43話 心眼の極意
地下納骨堂の冷たい石畳の上で、カノアは何度も転がされていた。
「遅い! なぜワンテンポ遅れる!」
ザインの怒声と共に、漆黒の鞭が空気を切り裂く。
カノアは必死に回避するが、頬に赤い線が刻まれる。
四方八方から、ザインが召喚した『影狼』たちが牙を剥いて殺到する。
影狼たちは「影」でできている。
実体があるようでなく、魔力の波長も周囲の闇と同化している。
カノアの『心眼』をもってしても、その輪郭はノイズのように揺らぎ、正確な座標を掴ませない。
ガブッ!
「ぐぁッ……!」
カノアの太腿に牙が突き刺さる。
激痛。だが、止まれば死ぬ。
カノアは剣を振るい、影狼を霧散させるが、すぐに再生して襲ってくる。
「ハァ……ハァ……くそっ、キリがない……!」
カノアは膝をつき、肩で息をする。
体力の限界はとっくに超えている。回復薬で無理やり動かしている身体は、悲鳴を上げ続けている。
「……カノア。お前の動きには、致命的な『ズレ』がある」
ザインは攻撃の手を止め、冷ややかな目で見下ろした。
「反射神経の問題ではない。お前は、敵が動いてから、それを認識するまでに無駄な処理を挟んでいるように見える。……一体、どういう見方をしている?」
鋭い指摘だった。
カノアは脂汗を拭いながら、自身の目の秘密を明かした。
「……俺の目は見えない。だから、風の音、熱の揺らぎ、魔力の色……それらを全部集めて、脳みその中で『立体映像(3Dマップ)』を作ってるんだ。俺はそれを見て動いてる」
「なるほど。情報を一度統合し、絵を描いてから動いているわけか」
ザインは納得したように頷き、そして残酷に切り捨てた。
「だから遅いのだ。お前が見ているのは、全て『過去』だ」
「過去……?」
「風が動いた、熱が生じた。……それは、敵がすでに動き出した『結果』だろう? お前は結果が発生するのを待って、それを地図に書き込んでから反応している。だから、情報を完全に遮断する黒騎士の『虚無』の前では、地図が空白になり、手も足も出なくなるのだ」
図星だった。
カノアのマップには、黒騎士の場所だけが「黒い穴」として表示されていた。
データが入ってこない。だから描画できない。だから予測できない。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ。情報がなきゃ、俺はただの盲人だ」
「情報などいらん。……『意志』を掴め」
ザインが鞭を構える。
「生物が動く時、肉体が動くよりも先に、必ず魂が動く。……殺そうとする意志。喰らおうとする飢餓感。その『始点』を感じ取れば、風が動くよりも早く、未来を知ることができる」
ザインの目が鋭く光る。
彼は調教師だ。言葉の通じない魔獣を従えるために、相手の表面的な動きではなく、魂の核にある「本能」を読み取って戦ってきた男だ。
その理論は、カノアの『心眼』とは全く別の領域にあるものだった。
「結果を見るな。……原因を掴め。それだけがお前の生き残る道だ」
「原因……」
「来るぞ。死ぬ気で感じろ」
号令と共に、影狼たちが巨大な一つの塊となり、漆黒の津波となってカノアに襲いかかる。
同時に、ザインの鞭が音速を超えて首を狙う。
逃げ場はない。マップ上では、全方位が「死」で埋め尽くされている。
死ぬ――。
その瞬間、カノアは理解した。
今まで自分が頼っていた「鮮やかな世界」が、実はただの塗り絵だったことを。
師匠が言っていた『見えないものを見ろ』という言葉の意味を。
(マップはいらない。……情報は邪魔だ)
カノアは、あえて『心眼』の画像処理を止めた。
色を見るのをやめた。形を見るのをやめた。
感覚を、闇の中に溶け込ませる。
怖い。
何も見えない。
だが、その虚無の奥に――微かな「火花」を感じた。
右。
そこから、鋭い殺意のベクトルが伸びている。
左。
獣たちの飢餓感が、渦を巻いて迫ってくる。
それらは、まだ風も揺らしていない。熱も発していない。
ザインの言う『意志』。
カノアにとってそれは、物理現象になる前の「因果の線」として感じられた。
(……そこか)
カチリ、と。
カノアの中で何かが噛み合った音がした。
世界が変わる。
闇の中に、鮮烈な「光のライン」が走った。
それは、ザインの鞭が通る未来の軌道。影狼たちが飛びかかるルート。
相手が動こうとする意志そのものが、カノアの脳内で光として視覚化されたのだ。
「――見えたッ!」
カノアが動く。
思考するより速く、身体が光のラインをなぞる。
ザンッ!!
