漂ってくる。
「……あそこだ。第一の楔」
「北……。寒そうですね」
ルミナが身震いをする。
カノアは、その冷気の中に、知った気配を感じ取っていた。
(……この感じ、ザインか?)
いや、ザインそのものではない。
だが、彼の魔力と酷似した、同質の波長。
「嫌な予感がするな。……あそこには、ただの番人以上の何かがいる」
カノアは剣の柄を握りしめた。
「行こう。……雪山登山なんて久しぶりだ」
カノアは踵を返した。
王都は目の前だが、まだ手は届かない。
最後の試練が、大陸の四方で彼らを待っている。




