70話 影の差す街
峡谷を抜け、カノアたちは街道を歩いていた。
目指す王都までは、あといくつかの街を越えなければならない。
ザインと別れてから数日。旅は順調に進んでいるように見えたが、一つだけ、深刻な問題が生じていた。
「はぁ……はぁ……ッ!」
ヒルダが剣を杖にして、肩で息をしている。
額には脂汗が浮かび、顔色は優れない。
足元には、数匹の魔獣の死骸が転がっている。どれも下級の雑魚だ。以前の彼女なら、指先一つで蹴散らせた相手。
だが今の彼女は、たったこれだけの戦闘で立っているのもやっとの状態だった。
「ヒルダ、大丈夫? 少し休もう」
ルミナが駆け寄り、背中をさする。
ヒルダは悔しそうに唇を噛み、震える手を見つめた。
「……情けないわね。こんな雑魚相手に、息が上がるなんて」
彼女は剣を鞘に納めようとしたが、切っ先が鯉口に当たり、カチャカチャと音を立てた。
指先の感覚が、自分のものじゃないみたいだ。
頭では「こう動けばいい」と分かっている。3年前に培った最強の剣技のイメージは鮮明にある。
だが、肉体がそれについてこない。
「3年間のブランクか……。それとも、鎧の感覚が抜けきらないのか」
カノアが水を差し出しながら分析する。
彼の『心眼』には、ヒルダの体内で起きている不協和音が視えていた。
魂が記憶している「鋼鉄の巨大な器」の感覚と、現在のアバターである「生身の女性の肉体」のスペックに、致命的なズレが生じているのだ。
「今までアンタは、物理無効の要塞だった。攻撃を受ける前提で動けたし、疲れも知らなかった。……でも今は、生身の人間だ」
切られれば血が出る。走れば疲れる。筋肉は断裂し、骨はきしむ。
その「脆弱さ」に、ヒルダの精神がまだ適応できていない。
最強のソフトウェアを、型落ちしたハードウェアで無理やり動かしているような状態だ。
「……慣れるまでは、大変かもね」
ヒルダが自嘲する。
王女の記憶を取り戻し、身体も戻った。
だが、その代償として「最強の盾」としての力は失われてしまった。
「そんなことないよ! ヒルダがいてくれるだけで、私たちは心強いもん!」
ルミナが必死に否定するが、現実は厳しい。
この先、ヴィオラの本拠地に近づけば近づくほど、敵は強力になる。
今のヒルダの状態では、前線に立つのは危険すぎる。
「……焦るなよ、ヒルダ」
「リハビリだと思えばいい。俺だって、目を失ってすぐは歩くことさえできなかった。……時間をかけて、今の自分に馴染んでいけばいいさ」
カノアの言葉に、ヒルダはハッとしたように顔を上げた。
そうだ。彼は5年前、光を奪われるという絶望的な喪失を経験し、そこから這い上がってきたのだ。
今の自分と同じ、あるいはそれ以上の「不自由」を乗り越えて。
「……そうね。ありがとう、カノア」
ヒルダは水を飲み干し、立ち上がった。
その瞳には、焦燥感と共に、新たな覚悟が宿っていた。
かつての最強には戻れないかもしれない。鎧の時のような無敵の盾にもなれない。
けれど、今の自分にできる「剣」の形を、必ず見つけてみせると。
◇
夕暮れ時、三人は大きな湖のほとりに辿り着いた。
その湖の中央には、巨大な橋で繋がれた二つの都市が浮かんでいた。
東側は、白亜の塔が立ち並ぶ煌びやかな街。
西側は、黒い煉瓦で造られた薄暗い街。
水面を鏡にして対照的な姿を見せるその場所は、双子都市『ジェイナス』と呼ばれていた。
「綺麗な街……半分だけだけど」
ルミナが東側の街を見て呟く。
夕日に照らされた白亜の街並みは、絵画のように美しい。
だが、カノアの『心眼』には、その街から漂う異質な魔力の流れが見えていた。
「……なんか、変だな」
カノアは眉をひそめた。
光の街からは、過剰なほどの「生気」が溢れている。
逆に、影の街からは、生気が吸い取られ、空っぽになったような「虚無」が漂っている。