一閃。
カノアの愛剣が、迫りくる影狼の群れを一太刀で両断した。
それだけではない。
その剣先は、影狼の背後に隠れていたザインの鞭をも弾き飛ばし、彼の喉元寸前でピタリと止まっていた。
「……!」
ザインが目を見開く。
初めて、彼が驚愕の表情を見せた。
カノアの剣は、ザインが「これから回避しようとした場所」に先回りして置かれていたのだ。
「……合格だ」
ザインは口元を歪め、ゆっくりと両手を挙げた。
カノアは剣を下ろし、荒い息を吐きながらその場にへたり込んだ。
「はぁ……はぁ……。死ぬかと……思った……」
「死んでいただろうな、あとコンマ一秒遅ければ」
ザインは短く笑い、結界を解いた。
納骨堂に、通常の空気が戻ってくる。
だが、カノアの視界は、以前とは全く違うものになっていた。
ザインの身体から、次の動作へ繋がる微かな光の予兆が常に見えている。
『心眼』。
その瞳は今、物理情報を超え、魂の形そのものを捉える領域へと踏み込んでいた。
「……化けたな、小僧。これなら、あの『虚無』も捉えられるはずだ」
「……今なら分かる気がする。師匠がどこにいて、何を考えてるのか」
カノアは自分の手を見つめた。
確かな手応え。これなら戦える。
「お礼を言うよ、ザイン。……スパルタすぎだけどな」
「礼には及ばん。私も、自分の目的のためにやったことだ」
ザインは懐から水筒を取り出し、カノアに投げ渡した。
そして、壁の燭台に火を灯しながら、独り言のように語り始めた。
「……知っているか? このアルカナの住人が、なぜ全員仮面をつけているのかを」
「え? ああ……素顔を晒すのが恥だからだろ?」
「それは表向きの理由だ」
ザインの影が、炎に揺らめいて長く伸びる。
「この街は、巨大な『蓋』なんだよ」
「蓋……?」
「住人たちに仮面をつけさせ、個性を殺し、感情を押し殺させる。……そうやって数万人の人間が『自分を殺す』ことで発生する負のエネルギーが、街全体を覆う強力な結界になっている」
ザインは、天井――その遥か上にある黒の城を見上げた。
「その結界の中心にいるのが、黒騎士グレンだ。……つまり、この街の住人全員が、グレンの強靭な自我を封じ込めるための重石にされているんだよ」
「な……ッ!?」
カノアは絶句した。
なんてふざけた話だ。
あの街の人々の奇妙なルールも、息苦しい空気も、すべてはたった一人の男――師匠の心を鎖で縛り付けるためのシステムだったというのか。
「師匠は……そこまでしないと抑え込めないほど、抗っているのか……」
「ああ。あいつの魂は、5年間片時も休まず、ヴィオラの呪いと戦い続けている。……だが、それも限界だ」
ザインがカノアを見る。
「お前が勝つということは、師匠を救うだけではない。この狂った街のシステムそのものを破壊するということだ。……背負えるか? その重さを」
カノアは立ち上がった。
重さ?
そんなもの、最初から背負う覚悟だ。
「当たり前だ。……背負うのは得意なんでね」
カノアの瞳――『心眼』が、決意の光を宿して輝く。
師匠を救い、街を解放し、そしてヴィオラへの道を切り拓く。
そのための刃は、もう研ぎ澄まされた。
「……リベンジマッチだ」




