75話 砕けた鏡に映るもの
塔の最上階は、泥濘の地獄と化していた。
影の魔女が変化した巨大な怪物が、黒い泥をまき散らしながら暴れまわっている。
それは不定形のヘドロのようであり、同時に、無数の「手」や「顔」が浮き沈みする呪いの集合体でもあった。
「あぁぁぁ……! 見ないで! 私を見ないでぇぇぇッ!」
怪物が叫ぶたびに、空間が歪む。
彼女は美しさを求めた末に、最も醜い姿へと成り果てていた。
自己矛盾と自己嫌悪。
その負のエネルギーが、カノアたちを飲み込もうと押し寄せる。
「ヒルダ! 左だ!」
カノアの指示が飛ぶ。
ヒルダが反応する。泥の触手が彼女を襲う。
以前の彼女なら、身体で受け止めて弾き返していただろう。
だが、今の彼女は「生身」だ。直撃すれば骨が砕ける。
(……受けちゃダメ。流すのよ!)
ヒルダは剣を斜めに構え、触手の軌道に合わせて体を滑らせた。
ガガッ!
剣の腹で衝撃を受け流し、回転して背後へ抜ける。
鎧の重量がない分、身体は羽毛のように軽い。
パワーはない。防御力もない。
けれど、この身軽さと、研ぎ澄まされた剣技がある。
「……見えるわ。貴女の動きが!」
ヒルダが踏み込む。
泥の波をかいくぐり、怪物の懐へ。
斬り上げる一閃が、怪物の胴体を両断する。
だが、手応えはない。
斬られた端から泥が癒着し、元通りになる。
物理攻撃が通じない。
この怪物の本体は、この泥ではないからだ。
「やっぱり、あそこか」
カノアは『心眼』で一点を見据えていた。
怪物の背後。
壁に埋め込まれた、巨大な姿見。
そこから、無限の魔力が供給されている。
あの鏡こそが、ヴィオラの「理想」を投影し、この怪物を現世に繋ぎ止めている楔だ。
「ルミナ! 準備はいいか?」
「うん!」
ルミナが前に出る。
彼女は共鳴石を両手で包み込み、怪物を――いいや、その奥にある鏡を真っ直ぐに見つめた。
怖い。
あの泥の中には、ヴィオラの、そしてルミナ自身の過去のトラウマが詰まっている。
けれど、目を逸らしてはいけない。
「……聴いて。私の声を」
ルミナが息を吸い込む。
歌うのは、攻撃の歌ではない。
飾らない、ありのままの自分を晒す、裸の歌。
――『聖詠・純白』。
透き通るような歌声が、塔の中に響き渡る。
それは、何の色もついていない、純粋な光の波。
嘘も、虚飾も、全てを洗い流す真実の波動。
「ギ、アァァァ……!?」
怪物が苦悶の声を上げる。
ルミナの歌声が触れるたびに、黒い泥がボロボロと剥がれ落ちていく。
隠していた醜さが暴かれるのではない。
「醜いと思い込んでいた心」が、解きほぐされていくのだ。
『綺麗にならなきゃ』
『愛されなきゃ』
そんな強迫観念が、歌声に溶けて消えていく。
「い、いやぁぁ! 消さないで! 私の『美』を奪わないでぇぇ!」
怪物が抵抗し、最後の悪あがきで泥の槍を放つ。
全方位からの飽和攻撃。
「させない!」
ヒルダが飛び出す。
彼女は剣を捨て、落ちていた瓦礫の鉄板を盾にした。
カン! ガンッ!
衝撃が走る。腕が痺れる。
生身の腕では支えきれないほどの重さ。
「ぐぅ……ッ! でも、これくらい……!」
ヒルダは膝をつかない。
かつては鋼鉄の鎧で守っていた。今は、この身一つで守る。
その痛みこそが、彼女が「人間」として戦っている証だ。
「カノア! 行って!」
ヒルダが叫ぶ。
道が開いた。
カノアが走る。
――『空間転移』。
ナイフを投げる。
怪物の頭上、そして鏡の目の前へ。
連続転移。
黒い泥の海を、黒い稲妻となって駆け抜ける。
「もうやめろ、ヴィオラ!」
カノアは鏡の前に出現した。
『心眼』には、鏡の表面に張り巡らされた複雑な術式が見えている。
「虚構」を「真実」と定義する、歪んだ魔法陣。
「アンタの鏡には、もう何も映らない!」
カノアが剣を振りかぶる。
ルミナの歌声が、剣に宿る。
純白の光を帯びた一撃。
パァァァァァンッ!!!
