62話 捨てられた器
狂気の人形師ロゼッタが倒れ、森の呪いが解けた。
カノアたちは、色鮮やかな緑を取り戻した森を抜け、北へと続く街道を歩いていた。
「……いい風ね」
ヒルダが兜を外し、風を感じていた。
彼女の鋼鉄の顔には表情がないが、その声色はどこまでも晴れやかだった。
ロゼッタとの戦いで、彼女は自分自身を取り戻した。
肉体がなくとも、心があれば人間だ。その誇りが、彼女の魂をより一層輝かせていた。
「ああ。湿っぽい空気ともおさらばだ」
カノアも背伸びをした。
ここから王都までは、山脈を越えてあと少し。
「ねえ、ヒルダさん。……王都に着いたら、一番に何がしたい?」
ルミナが尋ねる。
ヒルダは少し考えて、ふふっと笑った。
「そうね……。まずは、美味しい紅茶が飲みたいわ。鉄の体じゃ味わえないけれど、香りだけでも楽しみたくて」
「いいね。私も、ヒルダさんとお茶会したいな」
穏やかな時間。
だが、カノアの『心眼』だけは、遠くの空に渦巻く不穏な気配を感じ取っていた。
王都の方角から、ドス黒い瘴気のような魔力が噴き上がっている。
(……ヴィオラか。随分と荒れてるな)
焦っている。
何かに追いつめられ、苛立っている気配。
◇
同時刻。王都、魔女の城。
『鏡の間』は、破壊の嵐が吹き荒れた後のように荒れ果てていた。
「痛い……! 痛いッ!!」
玉座の上で、ヴィオラが悲鳴を上げていた。
彼女は腹部を押さえている。
そこには、グレンが命と引き換えに突き立てた剣の傷跡が、癒えることなく口を開けていた。
傷口から絶え間なく魔力が流出し、彼女の美貌と若さを削り取っていく。
「なぜ治らないの……!? あの男の呪いが、私の『永遠』を拒絶しているというの!?」
ヴィオラは自身の身体を見下ろした。
この肉体は、3年前にヒルダから奪ったものだ。
「……汚らわしい」
ヴィオラの目が、冷たく濁った。
彼女の美学において、瑕疵は許されない。
修復するのではない。汚れたものは、捨てる。
「いらないわ、こんな身体」
ヴィオラは侍女を呼んだ。
「おい! 地下の保管庫から『ストック』を持ってきなさい! 一番若くて、魔力適性の高い娘の肉体をだ! 今すぐ乗り換える!」
「は、はいっ! 直ちに!」
侍女が慌てて走り去る。
ヴィオラは指を鳴らした。
「『概念置換』……解除」
彼女の身体が光に包まれる。
3年間、彼女が纏っていた「ヒルダの肉体」という概念データが、剥がれ落ちていく。
それは所有権を放棄され、宙に浮き――そして、本来の持ち主の元へと還っていく。
「さようなら、鉄屑女。……その傷ごと、返してあげるわ」
ヴィオラは冷酷に笑った。
この傷は致命傷だ。
肉体が戻った瞬間、持ち主は死ぬだろう。
◇
街道を歩いていたヒルダが、不意に足を止めた。
「……え?」
カシャリ。
彼女が、自身の胸――鎧の胸板を押さえた。
違和感。
今まで空洞だったはずの鎧の中に、何かが「詰まっていく」感覚。
「ヒルダさん? どうしたの?」
ルミナが振り返る。
ヒルダは震える手で、ガントレットを外そうとした。
何かが内側から膨れ上がり、押し出そうとしている。
「熱い……。何かが、生まれてくる……?」
カノアの『心眼』が捉えたのは、信じられない光景だった。
ヒルダの鎧の内部。
そこにあるはずのない「魔力の奔流」が渦を巻き、物質を形成し始めている。
骨が組み上がり、血管が走り、筋肉が織り上げられていく。
無から有が生じるのではない。
『肉体がある』という概念が世界に再定義され、現実がそれに合わせて修正されているのだ。
「カノア、手伝って! 鎧を脱がせて!」
ヒルダが叫ぶ。
中身が実体化し始め、鎧が窮屈になっているのだ。
カノアとルミナは慌てて留め具を外し、重いプレートアーマーを引き剥がした。
ガシャン、ガシャン!
