50話 過去の回廊
ギシッ、ギシッ……。
腐った板の上を歩くたびに、船全体が苦しげに軋む。
カノアたちは幽霊船の甲板に降り立った。
周囲は濃密な霧に包まれ、マストの先端すら霞んで見えない。
湿った空気には、古い木材の匂いと、どこか甘ったるい香の匂いが混じっていた。
「……誰もいないわね」
ヒルダが低い声で呟く。
彼女はルミナを守るように周囲を警戒している。
無人の船。
だが、カノアの『心眼』には、無数の「気配」が映っていた。
それは生きた人間の色ではない。
壁に染み付いた記憶、床にこびりついた後悔、空間に漂う残留思念。
それらが蛍火のように明滅し、船全体が巨大な一つの生き物のように脈打っている。
「気をつけろ。……ここ、時間が狂ってる」
カノアが警告する。
空間の歪みを感じる。
一歩踏み出すたびに、現在という時間が削り取られ、過去へと引きずり込まれるような感覚。
「船内を調べるしかないか。……この霧の正体も、多分中にある」
三人は甲板を横切り、船室へと続く扉を開けた。
暗闇が口を開ける。
その奥から、冷たい風が吹き抜けた。
◇
船内は、外見からは想像もつかないほど広かった。
長い廊下がどこまでも続き、左右には無数の客室が並んでいる。
まるで迷宮だ。
「……カノア、ヒルダさん。はぐれないように」
ルミナが二人の手を掴もうと手を伸ばす。
だが。
スカッ。
彼女の手は、空を切った。
隣にいたはずのカノアとヒルダの姿が、霧のように揺らめいて消えたのだ。
「え……?」
ルミナが立ち尽くす。
一人ぼっち。
廊下の静寂が、急に重くのしかかる。
「カノア……? ヒルダさん……?」
呼んでも返事はない。
代わりに、廊下の奥から「音」が聞こえてきた。
パイプオルガンの荘厳な響き。そして、大勢の人々の拍手喝采。
『さあ、歌ってごらん。私たちの可愛い小鳥』
大人の声。
優しげで、だけど冷たい響き。
ルミナの背筋が凍りつく。
知っている。この声も、この空気も。
「いや……」
ルミナは後ずさった。
気がつけば、彼女は船の中にいなかった。
高い天井。ステンドグラスから差し込む極彩色の光。
そこは、彼女がかつて暮らしていた王都の大聖堂だった。
壇上に、幼い頃のルミナが立っている。
美しいドレスを着せられ、誰もが見惚れるような美しい顔立ちの彼女は、無表情のまま歌っている。
観客席には、着飾った貴族たちが並び、うっとりとした顔で彼女を見つめている。
『なんて美貌、それに美しい声だ』
『まるで天使だ』
『この子は教会の宝だ。傷一つ付けるなよ』
称賛の言葉。
だが、誰もルミナの目を見ていない。
彼らが見ているのは「美しい顔」と「美しい声」という機能だけ。
中身なんてどうでもいい。
人形のように綺麗で、都合の良い歌を歌ってくれればそれでいい。
(やめて……見ないで……)
現在のルミナが耳を塞ぐ。
孤独。
何千人に囲まれていても、誰とも繋がっていない絶対的な孤独。
それが、彼女の心を蝕んでいた過去の正体。
◇
一方、カノアもまた、一人で闇の中に立っていた。
船の廊下ではない。
鼻をつく汚水の臭い。腐った食べ物の臭い。
そこは、貧民街の路地裏だった。
「……趣味が悪いな」
カノアは吐き捨てるように呟く。
『心眼』で見なくても分かる。
これは幻覚だ。この船の霧が見せている、記憶の再生。
目の前を、ボロボロの服を着た少年が歩いている。
幼い頃のカノアだ。
彼は下を向いて歩いている。誰とも目を合わせないように。
『おい、見ろよあのガキ』
『気味の悪い目だ』
『宝石みたいなのに、中身は空っぽみたいな目をしてやがる』
大人たちの囁き声。
石が飛んでくる。少年は黙ってそれに当たる。
避けられないわけじゃない。
避ければ、「化け物」だと騒がれるからだ。
視力が良すぎるがゆえの苦悩。
人の嘘も、悪意も、全てが見えてしまう。
世界は情報で溢れているのに、彼を理解してくれる人は一人もいない。
(……ああ。俺は、ずっと一人がよかったんだ)
現在のカノアは、冷めた目で過去の自分を見ていた。
誰も信じない。誰も頼らない。
そうやって心を閉ざしていれば、傷つくこともないと思っていた。
師匠に出会うまでは。
◇
そして、ヒルダ。
彼女の目の前には、美しい花畑が広がっていた。
王城の庭園。
そこで、一人の少女が花冠を作っていた。
幼き日のミリア王女だ。
『ヒルダ! 見て、上手にできたの!』
笑顔で駆け寄ってくる王女。
それを受け止めるのは、銀の鎧ではなく、生身の腕を持つ女性騎士――かつてのヒルダ自身。
『素敵ですね、ミリア様』
『えへへ。これ、ヒルダにあげる!』
花冠を頭に乗せられ、ヒルダは照れくさそうに笑う。
温かい。
王女の手の温もり。花の香り。風の感触。
すべてが鮮やかで、愛おしい。
だが、その光景は唐突に反転する。
ドロリと空が溶け、ヴィオラの笑い声が響く。
『あら、お似合いよ。……その身体、私が有効活用してあげる』
肉体が奪われる感覚。
温もりが消え、冷たい鉄の檻に閉じ込められる絶望。
叫ぼうとしても声が出ない。
動こうとしても指一本動かせない。
「……やめて」
現在のヒルダ――鋼鉄の巨人が、膝をつく。
鎧がガシャリと音を立てる。
その音は、彼女にとって「喪失」の音だった。
もう二度と、花に触れることも、誰かの肌の温かさを感じることもできない。
私はただの、中身のないガラクタなのだと突きつけられる。
◇
三者三様の過去。
それぞれの孤独。
霧は彼らの心の隙間に入り込み、幻影となって囁きかける。
『ほら、お前たちは一人ぼっちだ』
『誰も分かってくれない。誰も助けてくれない』
『傷を舐め合っているだけでしょう?』
甘く、残酷な声。
それは船の主――『セイレーンの魔女』の誘惑。
心を折れば、魂を喰らえる。
この船は、絶望した者たちの魂を燃料にして進む、地獄行きの船なのだから。
「……うるさいな」
幻影の路地裏で、カノアが顔を上げた。
目隠しの奥の瞳が、鋭く光る。
「過去なんか見せて、何が楽しいんだ?」
カノアは愛剣を抜いた。
幻影の少年――過去の自分に向かって、剣を振り下ろす。
ザンッ!
少年が霧となって消える。
同時に、路地裏の風景に亀裂が入った。
「俺はもう、一人じゃない。……あいつらがいる」
カノアの脳裏に、ルミナの笑顔と、ヒルダの頼もしい背中が浮かぶ。
そして、命を賭して道を示してくれた師匠の姿も。
「悪いけど、思い出に浸ってる暇はないんだよ。……さっさと出てこい、元凶!」
カノアの一喝と共に、幻影の世界がガラスのように砕け散り始めた。
だが、ルミナとヒルダはまだ、霧の檻の中に囚われている。
彼女たちを呼び戻せるのは、互いの「声」だけだ。