破砕音が轟いた。
巨大な姿見が、粉々に砕け散る。
鏡の破片がキラキラと舞い散る中、怪物の身体が崩壊していく。
黒い泥が光に変わり、蒸発していく。
そして。
光の中心に、一人の少女が残された。
ボロボロの服を着た、痩せっぽちの少女。
かつてのヴィオラだ。
彼女は床に座り込み、両手で顔を覆って泣いていた。
「……ううぅ……見ないで……」
彼女は、自分が醜いと思っている。
誰も愛してくれないと絶望している。
その姿は、あまりにも小さく、脆かった。
カノアは剣を納め、少女に近づいた。
ルミナも、歌うのを止めて歩み寄る。
「……ねえ」
ルミナが、少女の前にしゃがみ込んだ。
少女がビクリと震え、隙間からルミナを見る。
ルミナの顔には、まだ呪いの傷跡が残っている。
決して「完璧な美」ではない。
けれど、その表情は誰よりも穏やかで、美しかった。
「泣かないで。……貴女は、醜くなんてないよ」
ルミナは、少女の手を取った。
泥で汚れた、荒れた手。
それを、自分の両手で包み込む。
「頑張ったね。……一人で、ずっと寂しかったね」
肯定の言葉。
それは、少女が何よりも欲しかったもの。
ドレスでも、宝石でも、魔法でもなく。
ただ、「そのままでいい」と言ってくれる、誰かの声。
「……私、綺麗になりたかった……」
少女が、掠れた声で呟く。
「みんなみたいに……キラキラしたかった……」
「なれるよ」
カノアが言った。
彼は少女の頭にポンと手を置いた。
「アンタの魂は、今は泥だらけだけどさ。……磨けば光る色をしてる。俺の目には分かるんだ」
嘘じゃない。
『心眼』に映る少女の魂は、深い悲しみの色をしているが、その奥底には、花を愛でるような優しいピンク色が微かに残っていた。
それを、自分自身で塗りつぶしてしまっただけだ。
「……本当に?」
「ああ。俺の目は節穴じゃないからな」
カノアがニッと笑う。
少女の目から、大粒の涙が溢れた。
それは、悔し涙でも、悲しみの涙でもない。
長い長い夜が明けるような、浄化の涙。
「……ありがとう」
少女が微笑んだ。
その笑顔は、どんな魔法で作った美貌よりも、ずっとチャーミングだった。
光の粒子となって、少女の姿が消えていく。
成仏。
ヴィオラから切り離された「過去」が、救済されて還っていく。
それは同時に、本体であるヴィオラにとって、最大の「喪失」を意味していた。
彼女を突き動かしていた「コンプレックスという燃料」が、一つ消えたのだから。
◇
塔が揺れ始めた。
主を失った空間が、崩壊を始めている。
「脱出するぞ!」
カノアが叫ぶ。
三人は塔を駆け下り、外へと飛び出した。
外の世界は、朝を迎えていた。
白亜の街並みを覆っていた人工的な輝きは消え、代わりに自然な朝の光が降り注いでいる。
街の人々も、家から出てきていた。
彼らの顔には、もう「仮面」のような強張りはない。
影に怯えることもなく、互いの顔を見合わせ、生存を喜び合っている。
「……終わったね」
ルミナが大きく息を吸い込む。
空気も、以前より美味しく感じられた。
「ええ。……でも、これは始まりに過ぎないわ」
ヒルダが北の空を見上げる。
そこには、まだドス黒い雲が渦巻いている。
ヴィオラ本体がいる場所。
「過去を清算しても、現在の彼女が止まるわけじゃない。……むしろ、追い詰められてより凶暴になるかもしれない」
「上等だよ」
カノアは、空を見据えた。
その『心眼』は、雲の向こうにある城をはっきりと捉えていた。
「あいつの過去を知ったからこそ、俺はあいつを止める。……これ以上、自分自身を傷つけさせないために」
それは、復讐者としての言葉ではなかった。
迷える者を導く、救済者としての覚悟。
三人は歩き出す。
双子都市ジェイナスを背に、王都への最後の道のりを。
その足取りは、今までになく力強く、そして優しかった。