鉄の塊が地面に落ちる。
最後に胸甲を外した瞬間、まばゆい光が溢れた。
「あ……」
そこにいたのは、一人の女性だった。
透き通るような銀髪。白くなめらかな肌。
まだ完全ではない。足先や指先は光の粒子のままだが、胴体と頭部は完全に「人間」としてそこに在った。
「戻ってる……! 戻ってるよ、ヒルダさん!」
ルミナが歓喜の声を上げる。
奇跡だ。
奪われた肉体が、戻ってきたのだ。
「……私の、体……?」
全裸のまま、ヒルダは自分の手を見つめた。
温かい。血が通っている。
3年間忘れていた、生きている感覚。
「よかった……本当によかっ――」
ルミナが抱きつこうとした、その時だった。
急速に実体化していた肉体の、腹部のあたり。
最後の「修正」が行われた。
概念には、状態も記録されている。
つまり、ヴィオラが負ったダメージもまた、ヒルダの肉体の一部として再現される。
ドシュッ!
肉が弾ける音がした。
何もない空間から、見えない刃に貫かれたかのように、ヒルダの腹部に巨大な風穴が空いた。
「ガハッ……!?」
ヒルダが大量の血を吐き出す。
鮮血が、白い肌と地面を赤く染め上げる。
「ヒルダさんッ!!」
カノアが滑り込み、崩れ落ちるヒルダを抱き止める。
傷が深すぎる。内臓まで達している致命傷だ。
思考が巡る。これはなんだ? この突然現れた傷は。
「師匠のつけた……傷か……!?」
カノアは戦慄した。
黒の城で、グレンがヴィオラにつけた一撃。
ヴィオラは、傷ついたこの肉体を「いらない」と捨てたのだ。
瀕死の状態のまま、持ち主に押し付けたのだ。
「そんな……酷い……ッ!」
ルミナが泣き叫び、必死に傷口を抑える。
だが、当然傷は塞がらない。
これはただの傷ではない。グレンの「呪い」と、ヴィオラの「悪意」が混ざり合った、概念的な欠損だ。
「カノア……寒い……」
ヒルダの顔色が、急速に土気色になっていく。
せっかく取り戻した肉体が、指の間からこぼれ落ちていく。
死ぬ。このままでは死んでしまう。
「諦めるな! しっかりしろ!」
カノアが叫ぶが、出血は止まらない。
打つ手がない。
絶望が、三人を飲み込もうとしたその時。
「……どけ」
頭上から、冷たい声が降ってきた。
カノアが顔を上げる。
岩場の上に、一人の男が立っていた。
黒い狩猟服。腰にぶら下がっている長い鞭。
調教師ザイン。
「ザイン……! お前、まさかトドメを……!」
カノアが血まみれの手で剣に触れる。
だが、ザインは武器を構えてはいなかった。
彼は岩場から飛び降りると、無造作にヒルダの傷口に手をかざした。
「黙って見ていろ」
ザインの手から、青白い魔力が放たれる。
それは治療魔法ではなく、「時間を凍結させる」封印術式に近いものだった。
傷口が凍りつき、出血が止まる。
ヒルダの呼吸が、微かだが安定する。
「……応急処置だ。長くは持たん」
ザインは立ち上がり、カノアを見下ろした。
「ヴィオラ様が『衣替え』をなさったようだ。……廃棄されたゴミを拾う趣味はないが、ここで死なれては私の計画が狂う」
「……助けてくれるのか?」
「勘違いするな。取引だ」
ザインは北西の方角――険しい山脈の奥を指差した。
「この傷は、普通の魔法では治らん。……だが、あの『星降る泉の渓谷』にある聖水なら、概念ごと修復できる可能性がある」
「星降る泉……」
「案内してやる。その代わり……お前たちには、そこで私の『探し物』を手伝ってもらう」
ザインの瞳が、剣呑な光を帯びる。
それは敵としての目ではない。
何かを必死に追い求める、飢えた獣の目だった。
「選べ、カノア。ここでその女を看取るか、私と組んで地獄へ行くか」
カノアは、腕の中のヒルダを見た。
そして、涙を拭って頷くルミナを見た。
迷う余地などない。
「……決まってる。地獄だろうがなんだろうが、付き合ってやるよ」
カノアは立ち上がった。
最悪の形での再会。
だが、今はその手にすがるしかない。
瀕死の盾を救うため、ザインとの奇妙な四人旅が始まろうとしていた。




