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74話 歪んだ鏡


 長い橋を渡りきると、そこは別世界だった。

 双子都市ジェイナス、光の区画。


 白亜の建物が立ち並び、街路は磨き上げられた大理石で舗装されている。


 影の魔女が暴れていた向こう岸の混沌とは対照的に、ここでは不気味なほどの静けさと、人工的な美しさが支配していた。


「……眩しいな」


 カノアは『心眼エイドス』の感度を下げた。

 物理的な光ではない。街全体から発せられる魔力の光が、あまりにも強く、そして鋭利だったからだ。


 それは温かい太陽の光ではなく、すべてを暴き出し、焼き尽くすような冷たい輝き。


「見て、カノア。……誰もいないよ」


 ルミナが不安そうに呟く。

 あれほど賑わっていた市場も、ダンスホールも、今はもぬけの殻だ。


 だが、気配はある。

 建物の中、窓の向こうから、無数の視線がカノアたちを覗き込んでいる。


 ――汚い。

 ――醜い。

 ――ここに来るな。


 声なき拒絶。

 住人たちは皆、家の中に閉じこもり、鏡の前で震えているのだ。


 影の魔女に「美」を奪われることを恐れて。

 あるいは、自分たちの美しさが「偽物」だと暴かれることを恐れて。


「……歪んでいるわね」


 ヒルダが剣を握りしめる。

 彼女もまた、この街の空気に息苦しさを感じていた。

 完全無欠の美。

 それは裏を返せば、少しの傷も許されないという、強迫観念の牢獄だ。


「行くぞ。……あそこだ」


 カノアが指差したのは、街の中央にそびえ立つ、巨大な塔だった。

 白一色で統一されたその塔は、天を突く針のように鋭く、周囲の風景を拒絶するかのように孤立している。


 そして、塔の頂上からは、先ほど逃げた影の魔女の気配が濃厚に漂っていた。


 三人は塔へと向かった。

 入り口の扉は開け放たれていた。

 罠かもしれない。だが、招かれているなら応じるまでだ。


 塔の内部は、巨大な吹き抜けのホールになっていた。

 壁一面に、無数の鏡が飾られている。

 合わせ鏡になった空間は、無限の奥行きを作り出し、平衡感覚を狂わせる。


「……気持ち悪い」


 カノアが顔をしかめる。

 『心眼』に映る鏡の中の世界。

 そこには、現実とは違う景色が映っていた。


 ――舞踏会。

 ――美しいドレスを着た少女たちが、優雅に踊っている。

 ――その中心で、誰よりも美しく、誰よりも輝いている一人の女性。


 ヴィオラだ。

 だが、それは現在の彼女ではない。

 過去の記憶。

 醜かった少女が、禁忌の魔法で美しい肉体を手に入れ、初めて舞踏会に参加した時の記憶だ。


『見て! 私を見て!』


『綺麗でしょう? 完璧でしょう?』


 鏡の中のヴィオラは笑っている。

 だが、その笑顔はどこか引きつっていた。

 周囲の人々が褒め称えるたびに、彼女の魂の色が黒く澱んでいく。


『……違う。こんなの私じゃない』


『みんな、私を見ていない。この「ガワ」を見ているだけ』


 称賛されればされるほど、彼女の中の空虚感が膨れ上がっていく。

 偽りの美貌。


 それは彼女を守る鎧であると同時に、本当の自分を誰にも見せられなくする、孤独の檻でもあった。


「……可哀想な人」


 ルミナが、鏡の中のヴィオラを見つめて呟いた。

 彼女には聞こえているのだ。

 華やかな音楽の裏にある、少女の悲鳴が。


「愛されたかっただけなのに……。嘘をつき続けなきゃいけないなんて」


「それが、彼女の選んだ道よ」


 ヒルダが厳しく言う。


「嘘でもいいから愛されたいと願った。その代償を、彼女はずっと払い続けているの」


 カツン、カツン……。


