72話 呪いという名の願い
路地裏の奥深く。
腐った木箱の陰に身を潜めながら、カノアたちは荒い息を整えていた。
遠くから、影の魔女の金切り声と、何かを破壊する音が響いてくる。
彼女はまだ、獲物を探して暴れているのだ。
「……大丈夫? ヒルダ」
ルミナが、座り込むヒルダの傷口に手をかざす。
『聖詠・翠』。
淡い緑色の光が、ヒルダの肩の裂傷を塞いでいく。
傷自体は浅い。だが、失われた体力と、精神的な摩耗までは癒やせない。
「……ありがとう、ルミナ。もう平気よ」
ヒルダは気丈に振る舞うが、その手は微かに震えていた。
自分の血を見るのは何年ぶりだろうか。
痛みがある。恐怖がある。
それは生きている証だが、戦場においては致命的な隙となる。
「……悔しいわね」
ヒルダは膝を抱え、唇を噛み締めた。
「鎧の時は、何も考えずに前に出られた。どんな攻撃も弾き返せた。……でも今は、一撃食らうだけで足がすくむ。私の身体なのに、私のものじゃないみたい」
最強の剣技を記憶している脳と、それに追いつけない華奢な肉体。
その乖離が、彼女の誇りを蝕んでいる。
「焦んなくていいって。ヒルダが俺たちの剣であることには変わりない。いざって時は頼りにしてる」
カノアが、見張りをしながら声をかけた。
その口調は柔らかいが、どこか遠くを見ているような響きがあった。
「それに……今のヒルダは、生まれたばかりの赤ん坊みたいなもんだ。……3年分のブランクと、新しい体。すぐに馴染むわけがない」
「……慰めになってないわよ、カノア」
「事実だよ。……でも、アンタの剣の冴え自体は錆びちゃいない。問題は出力調整だ。それさえ掴めば、前よりも強くなれるさ」
カノアはそう言いながら、自身の瞼……布で覆われたその奥を押さえた。
さっき見た光景。
ヴィオラの過去が、焼き付いて離れない。
「……ねえ、カノア」
ルミナが不安そうに尋ねる。
「さっき、何を見たの? 様子が変だったよ」
カノアはため息をつき、壁に背を預けた。
「……記憶だ。あの『影』が持っている、オリジナルの記憶」
カノアは語った。
貧しい村で、醜いと虐げられていた少女の話を。
花を愛する優しい心が、理不尽な暴力によって踏みにじられていく様を。
「……嘘みたいだろ? あの高慢な魔女が、昔はただの泣き虫な女の子だったなんてさ」
カノアの声には、同情とも嫌悪ともつかない、複雑な色が混じっていた。
「でも、俺には分かるんだ。……あれは、本物の記憶だ。俺の『目』がそう言ってる」
5年前、ヴィオラに奪われた『アレキサンドライトの瞳』。
それは今、ヴィオラの顔に埋め込まれている。
だが、瞳そのものはカノアのものだ。魂のパスは繋がっている。
だからこそ、ヴィオラが切り離した「過去」に接触した瞬間、共鳴が起きたのだ。
「皮肉な話だね。……あいつは世界一美しい瞳を手に入れたつもりだろうけど、その瞳は『真実を映す鏡』だったんだ」
カノアは気づいていた。
なぜ、ヴィオラがあれほどまでに美に執着し、狂っていったのか。
それは、奪った瞳のせいかもしれない。
アレキサンドライトの瞳で鏡を見るたびに、着飾った外見ではなく、その奥にある「醜い過去の自分」を見せつけられていたとしたら。
「……逃げられないんだよ、あいつは」
カノアは呟く。
「どれだけ他人の美しさで着飾っても、俺の目が『お前の中身は空っぽだ』って突きつけ続ける。……だから、あいつはもっと欲しがる。もっと完璧な、過去を塗りつぶせるほどの美を」
それは、終わりのない呪いだ。
ヴィオラ自身がかけた、願いという名の呪い。
「……可哀想な人」
ルミナがポツリと言った。
その言葉に、敵への憎しみはない。ただ純粋な悲しみが込められていた。
「愛されたかっただけなのにね。……誰かに、綺麗だねって言ってもらいたかっただけなのに」
ルミナは知っている。
誰にも見てもらえない孤独を。
だからこそ、道を間違えてしまったヴィオラの痛みが、誰よりも理解できてしまう。
「……同情はするなよ」
カノアが釘を刺す。
「あいつがやったことは消えない。俺たちの目を奪い、顔を奪い、ヒルダや……多くの人生を狂わせた。……その罪は、どんな過去があろうと償わせなきゃならない」
カノアは剣を握りしめた。
だが、その決意の中に、以前のような復讐心だけの「熱」はない。
あるのは、もっと静かで、冷徹な使命感。
――終わらせてやる。
その狂った連鎖を断ち切ることが、被害者である自分たちの、そして加害者であるヴィオラ自身の救いになるのだと、カノアは直感していた。
「……来るわ」
ヒルダが顔を上げた。
彼女の聴覚が、こちらに近づいてくる異質な足音を捉えた。
カノアの『心眼』も反応する。
路地裏の入り口。影が、黒い泥のように滲み出してくる。
「見つけた……。私の、光……」
影の魔女が、ゆらりと姿を現した。
その姿は、先ほどよりもさらに醜悪に歪んでいた。
カノアたちに拒絶された悲しみが、彼女をより凶暴な怪物へと変貌させている。
「どうして……? どうして私を見てくれないの……?」
魔女が手を伸ばす。
その手は巨大な鉤爪となり、周囲の壁を削りながら迫ってくる。
「……話は終わりだ」
カノアが立ち上がる。
ヒルダも、剣を構えて並ぶ。
ルミナが、深く息を吸い込む。
「行くぞ。……あの影を倒せば、また一つ、ヴィオラの真実に近づけるはずだ」
カノアが踏み込む。
もはや、ただの怪物退治ではない。
一人の少女が抱えた、巨大すぎる孤独との対話。
刃と歌と、そして痛みを持って、彼らは魔女の過去へと斬り込んでいく。




