表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
49/120

49話 霧の監獄


 波の音が、世界を支配していた。


 ザザァ……ザザァ……。


 永遠に続くかのような、単調で、重苦しいリズム。

 カノアたちがグレンの転移魔法によって飛ばされた先は、絶海に浮かぶ小さな岩礁だった。


 そこは、島と呼ぶにはあまりに小さく、ただ海面から突き出した岩の塊といった風情だった。

 木一本生えていない。身を隠す洞窟もない。

 あるのは、ゴツゴツとした冷たい岩肌と、容赦なく吹き付ける湿った潮風だけ。


「……はぁ」


 ヒルダが岩の上に重く腰を下ろし、深いため息をついた。

 彼女の全身を覆うフルプレートアーマーは海水で濡れそぼり、関節の隙間には塩の結晶が白く浮いている。


 物理無効の加護を持つ彼女でも、自然の猛威――特に「錆」や「腐食」という概念までは完全には防げないのだろうか。その巨大な背中は、いつになく小さく見えた。


「ヒルダさん、大丈夫?」


 ルミナが心配そうに声をかける。

 彼女自身も、顔色は決して良くない。

 白い陶器の仮面の下では、アルカナでの激戦による疲労と、ここに来てからの過酷な環境で体力を消耗しきっているはずだ。


「ええ、平気よ。ただ……この湿気は、鉄の身体には少し堪えるわね」


 ヒルダは気丈に笑ってみせたが、その声には明らかな疲れが滲んでいた。


 無理もない。


 ここに来てから、すでに半日が経過している。

 太陽の位置すら分からない。空は分厚い乳白色の霧に覆われ、昼なのか夜なのかも判然としない「灰色の時間」が続いていた。


「カノア……お腹、すいたね」


 ルミナが力なく呟き、カノアの袖を引いた。

 カノアは何も言えず、ただ彼女の頭をポンポンと撫でることしかできなかった。


 食料も、水もない。

 周囲を見渡しても、魚影ひとつ見当たらない死の海だ。


 このままここに留まれば、ヴィオラと戦う前に、飢えと渇きで干からびて死ぬ。それだけは確実だった。


「……動こう」


 カノアは立ち上がった。

 身体中の古傷が悲鳴を上げるが、無視して『心眼エイドス』を凝らす。


 だが、見えるのは絶望的な光景だけだ。

 数メートル先すら見通せない濃霧。その霧には微弱な魔力が含まれており、カノアの索敵能力を乱反射させている。


 方向感覚が狂う。

 どこが北で、どこが南か。王都の方角など、知る由もない。


「動くって言っても、どうやって?」


 ヒルダが海を見つめる。

 鉛色の海面は凪いでいるが、底知れない深さを感じさせる。


「私は泳げないわよ。この鎧の重さじゃ、海に入った瞬間に海底まで一直線だわ」


「分かってるよ。……だから、あれを使う」


 カノアが指差したのは、岩礁の入り組んだ隙間に引っかかっていた、巨大な流木だった。


 どこかの船のマストだったのだろうか。太く、長く、そして塩水に浸かって腐りかけてはいるが、浮力はありそうだ。


「即席のいかだだ。……ヒルダさんと俺で、なんとか海に浮かべよう」


「……本気? あんな頼りない木切れで、この大海原に出るの?」


「ここにいたってミイラになるだけだろ? どの方角でもいい。とにかくこの霧を抜ければ、陸地か、あるいは他の船が見つかるかもしれない」


 それは、希望的観測ですらない。

 ただの悪あがきだ。

 だが、座して死を待つよりはマシだという思いが、三人を突き動かした。


 作業は困難を極めた。

 重い流木を岩場から引き剥がし、ツタの代わりにヒルダの鎧の装飾紐や、カノアたちの旅装束を裂いて縛り付ける。


 ルミナも、小さな手で一生懸命に結び目を固めた。

 数時間後。

 不格好だが、なんとか三人乗れそうな筏が完成した。


「……よし。行くぞ」


 カノアたちは筏を海に押し出し、乗り込んだ。

 ギシッ、と木が軋む音が不安を煽る。

 ヒルダが重心を取るように中央に座り、手頃な板切れをオール代わりにして漕ぎ出した。


          ◇


 海の上は、岩礁以上に不気味な場所だった。

 波はない。風もない。

 ただ、乳白色の霧が、生き物のように海面を這いずり回っているだけだ。

 オールが水をかく音だけが、静寂の中で異様に大きく響く。


「……ねえ、カノア」


 ルミナが、カノアの背中にしがみつきながら囁いた。


「なんか、怖い。……海の中、誰もいないみたい」


