49話 霧の監獄
波の音が、世界を支配していた。
ザザァ……ザザァ……。
永遠に続くかのような、単調で、重苦しいリズム。
カノアたちがグレンの転移魔法によって飛ばされた先は、絶海に浮かぶ小さな岩礁だった。
そこは、島と呼ぶにはあまりに小さく、ただ海面から突き出した岩の塊といった風情だった。
木一本生えていない。身を隠す洞窟もない。
あるのは、ゴツゴツとした冷たい岩肌と、容赦なく吹き付ける湿った潮風だけ。
「……はぁ」
ヒルダが岩の上に重く腰を下ろし、深いため息をついた。
彼女の全身を覆うフルプレートアーマーは海水で濡れそぼり、関節の隙間には塩の結晶が白く浮いている。
物理無効の加護を持つ彼女でも、自然の猛威――特に「錆」や「腐食」という概念までは完全には防げないのだろうか。その巨大な背中は、いつになく小さく見えた。
「ヒルダさん、大丈夫?」
ルミナが心配そうに声をかける。
彼女自身も、顔色は決して良くない。
白い陶器の仮面の下では、アルカナでの激戦による疲労と、ここに来てからの過酷な環境で体力を消耗しきっているはずだ。
「ええ、平気よ。ただ……この湿気は、鉄の身体には少し堪えるわね」
ヒルダは気丈に笑ってみせたが、その声には明らかな疲れが滲んでいた。
無理もない。
ここに来てから、すでに半日が経過している。
太陽の位置すら分からない。空は分厚い乳白色の霧に覆われ、昼なのか夜なのかも判然としない「灰色の時間」が続いていた。
「カノア……お腹、すいたね」
ルミナが力なく呟き、カノアの袖を引いた。
カノアは何も言えず、ただ彼女の頭をポンポンと撫でることしかできなかった。
食料も、水もない。
周囲を見渡しても、魚影ひとつ見当たらない死の海だ。
このままここに留まれば、ヴィオラと戦う前に、飢えと渇きで干からびて死ぬ。それだけは確実だった。
「……動こう」
カノアは立ち上がった。
身体中の古傷が悲鳴を上げるが、無視して『心眼』を凝らす。
だが、見えるのは絶望的な光景だけだ。
数メートル先すら見通せない濃霧。その霧には微弱な魔力が含まれており、カノアの索敵能力を乱反射させている。
方向感覚が狂う。
どこが北で、どこが南か。王都の方角など、知る由もない。
「動くって言っても、どうやって?」
ヒルダが海を見つめる。
鉛色の海面は凪いでいるが、底知れない深さを感じさせる。
「私は泳げないわよ。この鎧の重さじゃ、海に入った瞬間に海底まで一直線だわ」
「分かってるよ。……だから、あれを使う」
カノアが指差したのは、岩礁の入り組んだ隙間に引っかかっていた、巨大な流木だった。
どこかの船のマストだったのだろうか。太く、長く、そして塩水に浸かって腐りかけてはいるが、浮力はありそうだ。
「即席の筏だ。……ヒルダさんと俺で、なんとか海に浮かべよう」
「……本気? あんな頼りない木切れで、この大海原に出るの?」
「ここにいたってミイラになるだけだろ? どの方角でもいい。とにかくこの霧を抜ければ、陸地か、あるいは他の船が見つかるかもしれない」
それは、希望的観測ですらない。
ただの悪あがきだ。
だが、座して死を待つよりはマシだという思いが、三人を突き動かした。
作業は困難を極めた。
重い流木を岩場から引き剥がし、蔦の代わりにヒルダの鎧の装飾紐や、カノアたちの旅装束を裂いて縛り付ける。
ルミナも、小さな手で一生懸命に結び目を固めた。
数時間後。
不格好だが、なんとか三人乗れそうな筏が完成した。
「……よし。行くぞ」
カノアたちは筏を海に押し出し、乗り込んだ。
ギシッ、と木が軋む音が不安を煽る。
ヒルダが重心を取るように中央に座り、手頃な板切れをオール代わりにして漕ぎ出した。
◇
海の上は、岩礁以上に不気味な場所だった。
波はない。風もない。
ただ、乳白色の霧が、生き物のように海面を這いずり回っているだけだ。
オールが水をかく音だけが、静寂の中で異様に大きく響く。
「……ねえ、カノア」
ルミナが、カノアの背中にしがみつきながら囁いた。
「なんか、怖い。……海の中、誰もいないみたい」