まるで、片方がもう片方の命を啜っているかのような、歪なバランス。
「行ってみましょう。……あまりいい予感がしないわ」
ヒルダが警戒を促す。
橋の関所を通り、街の中に入ると、その違和感はさらに強まった。
光の街の住人たちは、異常なほど精力的だった。
夜だというのに市場は活気に溢れ、人々は笑い、歌い、踊っている。
その表情は恍惚としていて、どこか薬物中毒者のような危うさを孕んでいる。
だが、カノアが気になったのは、彼らの足元だった。
(……影が、濃い)
魔導灯の光が強いせいだけではない。
人々の足元に伸びる影が、まるで別の生き物のように、ネットリとした質感を持って蠢いているのだ。
光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。
この街は、その理を極端に体現しているようだった。
「宿を探そう。……大通りは避けた方がいい」
三人は路地裏の安宿に入った。
部屋に入り、荷物を降ろすと、どっと疲れが出た。
特にヒルダは、顔色が悪い。やはり、昼間の戦闘が響いているのだろう。
「ヒルダ、無理しないで。今日はもう休んで」
ルミナが甲斐甲斐しく世話を焼く。
ヒルダは申し訳なさそうに微笑み、ベッドに横になった。
夜が更ける。
カノアは窓辺に座り、外の様子を監視していた。
街の喧騒は止まない。
黒の城アルカナとは違う、もっと病的な興奮が街を覆っている。
その時。
カノアの意識が、ふっと遠のいた。
眠気ではない。強制的に、誰かの「夢」に引きずり込まれる感覚。
――私は醜い。
――誰も愛してくれない。
――欲しい。綺麗なものが欲しい。
真っ暗な闇の中で、誰かが泣いている。
その声は、どこか聞き覚えがあった。
ヴィオラ?
いや、あの高慢な魔女とは違う。もっと幼く、もっと切実で、哀れな響き。
「……誰だ?」
カノアが問いかけると、闇の奥から手が伸びてきた。
泥のように黒く、ドロドロに溶けた手。
それがカノアの「瞳」に触れようとする。
『頂戴。……その綺麗な色、全部頂戴』
「……はッ!」
カノアは弾かれたように目を覚ました。
心臓が早鐘を打っている。
今の感覚。ただの夢じゃない。
『心眼』が、強烈な悪意の波長を受信してしまったのだ。
「カノア! 外が!」
ルミナの叫び声。
カノアが窓の外を見ると、通りがパニックになっていた。
悲鳴が聞こえる。
光の街の住人たちが、逃げ惑っている。
彼らを追っているのは、地面から湧き出した「影」たちだった。
「なによあれ……!?」
飛び起きたヒルダが絶句する。
影は人の形をしており、のっぺらぼうの顔に、裂けたような口だけがついている。
影の一体が、逃げ遅れた女性に飛びかかった。
影が女性の身体に重なると、女性の姿が泥のように溶け、影と同化してしまったのだ。
そして、影は女性の姿を模倣し、ニタリと笑った。
「……入れ替わった?」
カノアは戦慄した。
あの影は、ただ襲っているのではない。
「光」側の人間を喰らい、その存在になり代わろうとしているのだ。
「カノア! あっち!」
ルミナが指差す先。
広場の中央に、ひときわ巨大な影が立っていた。
それは、ボロボロのドレスを着た、醜い老婆のような姿をしていた。
だが、その顔の輪郭だけは――ヴィオラに瓜二つだった。
「……見つけた。綺麗な色」
影の魔女が、宿の窓にいるカノアたちを見つけて笑った。
その笑顔には、ヴィオラ特有の気高さはなく、ただ飢えた獣のような欲望だけがあった。
夢の中で聞いた声の主だ。
「頂戴。……その輝き、全部頂戴」
影の魔女が手を振るうと、街中の影が一斉にカノアたちに向かって殺到した。
「来るぞ! ……ヒルダ、無理するなよ!」
カノアが剣を抜く。
双子都市ジェイナス。
光と影の均衡が崩れたこの街で、ヴィオラの「過去」と対峙する戦いが幕を開けた。




