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55話 枯れない薔薇の森

 

 カノアたちが降り立ったのは、王都のある大陸の裏側――『不帰かえらずの森』と呼ばれる禁足地の海岸だった。


「……すごい匂いだね」


 上陸して早々、ルミナが鼻をひくつかせ、顔をしかめた。

 本来ならするはずの潮の香りが、ここには全くない。


 代わりに漂ってくるのは、むせ返るほど濃厚な花の香りと、その奥に潜む甘ったるい薬品のような臭気。まるで、巨大なホルマリン漬けの瓶の中に放り込まれたかのような不快感だ。


 目の前に広がる森は、異様だった。

 空を覆い隠すほど鬱蒼と茂る木々の葉はすべて黒く、光を吸い込むような漆黒をしている。


 対照的に、地面を埋め尽くすように咲き乱れているのは、血のように赤い薔薇だった。


 黒と赤。

 毒々しいまでのコントラストが、視界を埋め尽くしている。


「枯れない薔薇の森……。噂には聞いていたけれど、これほどとはね」


 ヒルダが警戒するように、鋼鉄の拳を握りしめた。

 彼女の背中にはもう剣はない。


 アルカナでの戦いで失って以来、彼女はこの「物理無効」の鎧そのものを武器として戦うスタイルを選んでいる。


 武器を持たないその姿は、むしろ「何が来ても私が受け止める」という、守護者としての覚悟を際立たせていた。


「風が吹いているのに……見て」


 ルミナが指差す。

 海岸線から吹き付ける強風に、ルミナの髪やローブは激しく靡いている。


 だが、森の木々の葉も、足元の薔薇の花弁も、ピクリとも揺れていないのだ。

 まるで、時が止まった絵画の中に迷い込んだような、不気味な静寂。


「……気持ち悪い場所だな」


 カノアは『心眼エイドス』を凝らした。

 通常、森といえば無数の生命の輝き()で溢れているものだ。鳥のさえずり、虫の羽音、動物たちの鼓動。それらが複雑に絡み合い、森という一つの巨大な生命体を形作っている。


 だが、この森は違う。

 植物たちが放つ魔力は感じるが、動物的な「鼓動」や「体温」が一切感じられない。


 あるのは、人工的に整えられた、冷たく一定のリズムを刻む魔力の流れだけ。


「生き物の気配がない。……まるで、作り物の森だ」


 カノアが呟くと、ヒルダが頷いた。


「ええ。ヴィオラ好みの、死んだ美しさね」


 カノアたちは、薔薇の棘に足を取られないよう慎重に森の中を進んだ。


 道らしきものはある。

 誰かが手入れをしているかのように、下草がきれいに刈り取られた獣道が、森の闇の奥へと続いている。


 数十分ほど歩いただろうか。

 カノアの『心眼』が、前方の茂み――黒い葉の陰に、微かな反応を捉えた。


「……待った。誰かいる」


 カノアが制止する。

 ルミナとヒルダが即座に身構える。

 『心眼』に映るのは、小さな子供のシルエット。

 だが、その「色」は奇妙だった。


 人間の魂の色をしているのに、その輝きが一定すぎて、揺らぎがない。

 恐怖も、警戒も、好奇心もない。


 まるでロウソクの火ではなく、魔導ランプの光のように、ただ淡々と燃えているだけの魂。


「こんにちは」


 声をかけてきたのは、向こうからだった。

 茂みからカサリと音を立てて現れたのは、美しい少女だった。


 10歳くらいだろうか。フリルのついた可愛らしいドレスを着て、手には赤い薔薇の花籠を持っている。

 その肌は陶器のように白く滑らかで、頬はバラ色に染まっている。金色の巻き髪は、一本の乱れもなく整えられていた。


「迷子のお客様ですか?」


 少女は首を傾げた。

 その動き。

 カクッ、と首が一定の角度で止まる。


 人間特有の「遊び」がない。

 そして何より、カノアたちを見つめるその大きな瞳は、一度も瞬きをしていなかった。

 笑顔のまま固定された表情筋が、カノアの不安を煽る。


(……人間、か? いや、何だコリャ)


