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69話 剣と口づけ


 水面が揺れ、光の粒子が舞い上がる。

 泉の中心で、再生したばかりのヒルダが、ゆっくりと目を開けた。


 濡れた銀髪が肌に張り付き、月光を弾いて輝いている。

 その瞳は、黄金色の輝きを取り戻していたが、まだ焦点が定まらないように彷徨っていた。


「ヒルダさんッ!!」


 岸辺で見ていたルミナが、たまらず叫んだ。

 彼女は靴を履いたまま、冷たい泉の中へと飛び込んだ。

 バシャバシャと水しぶきを上げ、深みにはまるのも構わずに駆け寄っていく。


「ルミナ、危ないぞ!」


 カノアも慌てて後を追う。


 ルミナはヒルダの元へ辿り着くと、水面に浮かぶその身体にすがりつき、強く抱きしめた。


「よかった……! 本当に……!」


 その衝撃と温もりに、ヒルダの意識が覚醒する。

 彼女は驚いたように目を見開き、自分の胸に顔を埋めて泣いている少女を見た。


 柔らかい。温かい。そして、微かに震えている。

 そんな当たり前の情報が、皮膚という境界線を通じて、直接魂に流れ込んでくる。


(……あぁ。私、生きているのね)


 3年間、鉄の壁に隔てられていた世界が、今、奔流となって彼女を満たしていく。


 泉の水の冷たさ。

 自分を抱きしめるルミナの腕の強さ。

 そして、追いついてきたカノアが、背中を支えてくれた掌の熱さ。


「……温かい。すごく、温かいわ……」


 ヒルダは、震える手でルミナの背中に触れ、そっと抱きしめ返した。

 指先が髪に触れる感触。

 その全てが、愛おしくてたまらない。


「……心配かけたわね。二人とも」


 喉から出た声は、鉄の反響音ではなかった。

 柔らかく、艶のある、生身の声。


 カノアも、ヒルダの肩に額を押し当て、静かに安堵の息を漏らしていた。

 言葉はいらなかった。

 ただ、互いの体温を感じ合うだけで、失われていた時間が埋まっていく気がした。


 その光景を、少し離れた岩場からザインが見つめていた。

 彼は懐から、先ほど水底で拾った「氷色の結晶」を取り出し、指先で弄んでいた。

 彼もまた、目的を果たしたのだ。


「……茶番は済んだか」


 ザインの声に、カノアたちが顔を上げる。

 ザインは呆れたように肩をすくめ、視線を泉のほとりに向けた。

 そこには、彼が貸した黒いコートが畳まれて置いてあった。


「おい、騎士。……いつまで水浴びをしているつもりだ。さっさと上がって、それを着ろ」


「あ、ええ。そうね……」


 ヒルダは自分が全裸であることに気づき、顔を赤らめた。

 ルミナに手伝ってもらって泉から上がり、ザインのコートを羽織る。

 男性用の大きなコートは、今の彼女のしなやかな身体をすっぽりと包み込んだ。


          ◇


 夜が明け、峡谷に朝の光が満ちていた。

 泉のほとりで、カノアは地図を確認し、南の方角――ギア・ガルドへと続く道を指差した。


「……さて、と。ここからなら、街道まではすぐだ。……ガルフたちのところへ行け、ヒルダさん」


 カノアの声は穏やかだった。

 別れを告げる寂しさを、精一杯の笑顔で隠している。


「ミリア王女が、アンタを待ってる。……ミリア王女の心の結晶を取り戻して、ようやく騎士としての約束を果たせるんだ」


 カノアは、ヒルダの胸元にある結晶に視線をやった。

 王女の記憶。

 これさえあれば、あの子は目覚める。

 ヒルダにとって、これ以上のハッピーエンドはないはずだ。


「……そうだね」


 ルミナも俯き、涙をこらえるようにギュッとスカートを握りしめた。


「寂しいけど……それがいいと思う。ヒルダさんには、帰るべき場所があるんだから」


 二人の言葉に、ヒルダは静かに微笑んだ。

 黄金色の瞳が、優しく揺れる。

 彼女はゆっくりと首を横に振った。


「……私は、帰らないわ」


「え?」


 カノアとルミナが顔を上げる。


「私はもう、ミリア王女だけの騎士ではないもの。……今はただ、貴方たちと共に旅をする、一人の旅人よ」


 ヒルダは二人に歩み寄り、両手を広げた。

 そこには、母のような、姉のような、温かい愛情があった。


「それに……」


 ヒルダが、カノアとルミナを同時に抱きしめた。

 強く、優しく。

 生身の体温が、二人の身体を包み込む。


「私がいなきゃ、危なっかしくて二人だけにしておけないもの」


「ヒルダさん……」


 カノアが困ったように呟く。

 だが、ヒルダは悪戯っぽく笑って、人差し指をカノアの唇に当てた。


「ヒルダよ」


「え?」


「『さん』なんて、いらない。……私たちはもう、家族みたいなものでしょ?」


 カノアが目を見開く。

 家族。

 その言葉の響きに、胸が詰まる。


「……ヒルダ……」


 カノアが名前を呼ぶと、ヒルダは嬉しそうに目を細めた。

 そして。

 彼女はそっと顔を寄せ、カノアの頬に口づけを落とした。


「え!?」


 カノアが真っ赤になって硬直する。

 ヒルダはそのまま、今度はルミナの方を向き、彼女の頬にも優しく口づけた。


「ふえっ!?」


 ルミナが湯気を出しそうなほど顔を赤らめる。

 ヒルダは二人を離し、愛おしそうに見つめた。


