51話 セイレーンの誘惑
霧の幻影は、甘く、冷たく、心を侵食していく。
ヒルダは、膝をついたまま動けずにいた。
目の前では、幼い頃のミリア王女が花冠を作って笑っている。
手を伸ばせば届きそうな距離。
だが、自分の手は冷たい鉄の塊だ。触れれば、その柔らかな肌を傷つけてしまうかもしれない。
『ヒルダは、もう人間じゃないのよ』
霧の中から、囁き声が聞こえる。
セイレーンの声だ。
『空っぽの鎧。温もりを知らない鉄屑。……寂しいでしょう? こっちへいらっしゃい。夢の中でなら、またあの子を抱きしめられるわよ』
誘惑。
過去というぬるま湯に浸かり、永遠に眠ってしまえば楽になれる。
ヒルダの意識が朦朧とする。
(……そうね。私は、何も守れなかった……)
諦めかけた、その時。
鉄の手に、温かい感触が蘇った気がした。
――私のせいで、ごめんなさい。
震えながら、けれど必死に自分を庇おうとしたルミナの手。
――最強の盾がいるって言っただろ?
背中を預けてくれた、カノアの信頼の重さ。
「……違う」
ヒルダは顔を上げた。
幻影のミリア王女が、悲しげに首を傾げる。だが、ヒルダはもう惑わされない。
「私は、空っぽじゃない。……この胸には、新しい誓いが詰まっている」
ガシャンッ!
ヒルダが立ち上がる。
鎧が音を立てる。それは喪失の音ではない。仲間を守るための、頼もしい鋼の音だ。
「過去の夢になんて逃げない。……私は、あの子たちが生きる『今』を守る盾になるのよ!」
ヒルダが拳を振り下ろす。
幻影の庭園が、鏡のように砕け散った。
◇
一方、ルミナはまだ、深い闇の中にいた。
これは過去だ。
私が忘れたくて、思い出さないようにしていた。
蓋をして、鍵を掛けていた記憶。
大聖堂の壇上。
着飾った人々が、私を見上げている。
『美しい』
『天使だ』
『女神のようだ』
口々に褒め称える言葉。
みんな、私がどんな宝石よりも美しいと言う。
けれど、私が見て欲しかったのは、そんな所じゃなかった。
綺麗なドレスでも、整った顔立ちでもなく。
ただ、「私」という存在を認めて欲しかった。
そこへ、あの女が現れた。
宝石のようなドレスを纏った魔女、ヴィオラ。
「あら? あなた……美しいわねぇ……」
彼女は私の頬に触れ、耳元で囁いた。
「でも、とっても悲しい心をしているわ」
ドキリとした。
初めて、私の「心」に言及してくれた人だった。
私の中を見てくれたと、錯覚した。
甘い嘘。
見てなどいなかった。
それらしいことを言って、私の孤独につけ込み、警戒心を解くための口車。
誰からもそんな声をかけられなかった私は、愚かにも信じてしまったのだ。
「ウアァァァァッ!!!!!」
世界が反転した。
顔が焼けるように熱い。
痛い、苦しい。
肉が剥がれ、骨が軋む音。
逃げたい。怖い。
でも……心のどこかで、思っていた。
これで解放される。
美しい顔がなくなれば、みんな、私の「中身」を見てくれるんじゃないか。
歌声だけは残ったのだから。
――でも、それも幻想だったとすぐ気付いた。
教会の扉が開く。
入ってきた神父様や信者たちが、私の顔を見て悲鳴を上げた。
『ひっ……! 化け物!』
『なんて穢らわしい!』
『出て行け! 悪魔め!』
彼らは、私の顔が無くなった途端、私をゴミのように捨てた。
私の歌は何も変わっていないのに。
これまでと同じように心を込めて歌っても、飛んでくるのは拍手や歓声ではなく、石と暴力に変わった。
蔑まれ、憎まれ、居場所はなかった。
誰も私を見てくれない。
誰も私の歌を聴いてくれない。
だから、隠れるようにゴミ山で暮らした。
汚い布を被って、息を潜めて。
それから……。
あれ、どうなったんだっけ?
私って……。
……ゴミ山でも見つかって……男たちに囲まれて……袋叩きにあって……。
――痛い。
――もう、死にたい。
心の中に、冷たい霧が入り込んでくる。
セイレーンの声がする。
『可哀想に。お前はずっと一人ぼっちだ』と。
その時。
『綺麗だ』
え?
暗闇の中に、声が響いた。
それは、幻聴でも、魔女の甘言でもない。
ぶっきらぼうで、皮肉屋で、だけど誰よりも温かい声。
『君は、世界で一番綺麗な色をしている』
その瞬間、私の世界が弾けた。
全ての暗闇が、閃光に照らされた。
白く、どこまでも真っ白な輝きに。
そうだ。
私はもう、一人じゃない。
私の顔が爛れていても、仮面をつけていても、関係なく。
その奥にある魂の色を見つけて、手を差し伸べてくれた人がいる。
私には……もういる。
心を……見てくれる人が。
「……私を惑わそうとしたって無駄だもん。私はもう惑わされないから」
ルミナは顔を上げた。
瞳に宿っていた怯えの色は消え、虹色の輝きが満ちている。
「私の過去は、悲しいだけじゃない。……カノアやヒルダさんやフィーネちゃん……みんなに出会うための、道だったんだから!」
ルミナの声が波紋となって広がる。
大聖堂の幻影にヒビが入り、ステンドグラスが砕け散る。
霧が晴れていく。
◇
現実世界。幽霊船の廊下。
カノアの目の前で、霧が晴れようとしていた。
「……戻ってきたな」
カノアは愛剣を下ろし、微笑んだ。
霧の中から、二つの影が現れる。
一人は、鋼鉄の騎士。
もう一人は、虹色の光を纏った歌姫。
「カノア!」
ルミナが駆け寄ってくる。
彼女はもう泣いていなかった。
仮面の奥の瞳は、過去の傷を乗り越え、より強く、美しく澄み渡っていた。
「お帰り。……長旅だったな」
「ううん。……ちょっと、寄り道してただけ」
ルミナはカノアの手を握った。
その温もりが、今ここにある「現実」を教えてくれる。
「よくぞ幻影を打ち破りましたね」
船の奥から、嘲笑うような声が響いた。
空間が歪み、霧が集束する。
現れたのは、上半身が美女、下半身が霧でできた巨大な亡霊――『セイレーンの魔女』。
「ですが、所詮は傷の舐め合い。……お前たちの魂の味、もっと詳しく教えてもらいましょうか」
セイレーンが霧の触手を伸ばす。
だが、カノアたちは動じなかった。
三人は並んで立つ。
それぞれの孤独を知り、受け入れた彼らの魂は、以前よりも強く共鳴し合っていた。
「悪いけど、昔話はもうお腹いっぱいなんだ」
カノアが剣を構える。
「ここからは、俺たちの未来の話をしないか?」




