52話 三つの孤独、一つの色
「未来、ですか。……滑稽ですねぇ」
幽霊船の船倉に、セイレーンの冷たい嘲笑が反響する。
霧の下半身を揺らめかせながら、彼女は憐れむような目でカノアたちを見下ろした。
「強がっても無駄ですよ。……貴方たちは見たでしょう? 霧の中で」
セイレーンが細い指を向ける。
その指先から、ドス黒い靄が立ち上る。
「私の霧は、心を繋ぐ。……貴方たちは、互いの最も見たくない『過去』を、自分の記憶のように鮮明に体験したはずだわ」
その言葉に、カノアの背後にいたルミナが息を呑む。
そうだ。
幻影の中で見た光景は、自分のものだけではなかった。
霧が混線し、それぞれの記憶が流れ込んでいたのだ。
「……ねえ、カノア、ヒルダさん」
ルミナが、セイレーンから視線を外さずに、二人に話しかけた。
その声は震えていたが、そこには確かな温もりがあった。
「私ね、カノアとヒルダさんの過去に触れたんだ。……二人の孤独、ちゃんと知れた」
カノアが貧民街で誰にも理解されずに膝を抱えていた孤独。
ヒルダが王女を守れず、肉体を奪われ、鉄の檻の中で絶望していた冷たさ。
それらが、まるで自分の記憶のように胸に焼き付いている。
「あら、二人の過去を見たのって私だけじゃなかったのね?」
ヒルダが驚いたように目を丸くする。
彼女もまた、ルミナが大聖堂で「人形」として扱われていた悲しみや、カノアが師匠と出会う前の荒んだ日々を見ていたのだ。
「俺もだ。……全部、見えたよ」
カノアは頭をかきながら、バツが悪そうに言った。
自分の弱さを知られるのは怖かった。
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
二人の目を見ればわかる。そこには、憐れみや軽蔑の色など微塵もない。
あるのは、「同じ痛みを知る者」としての共感だけだ。
「それが私の狙いです」
三人の会話を聞いて、セイレーンが嗜虐的に笑う。
「一人の絶望などたかが知れている。だが、三人が互いの救いようのない欠落を知り、傷を共有すれば……その絶望は何倍にも膨れ上がる。……どう? 幻滅したでしょう? 隣にいる仲間が、そんなにも惨めで、壊れた人間だったなんて!」
セイレーンの言葉と共に、周囲の霧が凝縮し、無数の人型を形成した。
それは、ただの兵士ではない。
石を投げる者たち。嘲笑う貴族たち。冷たい目の信者たち。あらゆる過去の残滓。
「過去からは逃げられない。……互いの傷に怯えながら、ここで朽ち果てなさい!」
幻影の群れが襲いかかる。
石礫が、罵声が、悪意の視線が、物理的な痛みを伴って三人を打ち据える。
「くっ……!」
ヒルダが前に出て盾となり、石を受け止める。
『物理無効』の鎧でも、心の痛みまでは防げない。
投げつけられる石の一つ一つが、彼女の「守れなかった記憶」を刺激し、精神を削っていく。
「ヒルダさん!」
ルミナが叫ぶが、彼女の周りにも貴族たちの幻影がまとわりつく。
『歌え』『人形のくせに』という幻聴が、鼓膜を突き刺す。
カノアは剣を抜いた。
目の前にいるのは、かつて自分の瞳を虐げた路地裏の住人たちだ。
汚い言葉。侮蔑の視線。
かつての自分なら、ここで膝をついていただろう。
だが。
「……残念だけど、逆効果だったな」
カノアの声は、驚くほど落ち着いていた。
彼は飛んできた石を剣の腹で弾き飛ばし、一歩前に出た。
「は……?」
セイレーンが怪訝な顔をする。
カノアは愛剣を構え、目の前の幻影――過去の自分を虐げた大人たちを、鋭い一閃で斬り裂いた。
ザンッ!
幻影が霧となって消える。
カノアは、ニヤリと笑った。
「幻滅? 怯える? ……全然違う」
カノアは振り返り、ルミナとヒルダを見た。
二人もまた、同じ目をしていた。
恐怖の色はない。あるのは、深い理解と、強い信頼の色。
「俺たちは、完璧なヒーローごっこをしてたんじゃない。……傷だらけで、継ぎ接ぎだらけで、それでも必死に前に進もうとする不器用な連中なんだって、改めて分かっただけだ」
カノアの言葉に、ルミナが大きく頷く。
「うん。……私ね、嬉しかったの」
ルミナが、セイレーンに向かってはっきりと告げた。
「カノアも、ヒルダさんも、私と同じだったんだって。……一人ぼっちで、寂しくて、誰かに見つけてほしかった。その痛みを知れて、共有できて本当によかった」
ルミナの手が、カノアの背中に触れる。
その温もりが伝わってくる。
痛みを知っているからこそ、優しくなれる。
孤独を知っているからこそ、絆の強さが分かる。
「そうね。……貴女のおかげで、私たちは隠し事なしの『共犯者』になれたわ」
ヒルダが剛腕を振るい、襲い来る王女の幻影を粉砕する。
物理無効の鎧が、今は仲間の心を守るための鉄壁の壁となっていた。
「な……何よ、お前たち……!」
セイレーンが狼狽える。
計算外だ。
傷を見せ合えば、心は離れるはずだった。
醜い過去を知れば、軽蔑し合うはずだった。
なのに、なぜ彼らの魂は、以前よりも強く、鮮やかに輝いているのか。
「お互いの孤独を共有した今、俺たちに怖いものなんてない」
カノアが剣を構え直す。
『心眼』に映る世界が、鮮やかに色づいていく。
カノアの燃えるような「赤」。
ヒルダの揺るぎない「銀」。
そして、ルミナの澄み渡る空に輝く「虹」。
三つの色が混ざり合い、霧の白さを塗り替えていく。
「過去は変えられない。……だが、それを背負って進むことはできる!」
カノアが踏み込む。
迷いのない一撃。
トラウマの具現化である幻影たちが、光に焼かれて次々と霧散していく。
「おのれ……! 認めない……! ならば、その絆ごと海に沈めてやる!」
セイレーンが絶叫し、船全体を揺らす。
霧が巨大な触手となり、三人を押しつぶそうと全方位から迫る。
物理的な質量を持った、魔力の奔流。
「ルミナ! 今だ!」
カノアが叫ぶ。
ルミナが前に出た。
彼女はもう、過去の亡霊に震えてはいなかった。
胸元の『共鳴石』を両手で包み込む。
石が、深い海の色――『蒼』に輝き始める。
「……私の歌で、この霧を晴らす」
それは攻撃ではない。
この船に縛り付けられたセイレーンの悲しみごと、海へ還す鎮魂の歌。
仲間と共有した「痛み」を知る彼女だからこそ歌える、癒やしの旋律。
――『聖詠』。
ルミナの唇から、新しい色が紡がれる。
それは、閉ざされた霧の監獄を内側から解き放つ、覚醒の歌だった。