 カノアも同じことを感じていた。

 『心眼』で海中を探るが、魚一匹、海藻一つ見当たらない。

 生命反応が皆無なのだ。

 まるで、この海域そのものが死んでいるかのように。


「……大丈夫だ。俺がついてる」


 カノアは気丈に答えたが、冷や汗が止まらなかった。

 進んでも進んでも、景色が変わらない。

 白い霧。灰色の海。

 時間の感覚すら麻痺してくる。

 一時間漕いだのか、それとも一日経ったのか。


「……変だ」


 カノアが呟いた。

 違和感が確信に変わる。


「どうしたの?」


「いや……さっきから真っ直ぐ進んでるはずなのに、魔力の流れがループしてる気がするんだ」


 カノアの『心眼』には、自分たちが進んできた軌跡が、巨大な円を描いているように見えた。

 決して外へは出られない、閉じた円環。


「まさか……」


 ヒルダの手が止まる。

 霧が少し晴れた。

 その向こうに見えたのは、見覚えのあるゴツゴツとした岩肌。


「……嘘でしょ?」


 ルミナが絶句する。

 そこは、数時間前に命からがら脱出したはずの、あの岩礁だった。


「戻ってきてる……」


 ヒルダがオールを握りしめ、悔しそうに唸る。

 迷ったのではない。

 海流も、風も、そして空間そのものが、この岩礁を中心にねじ曲げられているのだ。


 まるで、ここから逃がさないという強い意志が働いているかのように。


「まるで『霧の監獄』だな……」


 ここはただの海域じゃない。

 強力な結界に守られた、天然の牢獄だ。

 物理的な移動手段では、一生ここから出ることはできない。


「どうするの? カノア」


 ルミナの声が震える。

 絶望が、霧のように心に染み込んでくる。

 水も食料もないこの場所で、永遠に彷徨い続ける未来。

 じわじわと真綿で首を絞められるような閉塞感が、三人の精神を蝕み始める。


 その時だった。


 ゴォォォォ……ン……。


 霧の奥から、重苦しい音が響いてきた。

 鐘の音だ。

 教会の鐘のような清らかさは微塵もない。

 古びて、錆びついて、水底から亡者が呻いているかのような、低く濁った音色。


「……何?」


 カノアが顔を上げる。

 『心眼』が、霧の向こうから接近してくる巨大な質量を捉えた。

 島ではない。生き物でもない。

 それは、朽ち果てた木材と鉄の塊。


 ズズズズ……。


 霧をかき分けて姿を現したのは、山のように巨大な帆船だった。

 かつては豪華なガレオン船だったのかもしれない。

 だが今は、帆はボロボロに破れ、船体はフジツボと海藻にびっしりと覆われ、原形を留めていない。

 マストの上には、何色ともつかないボロ布の旗が、風もないのに不気味にはためいていた。


幽霊船ゴーストシップ……?」


 ヒルダが警戒して身構え、ルミナを庇う。

 船には人の気配がない。

 甲板にも、見張り台にも、動くものは何もいない。

 だが、カノアには視えていた。


 船全体から立ち上る、濃密で、そしてどこか懐かしいような甘い魔力の気配。

 それは、カノアの記憶の奥底にある「寂しさ」を刺激する色をしていた。


「……おいでおいでしてるな」


 カノアは苦笑した。

 船の側面から、古びた縄梯子がスルスルと降りてきたのだ。

 誰もいないはずの船から。

 まるで「乗れ」と誘うように、海面すれすれで揺れている。


「罠よ。間違いなく」


 ヒルダが断言する。

 この状況で現れる船など、ろくなものであるはずがない。

 このまま逃げるべきだという警鐘が鳴り響く。


「ああ、罠だろうな。……でも、この岩の上で干からびるよりはマシだろ?」


 カノアは流木を船に寄せさせた。

 選択肢はない。

 この霧を抜ける鍵は、あるいは食料や水は、あの不気味な船の中にしかないのだから。


「カノア……私、怖い」


 ルミナがカノアの服を掴む。

 カノアは彼女の手を握り返し、安心させるように笑ってみせた。


「大丈夫だ。幽霊だろうが怪物だろうが、俺が斬ってやる。……行こう。鬼が出るか蛇が出るか、拝んでやろう」


 カノアが梯子に手をかける。

 湿った木材の感触。ぬるりとした海藻の感触。

 それは、彼らを「過去」という名の深淵へと引きずり込む、悪夢への入り口だった。


 三人は覚悟を決め、霧に包まれた幽霊船へと足を踏み入れた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