カノアも同じことを感じていた。
『心眼』で海中を探るが、魚一匹、海藻一つ見当たらない。
生命反応が皆無なのだ。
まるで、この海域そのものが死んでいるかのように。
「……大丈夫だ。俺がついてる」
カノアは気丈に答えたが、冷や汗が止まらなかった。
進んでも進んでも、景色が変わらない。
白い霧。灰色の海。
時間の感覚すら麻痺してくる。
一時間漕いだのか、それとも一日経ったのか。
「……変だ」
カノアが呟いた。
違和感が確信に変わる。
「どうしたの?」
「いや……さっきから真っ直ぐ進んでるはずなのに、魔力の流れがループしてる気がするんだ」
カノアの『心眼』には、自分たちが進んできた軌跡が、巨大な円を描いているように見えた。
決して外へは出られない、閉じた円環。
「まさか……」
ヒルダの手が止まる。
霧が少し晴れた。
その向こうに見えたのは、見覚えのあるゴツゴツとした岩肌。
「……嘘でしょ?」
ルミナが絶句する。
そこは、数時間前に命からがら脱出したはずの、あの岩礁だった。
「戻ってきてる……」
ヒルダがオールを握りしめ、悔しそうに唸る。
迷ったのではない。
海流も、風も、そして空間そのものが、この岩礁を中心にねじ曲げられているのだ。
まるで、ここから逃がさないという強い意志が働いているかのように。
「まるで『霧の監獄』だな……」
ここはただの海域じゃない。
強力な結界に守られた、天然の牢獄だ。
物理的な移動手段では、一生ここから出ることはできない。
「どうするの? カノア」
ルミナの声が震える。
絶望が、霧のように心に染み込んでくる。
水も食料もないこの場所で、永遠に彷徨い続ける未来。
じわじわと真綿で首を絞められるような閉塞感が、三人の精神を蝕み始める。
その時だった。
ゴォォォォ……ン……。
霧の奥から、重苦しい音が響いてきた。
鐘の音だ。
教会の鐘のような清らかさは微塵もない。
古びて、錆びついて、水底から亡者が呻いているかのような、低く濁った音色。
「……何?」
カノアが顔を上げる。
『心眼』が、霧の向こうから接近してくる巨大な質量を捉えた。
島ではない。生き物でもない。
それは、朽ち果てた木材と鉄の塊。
ズズズズ……。
霧をかき分けて姿を現したのは、山のように巨大な帆船だった。
かつては豪華なガレオン船だったのかもしれない。
だが今は、帆はボロボロに破れ、船体はフジツボと海藻にびっしりと覆われ、原形を留めていない。
マストの上には、何色ともつかないボロ布の旗が、風もないのに不気味にはためいていた。
「幽霊船……?」
ヒルダが警戒して身構え、ルミナを庇う。
船には人の気配がない。
甲板にも、見張り台にも、動くものは何もいない。
だが、カノアには視えていた。
船全体から立ち上る、濃密で、そしてどこか懐かしいような甘い魔力の気配。
それは、カノアの記憶の奥底にある「寂しさ」を刺激する色をしていた。
「……おいでおいでしてるな」
カノアは苦笑した。
船の側面から、古びた縄梯子がスルスルと降りてきたのだ。
誰もいないはずの船から。
まるで「乗れ」と誘うように、海面すれすれで揺れている。
「罠よ。間違いなく」
ヒルダが断言する。
この状況で現れる船など、ろくなものであるはずがない。
このまま逃げるべきだという警鐘が鳴り響く。
「ああ、罠だろうな。……でも、この岩の上で干からびるよりはマシだろ?」
カノアは流木を船に寄せさせた。
選択肢はない。
この霧を抜ける鍵は、あるいは食料や水は、あの不気味な船の中にしかないのだから。
「カノア……私、怖い」
ルミナがカノアの服を掴む。
カノアは彼女の手を握り返し、安心させるように笑ってみせた。
「大丈夫だ。幽霊だろうが怪物だろうが、俺が斬ってやる。……行こう。鬼が出るか蛇が出るか、拝んでやろう」
カノアが梯子に手をかける。
湿った木材の感触。ぬるりとした海藻の感触。
それは、彼らを「過去」という名の深淵へと引きずり込む、悪夢への入り口だった。
三人は覚悟を決め、霧に包まれた幽霊船へと足を踏み入れた。