 螺旋階段の上から、足音が響いてきた。

 カノアたちが顔を上げる。

 そこに立っていたのは、先ほど戦った影の魔女だった。


 だが、その姿は変わっていた。

 ボロボロの老婆ではない。

 鏡の中の記憶と同じ、煌びやかなドレスを纏った、若き日のヴィオラ(幻影)の姿をしていた。


「……よく来ましたね、泥棒猫たち」


 その声は美しく、鈴を転がすようだった。

 だが、瞳だけは変わらない。

 ギラギラとした飢餓感と、底知れないコンプレックスが渦巻いている。


「貴女たちには分からないでしょうね。……持たざる者が、何かを手に入れるためにどれほどの血を流したか」


 影の魔女が、優雅に扇子を開く。


「生まれつき美しい者は、傲慢だわ。……努力もせずに愛されることが、どれほど罪深いか!」


 魔女が扇子を振るうと、周囲の鏡が一斉に割れた。

 破片が宙に舞い、鋭利な刃となってカノアたちに降り注ぐ。


「ヒルダ!」


「ええ!」


 ヒルダが前に出る。

 彼女は剣を振るい、ガラスの雨を弾き飛ばす。

 だが、破片の数はあまりにも多い。

 数枚が頬を掠め、腕に突き刺さる。


「くっ……!」


 ヒルダが顔をしかめる。

 痛み。

 だが、彼女は退かない。

 その痛みこそが、自分が「作り物」ではなく「本物」である証だからだ。


「痛いでしょう? 醜いでしょう? 血を流して、泥にまみれて……それがお似合いよ!」


 影の魔女が高笑いする。

 彼女は手をかざし、さらなる魔法を発動させた。

 床が鏡のように波打ち、そこから無数の「手」が伸びてくる。


 美しい手。醜い手。老人の手。子供の手。

 ヴィオラが過去に奪い、そして捨ててきた無数の犠牲者たちの手だ。


「引きずり込んでやるわ! 私の孤独の底へ!」


 手がカノアたちの足を掴む。

 冷たい。

 物理的な冷たさではない。魂が凍りつくような、絶望の冷気。


「……離せッ!」


 カノアが剣で手を斬り裂く。

 だが、手は無限に湧き出してくる。


「カノア、キリがないよ!」


 ルミナが叫ぶ。

 彼女の足元にも、無数の手が絡みついている。


「……させるかよ」


 カノアは『心眼』を凝らした。

 この攻撃の核はどこだ?

 影の魔女本体か?


 いや、違う。


 彼女の背後にある、巨大な姿見。

 そこから、膨大な魔力が供給されている。

 あれが、この幻影空間を維持している「要石」だ。


「ヒルダ! あのでかい鏡を割ろう!」


「了解よ!」


 ヒルダが足元の手を強引に引きちぎり、跳躍する。

 だが、影の魔女が立ち塞がった。


「触らせないわ! あれは私の『理想』! 私の『真実』なのよ!」


 魔女の身体が膨張し、ドレスが裂ける。

 美しい少女の皮が破れ、中から溢れ出したのは、ドロドロとした黒い泥。

 それが巨大な怪物の形を成す。


「ギャアアアアッ!!」


 咆哮。

 美しさへの執着が極まり、ついに形を保てなくなったのだ。

 醜い。

 だが、その醜さこそが、彼女の本質だった。


「……行くぞ」


 カノアは剣を構えた。

 同情はする。

 だが、ここで終わらせなければ、彼女は永遠に救われない。


 偽りの鏡を割り、本当の自分と向き合わせる。

 それが、カノアたちにできる唯一の「手向け」だ。


「ルミナ、歌ってくれ! あいつの心を、鏡の中から引きずり出すんだ!」


「うん!」


 ルミナが共鳴石を握りしめる。

 響かせるのは、否定の言葉ではない。

 ありのままの姿を肯定する、真実の歌。


 白亜の塔で、過去と現在が激突する。


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