48話 夜明けの素顔
波の音が聞こえる。
ザザァ……ザザァ……という、規則的で、どこか寂しい音。
カノアはゆっくりと意識を取り戻した。
背中に感じるのは、固い岩の感触と、湿った砂の感触。
風が磯の香りを運んでくる。
「……ここは?」
身体を起こすと、激痛が走った。
グレンとの戦いで負った傷は塞がっていない。魔力も空っぽだ。
カノアは『心眼』で周囲を探った。
そこは、切り立った崖の下にある小さな入江だった。
目の前には、見渡す限りの大海原が広がっている。
「……カノア!」
近くで声がした。
ルミナだ。彼女も砂浜に倒れていたらしい。
その横には、鎧の一部が砕けたヒルダが座り込んでいる。
「二人とも……無事か?」
「ええ。なんとかね」
ヒルダの声には力がない。
彼女は兜を外し、膝の上に置いていた。
その視線は、海の彼方――自分たちが飛ばされてきた方角に向けられている。
「……師匠は?」
カノアが問う。
分かっていた。
あの光の中、グレンだけが取り残されたのを。
自分の命を燃やして、転移魔法を発動させたのを。
「……いないわ」
ヒルダが静かに答えた。
「ここにあるのは私たちだけ。……グレン殿の気配は、もう感じられない」
沈黙が落ちる。
カノアは膝を抱え、波打ち際を見つめたまま動かなくなった。
泣き叫ぶことも、地面を叩くこともしない。
ただ、魂の色が急速に「無色」へと褪せていく。
絶望よりも深い、喪失の空白。
「……そっとしておきましょう」
ヒルダがルミナに小声で言った。
かける言葉が見つからない。今の彼にどんな慰めを言っても、それは刃物にしかならないことを、大人の彼女は知っていた。
「ううん」
だが、ルミナは首を横に振った。
「放ってなんておけないよ……辛いからこそ……そばにいなくちゃ」
ルミナは、カノアの隣に歩み寄った。
そして、何も言わずにそっと座った。
肩が触れ合う距離。
波の音だけが、二人の間を埋める。
長い沈黙の後。
カノアが、ぽつりと口を開いた。
「昔さ……師匠と一緒に海を見に行ったことがあったんだ」
独り言のような、掠れた声。
「ガキの頃、俺の目がまだ見えてた時だ。……師匠は言ったんだ。『カノア、海は広いぞ。お前の悩みなんて、この青さに比べりゃちっぽけなもんだ』って」
カノアは、見えない瞳で海を見つめた。
「あの人は豪快で、適当で……でも、誰よりも優しかった。……俺は、あの人の背中を追いかけて剣を持ったんだ」
言葉が詰まる。
喉の奥が熱くなり、心眼の映す視界が歪む。
「なのに……俺は……また、守られた……」
カノアが下を向く。
涙をこらえようと、歯を食いしばる。
その震える背中を見て、ルミナは胸に手を当てた。
言葉はいらない。
今の彼に必要なのは、冷たい理屈ではなく、温かな光だ。
ルミナは、静かに歌い始めた。
――ウゥゥ……アァァァ……。
それは、歌詞のない即興の子守唄。
母が子をあやすような、波音に溶け込む優しい旋律。
その歌声が響いた瞬間、カノアの『心眼』の世界が一変した。
暗闇に沈んでいた視界に、ぽっ、ぽっと、小さな光が灯り始めたのだ。
ルミナの歌声が、虹色の光の粒子となってカノアを包み込む。
その粒の一つ一つが、懐かしい記憶の形をしていた。
――大きな手で頭を撫でてくれる師匠。
――稽古をつけてくれる師匠。
――焚き火を囲んで笑う師匠。
光たちが、走馬灯のようにカノアの周りを舞う。
それは、失われた過去ではない。
カノアの中に確かに息づいている、愛された日々の証。
「……あぁ……」
カノアは、空中に浮かぶ光の粒に手を伸ばした。
触れることはできない。
でも、温かい。
ルミナの歌が、師匠の魂を「色」として再現し、カノアに伝えてくれているようだった。
『泣くな、カノア』
光の中で、師匠が笑った気がした。
『お前が見るべき景色は、もっと先にある』
カノアの瞳から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
こらえる必要なんてなかった。
ルミナの歌が、全ての悲しみを優しく溶かし、光へと変えてくれるから。
「……ありがとう、ルミナ」
カノアは涙を拭った。
歌声が止む。
光の粒子は、朝日の中に溶けて消えていった。
だが、カノアの『心眼』にはもう、迷いの色はなかった。
彼は立ち上がった。
海風が、彼の黒髪を揺らす。
「行こう。……ヴィオラの元へ」
その声は、力強かった。
師匠はもういない。
だが、その想いは、この胸と、そして仲間たちの歌声の中に生きている。
三人は並んで歩き出した。
目指すは海の向こう。その先に待つ、魔女ヴィオラ。