 カノアの背筋に悪寒が走る。

 見た目は人間だ。言葉も通じる。魔力もある。

 だが、その質感はあまりにも「精巧」すぎた。

不気味の谷(アンキャニー・バレー)』を覗き込んだような生理的嫌悪感。


「ええ、少し道に迷ってしまって。……貴女は、ここの住人?」


 ルミナが優しく問いかける。彼女も違和感を感じているはずだが、あえて普通の子供に対するように接した。

 少女は、にっこりと――本当に「にっこり」という効果音がつきそうなほど完璧な笑顔で頷いた。


「はい。私はマリー。この先にある『永遠の園(エデン)』に住んでいます」


「エデン……?」


「ヴィオラ様に愛された、選ばれし者たちの楽園です。……そこでは、誰も老いることなく、永遠に美しく暮らせるのです」


 ヴィオラの名が出た瞬間、ヒルダの雰囲気が鋭くなった。


 やはり、ここは魔女の支配下だ。

 だが、少女マリーはヒルダの殺気など意に介さない様子で続けた。


「案内しましょうか? ロゼッタ様も、新しいお客様を歓迎すると思います」


「ロゼッタ様?」


「私たちの『お父様』であり、この楽園の創造主です」


 マリーが背を向け、歩き出す。

 その歩き方は、関節が滑らかに動きすぎているというか、重力を感じさせない軽やかさがあった。


 カシャッ、カシャッ……。

 微かに、衣擦れとは違う、硬質な駆動音が聞こえる。


「……どうする、カノア?」


 ヒルダが小声で尋ねる。

 明らかに罠だ。あるいは、狂気の巣窟への入り口。


「行くしかない。……ヴィオラの尻尾を掴むチャンスだ」


 カノアは覚悟を決めた。

 それに、気になることがある。

 あの少女から感じる、魂の違和感。

 魂があるのに、生きていないような感覚。


 あれが「作られた魂」なのか、それとも「閉じ込められた魂」なのか。それを確かめなければならない。


 三人は少女の後を追った。

 黒い森を抜けると、不意に視界が開けた。

 そこに現れたのは、色とりどりの花に囲まれた、メルヘンチックな集落だった。


 レンガ造りの可愛い家々。噴水のある広場。

 楽しげに談笑する人々。庭の手入れをする老人。遊んでいる子供たち。

 誰もが美しく、若々しく、幸せそうだ。


 だが、カノアの『心眼』には、そこが地獄の底に見えていた。


「……なんだこれ」


 カノアは呻いた。

 彼らは全員、マリーと同じだった。

 完璧な笑顔。完璧な所作。


 そして――誰一人として、心臓の音が聞こえなかった。

 脈打つ血液の熱がない。

 そこにあるのは、精巧なギミックと、魔力回路の冷たい輝きだけ。


「ようこそ、永遠の園へ」


 マリーが振り返り、スカートの裾をつまんでカーテシーをした。


 その背中。

 ドレスの背中の部分が大きく開いており、そこから真鍮色の「ネジ巻き」が突き出しているのを、ルミナは見逃さなかった。


「……人形?」


 ルミナの呟きが、静寂の森に吸い込まれていく。

 マリーだけではない。広場にいる全員の背中や首筋に、球体関節やネジの跡が見える。


 ここは楽園ではない。

 永遠という名のもとに時間を止められ、肉体を捨てさせられた、生ける人形たちの展示室だったのだ。


 美しくもグロテスクな光景に、カノアたちは言葉を失った。

 そして、広場の奥にある巨大な館の扉が開き、一人の男が姿を現そうとしていた。

 この狂った箱庭の主、人形師ロゼッタが。

 

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