「……やっと、触れられた」


 その声が震える。


「ずっと、こうしてあげたかった。……ここまで、よく頑張ったね」


 鎧越しでは伝えられなかった体温。

 言葉だけでは足りなかった想い。

 それが今、唇の熱を通して二人に伝わった。


「ヒル……ダ……」


 ルミナの目から涙が溢れる。


「……もう、貴方たちを守る『無敵の盾』にはなれないけど。……それでも、一緒にいてもいいかな?」


 生身の体は脆い。

 剣で斬られれば血が出るし、痛みも感じる。

 足手まといになるかもしれない。

 それでも、彼女は共にいることを選んだ。


「……ダメなわけないだろ」


 カノアは鼻をすすり、ニカっと笑った。


「心強いよ」


「うん! 私も……まだ一緒にいたい……!」


 三人は再び抱き合った。

 朝日が彼らを照らし、長い影を落とす。


「でも……ヒルダ、どうするんだ? 鎧は重すぎてもう使えないし、武器も……」


「あら、忘れたの?」


 ヒルダはフッと笑い、カノアの腰にある愛剣を見つめた。


「カノア。貴方の剣を、少し貸してくれないかしら」


「え? ああ、いいけど……」


 カノアが剣を渡す。

 ヒルダにとっては、片手剣などナイフのように軽いはずだ。

 だが、彼女はその剣を両手で恭しく受け取ると、切っ先を天に向けた。


 ヒュオッ。


 一振り。

 ただの素振り。

 だが、その鋭さはカノアの『心眼エイドス』すらも戦慄させるほどだった。

 空気が断裂し、風が遅れてついてくる。

 魔力強化などない。純粋な技量と、研ぎ澄まされた精神が生み出す、達人の剣閃。


「……私は、元・王国最強の騎士よ?」


 ヒルダが剣を構え、カノアたちに微笑む。

 その姿は、どんな鎧姿よりも勇ましく、美しかった。


「盾にはなれないけど……今度は、私が貴方たちの『剣』になる」


 新しい誓い。

 守るだけではない。共に切り拓く刃として。


 カノアは震えるほど感動していた。

 これが、本物の騎士だ。


「頼りにしてるよ」


 カノアが剣を受け取る。

 

 ヒルダは決意を固めると、そのまま一直線に歩き出した。

 向かう先は、岩場に佇むザインの元。


「……何だ?」


 ザインが呆れたように言う。

 だが、ヒルダは真っ直ぐに彼を見据え、懐から「ミリア王女の結晶」を取り出した。


「まず、ありがとう。私を助けてくれて」


「ふん。目的を達する為の交渉材料にしただけだ」


ザインがフイッと顔を逸らす。


「ザイン。……貴方に、お願いがあるの」


「……なんだ?」


 ザインが眉をひそめる。

 ヒルダは、自分の命よりも大切なはずのミリア王女の結晶を、ザインに差し出した。


「これを……貴方が届けてくれないかしら」


「……は?」


 ザインが目を見開く。

 後ろで見ていたカノアとルミナも、驚愕に声を失った。


「ヒルダさん、何を……!?」


「私の代わりに、貴方がギア・ガルドにいるガルフたちの元へ行って。そして、この結晶を王女様に返してあげてほしいの」


 ヒルダの言葉に、ザインは乾いた笑い声を上げた。


「正気か? 私は敵だぞ。……ヴィオラ様の配下に、主君の心臓を預けるというのか?」


「ええ。預けるわ」


 ヒルダの瞳に、迷いは一切なかった。


「貴方は敵かもしれない。でも……私は信じる」


 この数日間の旅。

 不器用な優しさ。魔獣から身を挺してルミナを守ってくれた背中。

 ヒルダは見ていた。

 この冷徹な男の奥底にある、誰よりも深い情愛を。


「それに、貴方なら分かるはずよ。……大切な人を取り戻すための鍵が、どれほど重いものかを」


 ザインは言葉を詰まらせた。

 彼は懐に入っている、自分の妹の結晶の重みを誰よりも知っている。

 それを、この女は自分に託そうとしているのだ。

 敵である自分に。


「……馬鹿な女だ」


 ザインは吐き捨てるように言ったが、その手は拒絶しなかった。

 結晶を受け取る。

 ずしりと重い、信頼の重さ。


「いいだろう。……ついでだ。私の目的地も、そっちの方角にある」


 ザインは結晶を懐にしまい、背を向けた。


「だが、後悔するなよ。……私がこれを握りつぶして、王女を永遠に葬り去るかもしれんぞ」


「貴方はそんなことしないわ」


 ヒルダが微笑む。


「だって、貴方は『お兄ちゃん』だもの」


 その言葉に、ザインの肩がピクリと跳ねた。

 彼は何も言い返さず、陸亀に飛び乗った。

 照れ隠しのように、フードを深く被る。


「……ではな」


 ザインが陸亀を発進させる。

 彼は一度も振り返らなかった。

 だが、その去り際は、どこか清々しかった。


 カノアたちは、ザインの姿が荒野の彼方に見えなくなるまで見送った。

 敵に預けた希望。

 だが、不思議と不安はなかった。

 あの男なら、必ず届けてくれるという確信があった。


「さあ、私たちも行きましょう」


 ヒルダが振り返る。

 その笑顔は、朝日の中で輝いていた。

 カノアとルミナは大きく頷き、三人並んで歩き出した。


 目指すは王都。

 全ての因縁を断ち切り、自分たちの色を取り戻すために。


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