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73話 最初の嘘とガラスの靴


 影の魔女が振り下ろした鉤爪が、石畳をバターのように切り裂いた。

 カノアは切っ先でそれを受け流すが、重い衝撃に腕が痺れる。

 物理的な質量と、ドロドロとした呪いの粘着質が混ざり合った、不快な感触。


「……しつこいな」


 カノアはバックステップを踏んだ。

 斬っても斬っても、影は再生する。

 本体である魔女の姿は揺らめき、定まらない。


 『心眼エイドス』で核を探そうとするが、魔女の全身から溢れ出る「羨望」の感情がノイズとなって、正確な位置を特定させないのだ。


「私を見て……! 私を愛してよぉぉッ!」


 魔女が絶叫する。

 その声は衝撃波となり、路地裏の壁を崩落させる。


「くっ……!」


 ヒルダが瓦礫からルミナを庇う。

 生身の体だ。掠っただけでも骨が折れるかもしれない。


 ヒルダは剣を構えるが、踏み込みが浅い。

 恐怖ではない。

 自分の体が、イメージ通りに動かないことへの焦りだ。


「ヒルダ! 無理に攻めるな! 守りに徹してくれ!」


 カノアが叫び、魔女の側面へ回り込む。

 ――『空間転移バウンダリー・ステップ』。

 ナイフを投擲し、死角へ跳ぶ。

 影の腕を切り落とすが、断面から伸びた黒い触手がカノアを捕らえようと襲いかかる。


「ちっ!」


 カノアは空中で身を捻り、回避する。

 その瞬間。

 触手の先端がカノアの頬を掠めた。

 物理的な痛みと共に、冷たい泥のような記憶が、再びカノアの脳内に流れ込んできた。


          ◇


 ――記憶の断片。


 それは、嵐の夜だった。

 粗末な家の屋根裏部屋で、少女だったヴィオラは、鏡の前で泣いていた。

 床には、破り捨てられた招待状が散らばっている。

 領主の館で開かれる舞踏会の招待状だ。

 村の娘たちは全員招かれたのに、彼女だけが、その容姿を理由に門前払いを食らったのだ。


『どうして……。ドレスも縫ったのに。ダンスも練習したのに』


 ヴィオラは、継ぎ接ぎだらけの手製ドレスを抱きしめていた。

 どんなに努力しても、どんなに心を磨いても。

 「器」が汚れているというだけで、世界は彼女を拒絶する。


『欲しい……。綺麗になりたい……』


 彼女は鏡を睨みつけた。

 そこに映る、腫れぼったい目をした醜い自分を。

 殺してやりたいほど憎かった。


 この顔さえなければ。この肌さえなければ。

 中身の私は、もっと輝けるはずなのに。


 ――なら、変えてしまえばいい。


 ふと、声が聞こえた。

 耳元ではない。鏡の中から。


『誰……?』


 ヴィオラが顔を上げる。

 ひび割れた鏡の奥。

 そこに映っていたのは、自分ではなかった。

 顔のない、黒い影。


 ――お前は美しい。その魂の飢えは、何よりも美しい。

 ――だから、力を貸してやろう。世界を騙し、愛を勝ち取るための力を。


 影が、鏡の中から手を差し伸べてきた。

 その手には、ガラスの小瓶が握られている。

 中には、虹色に輝く液体が入っていた。


 ――これを飲めば、お前は生まれ変わる。

 ――ただし、代償が必要だ。お前のその「痛み」を、永遠に忘れぬことだ。


 悪魔の契約。

 だが、ヴィオラに迷いはなかった。

 彼女は震える手で、鏡の中へと手を伸ばした。

 冷たいガラスの感触を超えて、小瓶を掴む。


『……飲むわ。悪魔でも、怪物になってもいい』


 ヴィオラは、涙を流しながら笑った。


『愛されるなら……私は、魂だって売り渡してやる』


 彼女は液体をあおった。

 喉が焼ける。内臓が溶ける。

 激痛の中で、彼女の身体が作り変えられていく。

 骨が削げ、皮膚が剥がれ落ち、その下から、陶器のように滑らかな肌が現れる。


 それは、魔法というよりは呪いだった。

 「醜い自分」を殺し、「理想の他人」を上書きする、最初の『概念置換(パラダイム・シフト)』。


          ◇


「……ぐぅッ!」


 カノアは現実へと弾き出された。

 強烈な吐き気に襲われ、膝をつく。

 見てしまった。

 彼女が「魔女」になった瞬間を。


 誰かに強いられたわけじゃない。彼女自身の、あまりにも強烈なコンプレックスと渇望が、禁忌の扉を開けてしまったのだ。


「……カノア! 後ろ!」


 ルミナの悲鳴。

 振り返ると、影の魔女がカノアの背後に迫っていた。

 その顔は、記憶の中の少女と同じように、泣きながら笑っていた。


「見たでしょう……? 私の痛みを! 私の覚悟を!」


 魔女の爪が振り下ろされる。

 避けられない。


 ガギィィィンッ!


