68話 水底の呼び声
守護獣が霧散した後の洞窟は、深い静寂に包まれていた。
天井の裂け目から差し込む月光が、スポットライトのように泉の水面を照らしている。
カノアたちは、急いでヒルダを陸亀から降ろし、泉の浅瀬へと運んだ。
彼女の身体は火のように熱く、呼吸は浅く速い。
傷口を塞いでいたザインの氷結術が限界を迎え、包帯から再び鮮血が滲み出し始めていた。
「急ごう。……ヒルダさん、もう少しだからね」
ルミナが泣きそうな声で励ます。
カノアとザインが両脇を支え、慎重に冷たい水の中へと足を踏み入れる。
水深は腰のあたりまで。
水底には無数の「光る石」が沈殿しており、歩くたびに光の波紋が広がり、洞窟内を幻想的な色彩で満たしていく。
「……ここだ。魔力が一番濃い」
ザインが顎で示したのは、泉の中心部。
水底から湧き出る聖水が、青白く輝いている場所だった。
カノアたちは頷き合い、ヒルダの身体をゆっくりと水面に横たえた。
ザプン……。
水音が響く。
聖水がヒルダの体を包み込み、傷ついた腹部の風穴に流れ込んでいく。
「……ウ、ァ……」
ヒルダが苦しげに呻く。
傷口が淡く発光し、肉の再生が始まる――はずだった。
「……遅いな」
カノアが眉をひそめる。
傷の塞がり方が、あまりにも緩慢だった。
聖水の力で出血は止まったものの、失われた肉体が戻る気配がない。
ヴィオラによって捨てられた「概念の欠損」と、師匠グレンが命を懸けて刻んだ「呪い」が、再生を拒んでいるのだ。
「チッ……。呪いが深すぎるか」
ザインが舌打ちをする。
このままでは、ヒルダの魂が肉体を維持できずに霧散してしまう。
「どうすればいいの……? ヒルダさんを助けて……!」
ルミナが祈るように手を組む。
カノアも、ヒルダの手を強く握りしめた。
その手は、怖いくらいに冷たくなっていた。
「ヒルダさん、聞こえるか? 戻ってきてくれ! アンタはまだ、何も成し遂げてないだろ!」
カノアの叫びが、洞窟にこだまする。
その時。
ヒルダの唇が、微かに動いた。
「……ミ……リア……様……」
うわ言のような呟き。
生死の境を彷徨いながら、彼女の魂が求めているのは、自分の命ではなく、守るべき主君の名前だった。
3年前、守れなかった少女。
今も心を失ったまま、遠い街で眠り続けている大切な人。
ドクンッ。
その言葉が落ちた瞬間、カノアの『心眼』が、異質な反応を捉えた。
ヒルダの魂から放たれた「想い」の波長が、水底の奥深くへ向かって一直線に伸びていったのだ。
そして、それに呼応するように。
泉の底の泥に埋もれていた「何か」が、強烈な光を放ち始めた。
「……なんだ?」
カノアが水面を見つめる。
青、赤、緑……様々な色が混ざり合う水底の中で、一つだけ、純白に輝く光がある。
それは、ただの魔力ではない。
汚れを知らない、無垢で、どこまでも優しい輝き。
――ヒルダ。
声が聞こえた気がした。
カノアだけではない。ルミナも、ザインさえもが、その「気配」に顔を上げた。
「……誰かが、呼んでる?」
ルミナが呟く。
ヒルダの呼吸が、少しだけ荒くなった。
彼女の魂が、その光を求めて手を伸ばそうとしている。
「まさか……」
カノアの中に、一つの確信が走る。
ヴィオラは、奪ったものをここに捨てていると言った。
要らなくなった感情、記憶、そして心。
もし、3年前にヴィオラがミリア王女から奪った「心」も、ここに捨てられていたとしたら?
「行ってくる」
カノアは上着を脱ぎ捨てた。
「カノア?」
「あれが必要なんだ。……ヒルダさんを呼び戻すための、灯台が」
カノアは深く息を吸い込み、頭から水中に潜った。
冷たい水が全身を包む。
目を開けても何も見えない。だが、『心眼』があれば十分だ。
水底の光を目指して、カノアは潜行する。
深い。
水圧が鼓膜を圧迫する。
周囲には、ヴィオラが捨てた無数の「残滓」が沈んでいた。誰かの悲しみ、誰かの怒り、誰かの絶望。それらが泥のように堆積している。
その泥の海の中に、埋もれるようにして輝く純白の石。
(……見つけた)
カノアは手を伸ばした。
泥をかき分ける。
その石に触れた瞬間、カノアの脳内に温かな映像が流れ込んできた。
花冠を作る少女。
騎士に笑いかける少女。
痛いことも、怖いことも知らない、幸せな記憶の断片。
――大好きだよ、ヒルダ。
間違いない。
これは、ミリア王女の「心」の結晶だ。
カノアは結晶を掴み、力強く底を蹴った。
肺の空気が限界を訴える。
だが、手の中にある温もりが、彼を水面へと押し上げてくれるようだった。
ザパァッ!!
水しぶきを上げて、カノアが顔を出した。
荒い息をつきながら、彼は濡れた手で結晶を掲げた。
「……あった!」
カノアの手の中で、拳大の結晶が眩い光を放っている。
その光は、洞窟内の他のすべての輝きを凌駕し、ヒルダの顔を照らした。
「ヒルダさん、見てくれ! アンタがずっと探してたもんだ!」
カノアはヒルダの胸元に、結晶をそっと置いた。
瞬間。
結晶の光が、ヒルダの魂と共鳴した。
キィィィィン……。
澄んだ鈴の音のような共鳴音が響き渡る。
ヒルダの苦悶の表情が消え、代わりに安らかな色が広がる。
主君の心が、騎士の魂を呼び戻したのだ。
そして、その共鳴現象がトリガーとなり、停滞していた聖水の治癒力が爆発的に活性化し始めた。
「……すごい」
ルミナが目を見張る。
ヒルダの全身が銀色の光に包まれ、傷ついた肉体が、見る見るうちに再構築されていく。
失われた皮膚が、筋肉が、内臓が。
あるべき形へと、時間を巻き戻すように再生していく。
「……ふん。悪運の強い女だ」
少し離れた場所で、ザインが腕を組みながら呟いた。
だが、彼の手にもまた、一つの小さな石が握られていた。
カノアが潜っている間に、彼もまた自分の目的物を見つけたのだろう。
氷色をした、小さな音符のような形をした結晶。
彼はそれを大切そうに懐にしまうと、無言でカノアたちの方を見た。
光が収束していく。
水面が揺れる。
そこに浮かんでいるのは、傷一つない、完全な姿を取り戻した一人の女性だった。
濡れた銀髪が水面に広がり、長い睫毛が震える。
豊満で、しなやかな肢体は、月の女神のように神々しい。
「……ん……」
彼女が、ゆっくりと目を開けた。
そこにあるのは、かつての鋼鉄の無機質な光ではない。
涙で潤んだ、黄金色の瞳。
生身の、人間の瞳。
復活の時が、訪れようとしていた。




