53話 覚醒の聖詠 蒼《アズール》
幽霊船の淀んだ空気を、澄んだ歌声が震わせた。
――アァァァァァ……。
それは言葉のない旋律。
だが、どんな言葉よりも雄弁に、ルミナの魂の色を伝えていた。
彼女が両手で包み込んだ『共鳴石』から、深い海のような蒼い光が溢れ出す。
その光は、波紋となって広がり、船倉に充満していた死の冷気を優しく押し流していく。
「……何、この歌は……?」
セイレーンの魔女が、顔を歪めて後ずさる。
彼女が操る霧の触手が、ルミナの歌声に触れた瞬間、まるで浄化されるように白く透き通って消えていくのだ。
攻撃ではない。
拒絶でもない。
ただ、あるべき姿へと還す、静かなる「調律」。
「やめなさい……! 私の悲しみを、消さないで!」
セイレーンが絶叫する。
彼女の身体から、ドス黒い瘴気が噴き出した。
それは、彼女が何百年もの間、この海で積み重ねてきた怨念と絶望の結晶だ。
――私を見て。
――私を捨てないで。
――一人にしないで。
瘴気の中から、無数の亡者の声が聞こえる。
それは物理的な衝撃波となって、ルミナを押しつぶそうと迫る。
「ルミナ!」
カノアが剣を構え、前に出ようとする。
だが、ルミナは首を横に振った。
彼女は一歩も引かなかった。
仮面の奥の瞳は、セイレーンの恐ろしい形相ではなく、その奥にある「泣いている少女」の魂を見据えていた。
(……分かるよ)
ルミナは心の中で語りかける。
(貴女も、寂しかったんだね。誰にも声が届かなくて、暗い海の中でずっと……)
かつての自分と同じだ。
大聖堂で、誰にも心を見てもらえなかった孤独。
ゴミ捨て場で、世界中から拒絶された絶望。
その痛みを知っているからこそ、ルミナの歌には「共感」という最強の魔力が宿る。
ルミナは息を吸い込み、喉を開いた。
響かせるのは、否定の言葉ではない。
受容の和音。
――『聖詠【蒼】』。
歌声が、オクターブを超えて跳ね上がる。
その瞬間、船倉の天井が弾け飛んだかのような錯覚を覚えた。
ルミナを中心に、巨大な「海」が出現したのだ。
もちろん、本物の水ではない。
魔力で構成された、視界を青く染める光の海流。
それは優しく、温かく、セイレーンの放った黒い瘴気を包み込んでいく。
「あ……ぁ……」
セイレーンの目から、黒い涙が溢れる。
痛くない。
苦しくない。
今まで彼女を縛り付けていた「過去への執着」が、ルミナの歌に溶かされていく。
カノアは剣を下ろし、その光景を呆然と見つめていた。
『心眼』に映る世界は、もはや戦場ではなかった。
ルミナの魂の色が、世界そのものを塗り替えている。
傷つき、汚れ、それでも輝こうとする命の色が、死者の無念すらも救済していく。
(……すごい)
カノアは思った。
これは、俺にはできない。
俺の剣は、敵を断ち切ることしかできない。
だが、ルミナの歌は、敵の心すらも包み込み、癒やしてしまう。
それこそが、彼女だけが持つ「世界で一番綺麗な色」の力なのだと。
「……ううぅぅ……」
セイレーンが膝をつく。
彼女の身体を構成していた霧が晴れ、その下から本来の姿が現れる。
それは、恐ろしい魔女などではなかった。
ボロボロのドレスを着た、痩せこけた一人の女性。
首には、ヴィオラによって付けられたであろう、声帯を潰すための首輪が嵌められている。
「……私の声……返して……」
彼女もまた、奪われた者だったのだ。
美しい声をヴィオラに奪われ、代わりに「霧」という呪いを植え付けられ、この海に捨てられた被害者。
ルミナは歌うのを止め、ゆっくりと歩み寄った。
そして、セイレーンの前に跪き、そっと抱きしめた。
「……もう、大丈夫だよ」
ルミナが囁く。
「貴女の声は、海が覚えているわ。……だから、もう泣かないで」
ルミナの手が、セイレーンの首輪に触れる。
パキン、と乾いた音がして、呪いの首輪が砕け散った。
ルミナの「浄化」の魔力が、ヴィオラの呪縛を解いたのだ。
「あ……」
セイレーンの喉から、掠れた声が漏れる。
それは呪詛の言葉ではなかった。
「……ありがとう……」
一言、感謝の言葉。
その瞬間、セイレーンの身体が光の粒子となって崩れ始めた。
長い間、この海を彷徨っていた魂が、ようやく還るべき場所を見つけたのだ。
「綺麗な歌……。……貴女の未来に、光あれ……」
最期に微笑みを残し、セイレーンは消滅した。
後に残ったのは、静寂と、そして――。
ゴゴゴゴゴ……。
船が揺れた。
霧が晴れていく。
船倉の壁が透け、外の景色が見えてくる。
そこには、見渡す限りの青空と、穏やかに凪いだ海が広がっていた。
「……晴れたわ」
ヒルダが呟く。
彼らを閉じ込めていた『霧の監獄』が、ルミナの歌によって完全に消滅したのだ。
「やったね、ルミナ」
カノアが声をかけると、ルミナは力が抜けたようにへたり込んだ。
仮面の下から、荒い息が聞こえる。
全魔力を使い果たしたのだろう。
「……うん。届いた……かな?」
「ああ。バッチリ届いたよ。……君のおかげで、彼女も救われたさ」
カノアはルミナの手を取り、立たせた。
その手は熱かった。
生きている熱。
過去の幻影を乗り越え、誰かを救う力を手に入れた、確かな熱。
甲板に出ると、心地よい海風が吹き抜けた。
太陽が眩しい。
そして、船首の先――霧が晴れた海の彼方に、うっすらと陸地の影が見えた。
「あれは……」
「大陸だ。……あの先に王都がある」
カノアが指差す。
『心眼』には、その陸地から漂う強大な魔力の気配――ヴィオラの城の気配が、微かに、だが確実に感じ取れていた。
「ヴィオラは、何故こんなにも誰かを苦しめるんだろうな」
「……彼女も何かを抱えているのかな」
「だとしても、許されることではないわ」
幽霊船は、もはや死の船ではない。
彼らを未来へと運ぶ、希望の船として、静かに波を切り始めた。




