54話 海を渡る風
セイレーンの魔女が光となって消滅した後、幽霊船に劇的な変化が訪れた。
ボロボロだった帆が、魔力の風を受けて白く輝きを取り戻す。
フジツボや海藻に覆われていた船体が、まるで脱皮するかのように剥がれ落ち、下から美しい木目の甲板が現れる。
腐臭は消え、代わりに潮風と、ほのかな花の香りが漂い始めた。
「……すごい。船が、生き返ったみたい」
ルミナが甲板の手すりに触れる。
さっきまでは冷たく湿っていた手触りが、今は温もりを感じさせる木の感触に変わっている。
呪いが解けたのだ。
この船もまた、セイレーンと共に長い間、悪夢の中に囚われていた被害者だったのだろう。
「いい船だ。……これなら、どんな荒波も越えられる」
カノアがマストを見上げる。
『心眼』には、船全体を包む優しい魔力の残滓が見えていた。
それは、成仏したセイレーンが最期に残した、感謝と守護の祈り。
「行きましょう。風が出ているわ」
ヒルダが舵輪を握る。
彼女の指示に従い、カノアとルミナが帆を調整する。
船は滑るように動き出した。
霧が晴れた海原を、矢のように進んでいく。
◇
航海は順調だった。
セイレーンが遺してくれた海流は、まるで導きの糸のようにカノアたちを大陸へと誘っていた。
夜。
満天の星空の下、三人は甲板で車座になっていた。
波の音だけが響く静寂。
だが、そこにはもう、以前のような重苦しい孤独感はなかった。
「……ねえ、カノア」
ルミナが、膝を抱えながら夜空を見上げて言った。
「私、ずっと怖かったの。自分の過去を知られることが」
彼女は仮面を外していた。
カノアの前だけでなく、ヒルダの前でも。
爛れた素顔を夜風に晒し、それでも彼女の瞳は星よりも強く輝いている。
「中身なんてない、ただの人形だって思われるのが怖かった。……でも、違ったんだね」
「ああ。君は人形じゃない。……泣いて、怒って、足掻いて、誰よりも人間らしく生きてる」
カノアは焚き火の代わりに灯した魔導ランプの光を見つめながら答えた。
「俺もそうだ。見えすぎる目がコンプレックスで、ずっと殻に閉じこもってた。……でも、二人のおかげで、今は『見ること』が怖くない」
カノアは自分の目を覆う布に触れた。
物理的な光は失った。
だが、心の目は開かれた。
隣にいる仲間の温かさ。信頼の色。それが見えるだけで、世界はこんなにも鮮やかになる。
「私たちは、似た者同士ね」
ヒルダが穏やかに笑う。
彼女は兜を脱ぎ、膝の上に置いていた。
空っぽの首元。だが、そこから溢れる雰囲気は、慈愛に満ちた母のようだった。
「傷ついたからこそ、優しくなれる。失ったからこそ、大切にできる。……私たちの傷跡は、恥じるものじゃない。勲章よ」
ヒルダの手が、ルミナの手とカノアの手に重ねられる。
冷たい鉄の感触。
けれど、そこには確かな「魂の体温」があった。
「……うん。私、この傷も、過去も、全部背負って歌うよ。それが、今の私だから」
ルミナが微笑む。
その笑顔を見た瞬間、カノアの『心眼』が捉える彼女の魂の色が、また一つ深みを増した気がした。
虹色。
それは単なる綺麗な色ではない。
雨と光、喜びと悲しみが混ざり合って初めて生まれる、奇跡の架け橋。
◇
翌日の昼過ぎ。
水平線の彼方に、陸地の影が見えてきた。
大陸だ。
ついに、王都のある地へと戻ってきたのだ。
「見えてきた! ……でも、なんか様子がおかしいな」
船首に立ったカノアが眉をひそめる。
『心眼』で捉えた陸地の様子。
そこは、港町でも砂浜でもなかった。
鬱蒼とした、巨大な森が海岸線まで迫り出しているのだ。
それも、ただの森ではない。
木々の葉は黒く、咲き乱れる花々は血のように赤い。
そして何より不気味なのは、風が吹いているのに、木々が全く揺れていないことだ。
まるで、時が止まった絵画のような森。
「……嫌な予感がするわね」
ヒルダが船を寄せながら呟く。
森の奥から漂ってくるのは、甘ったるい腐臭と、人工的な魔力の気配。
ヴィオラの気配だ。
「ここも、あいつの支配下か」
カノアは愛剣の柄を握りしめた。
安息の旅は終わりだ。
ここからはまた、魔女との殺し合いが始まる。
「行こう。……どんな場所だろうと、俺たちが通る道だ」
船が岸に着く。
カノア、ルミナ、ヒルダ。
三人は大地を踏みしめた。
目の前に広がるのは、静寂と狂気が支配する『禁忌の森』。
そこには、永遠の美を求めた魔女の、最も残酷な実験場が隠されていた。