 金属音が響き、火花が散った。

 カノアと魔女の間に、ヒルダが割り込んでいた。

 剣で爪を受け止める。


 だが、衝撃を殺しきれず、ヒルダの膝が地面につく。

 ミシミシと、骨が軋む音がする。


「ぐぅ……ッ! カノア、立って!」


「ヒルダ!」


 カノアが体勢を立て直す。

 ヒルダの腕から血が流れている。

 無理をしたのだ。肉体の限界を超えて、カノアを守るために。


「……いい気味だわ! その綺麗な肌が傷つくのを見るのは、最高の気分よ!」


 影の魔女が嘲笑う。

 ヒルダは痛みに顔を歪めながらも、魔女を睨み返した。


「……可哀想な人ね」


「は?」


「貴女は、自分が傷つくのが怖くて、偽物の皮を被った。……でも、私は違う」


 ヒルダが剣を押し返す。


「傷つくことは、怖くない。……大切な人を守れずに、無傷で立っていることの方が、よっぽど怖いのよ!」


 ヒルダの魂が輝く。

 不完全な肉体を、意志の力で一瞬凌駕する。

 彼女は魔女の爪を弾き飛ばし、一閃を見舞った。

 だが、影は霧のように散り、またすぐに再生する。


「無駄よ! 私は影! 実体などないのよ!」


 魔女が高笑いする。

 物理攻撃が通じない。魔力で斬っても、すぐに修復される。

 このままでは、ジリ貧だ。


(……実体がない? 違うな)


 カノアは『心眼』を凝らした。

 記憶を見たことで、分かったことがある。

 この影の正体は、ヴィオラの「過去」だ。

 彼女が捨て去った、醜い自分の記憶。

 ならば、そのコアは――


「ルミナ! 歌ってくれ!」


 カノアが叫ぶ。


「こいつの正体は『否定された過去』だ! 攻撃するな! 肯定してやれ!」


「えっ……?」


「『綺麗だ』って言ってやればいいんだよ! こいつが一番欲しかった言葉を!」


 ルミナは一瞬戸惑ったが、すぐにカノアの意図を理解した。

 彼女は胸元の共鳴石を握りしめ、前に出た。

 襲い来る影の刃に、怯むことなく。


 ――『聖詠(アリア)夜想(ノクターン)』。


 優しく、包み込むような歌声が響く。

 それは、泣いている子供をあやすような、慈愛の旋律。


「……は……?」


 魔女の動きが止まる。

 振り上げた爪が、空中で震える。


「貴女は、醜くないよ」


 ルミナが歌に乗せて語りかける。


「頑張ったね。ドレスを縫って、ダンスを練習して……。そのひたむきな心は、どんな宝石よりも綺麗だよ」


 それは、幼いヴィオラが、誰よりも言われたかった言葉。

 誰からも言われなかった言葉。


「う、そ……嘘よ……! 私はブスで、汚くて……!」


 魔女が頭を抱えて錯乱する。

 影の輪郭が崩れ始める。

 否定され続けてきた自己像が、ルミナの肯定によって揺らいでいるのだ。


「今だ! ヒルダ!」


 カノアが合図する。

 ヒルダが踏み込む。

 今度は迷いがない。


 魔女の胸元――そこに微かに輝く「ひび割れた鏡」の破片(核)を狙って。


「眠りなさい。……悪い夢は、もう終わりよ」


 一閃。

 ヒルダの剣が、鏡の破片を貫いた。


 パリンッ……。


 乾いた音がして、影の魔女が爆散した。

 黒い霧が晴れ、夜空に吸い込まれていく。

 

「……やったか?」


 カノアが剣を下ろす。

 だが、手応えは「倒した」というものではなかった。


 影は消滅したのではない。

 霧散して、逃げたのだ。

 光の街――湖の向こう側にある、白亜の塔が立ち並ぶ区画へと。


「……逃げられたわね」


 ヒルダが息を整えながら言う。


「ああ。でも、核は傷つけた。……向こうもタダじゃ済まないはずだ」


 カノアは、光の街を見つめた。

 あそこには、ヴィオラの「現在」に近い何かが待っている気がする。

 過去の影を取り込んだ街。


「行こう。……追いかけっこは終わりだ」


 カノアたちは、湖にかかる長い橋へと足を向けた。

 ヴィオラの悲しい過去を知ってしまった今、戦う意味が少しだけ変わった気がした。


 ただの復讐ではない。

 彼女を縛り付ける「美の呪い」から、彼女自身を解放するための戦いへ。


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